『霞の庭』序章 狩猟と集落
1・君は何しにここに来たんだい
はるか遠い原始の時代から今日に至るまで、人は「狩猟」と「集落」を分担し生活していたのだと、律歌は思うことがある。
「狩猟」の組は、食糧を確保するために、精神を研ぎ澄ませ命懸けで戦う。
「集落」の組は、子孫の繫栄のために、極めて複雑な人間関係を構築する。
これはきっと、科学が進歩した現代でも変わらない。どちらかの血が体に流れている。そしてその血には決して抗えない。
どうしようもなく寂しさを感じるたびに、そう思う。
私は「集落」側の人間なのだと。人が恋しくて、人に会いたくて、話したくて、そうでなきゃ、息もできない。もしも、人に嫌われたかもしれない、と感じる出来事があれば、いてもたってもいられなくなり、良くも悪くもそのことが頭から離れなくなる。朝起きた時も、食事をしている間も、お風呂に入っている間も、寝る前も、寝ている時も。きっとこの力は、「集落」を構築する力。
(いらない……)
孤独だけで死ねるほど。
(いらないのに、そんな力)
自分には夢があった。いや、夢なんて美しいものじゃないかもしれない。人生を賭してでもやり遂げねばならないアイデンティティのようなもの。全精神を集中させて取り組まなければ実現しない野望。
(私は、目的を果たせられればそれでいいの)
たとえ、たった独りになってしまっても、それでも成し遂げる。そう誓ったほどの。
(でも、もう限界だって、血が叫んでる)
集落側の人間が、狩猟組に同行して、狩りを行っている。
(電卓、こっちを向いて)
電卓というのは、目の前に横たわる恋人のあだ名だ。計算機みたいに計算高い人間で、それと
彼には明確な野心がある。どこまでも高く出世したいという欲望だ。彼はICHIJO通信株式会社(通称:I通)に勤めるエリートサラリーマンで、出世するためならどんな試練だって乗り越える。きっと、血がそうさせるのだ。彼が望むと望まざるとに関わらず、目の前に課題が与えられれば、それをクリアしないと他に何も手が着かない。息ができない。もしも、達成できないかもしれない、と感じる出来事があれば、いてもたってもいられなくなり、良くも悪くもそのことが頭から離れなくなる。朝起きた時も、食事をしている間も、お風呂に入っている間も、寝る前も、寝ている時も。きっとこの力は、「狩猟」をする力。空虚なままでも生きてしまうほど。
それは律歌の目指す自分の姿そのものだった。
だから、この人と共にあることを決めた。
(だけど)
今日くらいは、こっちを向いてほしかった。
(半年ぶりに会いに来たのよ私)
半年間、当選だけを見つめて選挙活動を乗り越えた。そして晴れて、国会議員になったのだ。夢を叶えるには国会議員になるしかないと思ったから。始まる前も、終わった後も、電卓のことがよぎらない日はなかった。愛する人が傍にいない現実。振り払っても振り払っても、孤独の魔の手は律歌の心を蝕み続けた。やっと、やっと会える。お弁当を作って持っていこうと考えた時、幸福感に心が躍った。おにぎりはお花型。細巻きを五等分してお花の形に並べて、鮭の切り身の焼き魚に、エリンギのにんにくオイスター炒めと、にんじんのグラッセ。おつまみの銀杏も持ってきた。電卓の好物をぎゅっと詰め込んで。そして会えたなら、思いっきり甘い時間を過ごしたいと思っていた。
(ねえインターフェースを外して)
そんな思いが通じたのか、彼の右手が、三角帽子のナイトキャップを脱がし、そしてついに、その身を起こした。
「やあ、すまない。仕事が終わらなくてね」
眩しさに目をぱちぱちさせながら、電卓がやっとこっちを向く。半年の間で少し歳を取ったかな? 二九の自分と同じ歳。帽子をかぶっていたために黒髪が跳ねている。でも、仕事を頑張った君はかっこよくて、可愛いよ。
「君も忙しいみたいだし、一分一秒だって無駄にしたくないだろうけど、待っている間に仕事は捗っていたかい……って、あれ?」
動かないでじっと電卓を見つめている律歌と、机の上に広げられている手料理を、不思議そうに眺めて、
「律歌、君は何しにここに来たんだい」
ぽかんと訊かれた。
何しにって、何しにって……そりゃ、半年ぶりに、あなたに、会いにきたんでしょう!
そう言いたかった。けれど、
――ニュース読んだよ。おめでとう。
そんなLINEが届くと共に送られてきた記事を思い出した。
【衆院選】RSシステム開発者 末松律歌(29)比例復活
一〇月二七日に行われた第六X回衆議院議員総選挙にて、愛知七区から立候補した
白い手袋でマイクを握り、清楚な黒髪ストレートを揺らして、花のようにフレッシュな笑顔を振り撒く若手女性衆議院議員候補、
当選した時は嬉しくて、希望に満ちていて、得意げに、電卓にさんざん夢を語った。
――選挙戦も大変だったけど、これからまた忙しくなるわ。私はこの世から過労をなくすために、できることを全てしてみせる。
――ああ。お互い頑張ろうな!
――関係者に挨拶がしたいから、すぐに上京する。あなたの家に泊めてね。
――いいよ。
たしかに律歌は、遊びにいくとは、言っていなかった。
「挨拶は終わった?」
「これからよ。行ってくる」
「オーケー。俺はもう少し仕事をしようかな。それじゃ」
彼の目には、ニュースの写真のように一番かっこよく煌めいていたはずの私が映っていた。何もせずぼうっとしている私の方こそ変な姿だと感じているように、インターフェースを被って遮断されてしまう。でも、律歌自身、前者であろうとしてきた。彼の仕事が終わるのを、彼の横顔をじっと眺めて待っている恋する乙女なんて、この場にいる誰も望んではいなかった。
律歌は立ち上がり、ようやく会えた恋人の家を、見送りもなく出る。まだ冬半ばなのだと実感する寒さだ。永田町へと電車を乗り継ぐ間、たった一言の短い会話が、脳内をリフレインしていた。
――君は何しにここに来たんだい?
――私は、国を変えるためにここに来たのよ。
そう答えればよかった、と、思った。
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