『霞の庭』第一章 国会議員 末松律歌

1・国会閉会

 *


「大丈夫ですか、末松先生」

 秘書の川橋が、長身を折ってこちらを覗き込む。

「ちょっと、昔を思い出していただけ。心配ないわ」

 衆議院議員になった頃。あの日の苦くもひたむきな決意が、顔に出ていたらしい。あれから、国会の仕事に追われて電卓とは全然会っていない。これで、いいのだ。そう自分に言い聞かせる。

「さ。最後のお勤め、頑張ってください」

「うん。行ってくる。ありがと」

 議員バッチがスーツの襟にあることを確認し、腰のリボンをキュッと締め、衆議院本会議場の前時代的な扉を押し開く。取っ手には複雑な飾り模様の凹凸がある。建造物のホログラム装飾が使い物になってきた現代、中世ヨーロッパ風の凝ったデザインが増えたが、国会議事堂はリアル装飾にしておとぎ話に出てくるお城のようである。午後〇時四十五分。席に着き、末松律歌と書かれた黒い名札を立てた。これは氏名標といい、また古いものだ。国会ができてからずっと同じものが使われている。上から漆を塗って、その上に白いエナメルでまた書いて、歴代の国会議員達の名を重ねてきた。その上に自分の名もまた。末松律歌、二九歳。与党・尾連自おれんじ党の党員である。律歌には、この世から過労を根絶するという夢がある。絶望的となってしまったこの国から。今日は通常国会の最終日。一月に開会してから一五〇日が経過したということ。国会議員に立候補して、政党に加入して、厚生労働委員会になって、この国を本気で変えるつもりで過ごしてきた。

 現代、日本は大変なことになっている。二〇代から五〇代の死因一位はぶっちぎりで過労死だ。国民全員が追い立てられるように働きまくって死にまくっている。しかし衆議院本会議が始まり、目の前で繰り広げられているのは、

「日程第四、企業自治に関する法律案を議題といたします。委員長の趣旨弁明及び報告を求めます。厚生労働委員長安田幸次君」

「ただいま議題となりました企業自治に関する法律案につきまして、厚生労働委員会より報告いたします。本案は、企業による自治を国が認可するものであります。現在わが国では、企業による治外法権により成り立っている現状があります。そこで、企業の自治を正式に国が認可することで、監視体制を作り、企業の暴走を防ぐ狙いがあります。以上、ご報告申し上げます」

 企業の圧政を国が正式に認める?

 こんな改悪、絶対に許されない。

 これでは従業員はどんどん会社に逆らえなくなってしまうではないか。企業自治の違法性こそが、社員を守る最後の砦だった。違法者を罰する国の力が、既に失われているとしても。

「採決いたします。本案を委員長報告の通りに決するに賛成の諸君の起立を求めます」

 律歌の四方八方から、議員たちが勢いよく立ち上がる。そして集中する、刺すような視線。

 律歌の所属する与党・尾連自党の方針としては、「賛成」だった。各企業から派遣された議員が多数在籍し、企業に有利な法案を進めようとしている。

 企業は力をつけ、企業内の治外法権化はどんどん進んでいっていた。治外法権化とは、つまり、企業の中に独自の法律が作られるようになったようなものである。社長が王様で、王様が社則ルールを制定し、従業員に守らせる。違反者はクビという名の死が待っている。ここまで企業が力を持ちすぎてしまった現代においてクビは本当にそのまま死を意味してしまう。国家による生活保護なんてもう機能していない。企業から排出された議員がそうさせたのだ。

 各企業は吸収合併を繰り返し、今や独立国であるかのようにそれぞれの地域を統治していた。まるで戦国時代に戻ったみたいに。各地方を統治する小国。広大な敷地内に社員を住まわせ、能力に見合った衣食住を与え、生産性を競わせる。社員は過労により、バタバタと死んで脱落する。働きすぎて死んでいる。

 国民は諦めている。過労死か、国外追放クビによる死か。そのどちらかしかないと。

(私は過労を根絶するために国会議員になった)

 賛成できないものはできない。

 自分の立場は「反対」だ。

 だけど今、反対表明したところで、どの道、決定は覆らない。

(力が足りない……)

 尾連自党は強大な与党なだけあって、様々な主義主張の議員が所属している。多くは企業から遣わされた議員だが、過労を減らすことを掲げる議員も少数ながらいる。彼らは席を立って本会議場を出ていった。着席したままでは反対にカウントされてしまうからだ。党にとって反対の罪は重い。党の決定に逆らった者は解散時に除名・離党勧告されることは間違いない。もちろん棄権だって厳重注意が入り、目をつけられる。

 末松律歌も、もともと高い知名度があったことと、意図せず経済効果に貢献したことで、今の議席を獲得している。過労をなくしたいという主張は今のところ黙認されているが、企業利益に反する活動が目立ちすぎると排斥されることは自覚して、抑えている。

(反対は……私には……まだ、できない……)

 悔しさにくらみそうになる足をなんとか動かし、棄権するためロビーに出る。党に対する言い訳を用意しながら――「とても賛成だが企業にとっての利益を考えると今はまだ時期尚早だと思った。あくまで企業のためを思うと」なんて、しばらく主張しなければならないだろう――。バタンと閉まった扉の向こうから、

「起立多数。よって、本案は委員長報告の通り可決いたしました。厚生労働委員会につきましては以上となりまして、日程第五――」

 という年老いた議長のしゃがれ声が聞こえた。

 決まってしまった。

 律歌は自分の無力さに打ちひしがれ、寄る辺を求めるように視界の中に秘書川橋の姿を探す。と、手に持っていた鞄の重さがふっと消えた。傍にはいつの間にか、長身痩躯が立って、鞄を持つのを肩代わりしてくれていた。

「川橋ぃ……」

 幼稚園バスを迎えに来たママに甘えるような気持ちで泣きついた。川橋は片膝をついて、櫛を取り出すと、律歌の前髪を整えながら言う。

「よく我慢しましたね」

「ほんとはいやだったわ……」

「存じております」

 だから褒めてくれているんだろう。

「私も、もっともっと先生の政策が見たいですから」

 すっすと櫛が髪を通るたび、胸の内のわだかまりが、一緒に少しだけ解けて流れていくような感じがする。

 川橋かわはしりゅう。四二歳。律歌の秘書になるまでは尾連自党の元衆議院議員山田実次の第一秘書だった。この世界を二〇年渡り歩いてきたベテラン秘書官だ。半年前の解散総選挙で山田が落選し、入れ替わるように当選した律歌の公設秘書となった。新人議員である律歌は経験のある秘書を求めていたが、面接をしていく中で、秘書の経歴が長い者はどこか慇懃無礼だったり、こちらをコントロールしようとするものを感じて悩んでいた。そこへやってきたのが川橋だった。彼は経歴も申し分ないのに物腰が丁寧なだけでなく、尾連自党の若き変わり種、末松律歌という政治家を尊重してくれたし、律歌の掲げる政策にわくわくしているようにみえた。

 よし。

「とにかく、今回は呑み込む。けど、このままにはさせない」

 過労をなくすことが、自分の使命だ。すべての時間、力、勇気は、そのためだけに使ってみせる。立ち直った律歌は、棄権するためロビーに出てきている三名の先客――中堅二人と新人が一人、彼らももう見慣れた面子だ――に、

「考えてくれました?」

 と、声をかけて回った。

「私が議員立法をするから、その時は力を貸してほしいんです。過労をなくして、家族団欒を実現するために」

 会期中何度もお願いしてきた話だ。

 日本で成立する法律案のほとんどすべては、内閣が提出する内閣法だが、それでも議員個人だって法律案を発議することができる。それが議員立法だ。律歌は過労が常態化した今の日本を変えるために、時機を見て立ち上がるつもりでいた。しかしそのためには衆議院では二〇人以上の議員の賛成、参議院では一〇人以上の賛成が必要であり、予算が伴う場合には衆議院で五〇人以上、参議院で二〇人以上の賛成が必要となる。衆議院議員末松律歌の目指す家族団欒のための法案には莫大な予算が必要になるのでMAXの五〇人以上の賛成が必要というわけだ。企業に味方する形に偽装して政治家を続けている今、すぐにとはいかなかったが。

 一人目が言う。

「正直ね、無理だと思うよ。企業自治法まで決まっちゃったんだ」

 畠中はたなかただし議員。尾連自党議員の中でも過労を減らすことを一五年も前から掲げてきた議員だ。馬のような面長のしわがさらに深くなっている。

 そして二人目も。

「企業に不利な法案なんて、通るわけない」

 四十前半の中村なかむらさとる議員。同じく尾連自党。言葉とは裏腹に、国民救済を掲げる積極的な活動家だ。

 そして中村の大学の同期だったという三人目の藤原ふじわら雄一郎ゆういちろうは、彼の陰に隠れて俯いて頷くだけ。二人が親しくしているのを律歌も見てきた。

「でも、このままじゃ、国民は働きすぎて死んでいくばかりです」

 律歌が言うと、畠中議員が肩をすくめた。

「そりゃ俺だって、国民の味方としてここに立っているつもりだ。でも」

 疲れたような遠い目で、続ける。

「国民が諦めている。それが全てさ」

 その通りだった。

 国民の意識を変えなくては始まらない。国民は現実に失望し、失業に怯え、困窮に喘ぎ、過労を受け入れている。

 何か、本当に何か手はないのか。暗中模索。暗雲立ち込めるこの国に、一筋でも希望の光を見せることはできないのだろうか。いや、見せなくてはならない。それが政治家としてここに立つ末松律歌の使命だ。でも、どうしたらいい。企業に不利なことをすれば排斥され、身動きさえもできない。過去の知名度と、経済成長に貢献したという不本意な功績により、お飾りのような立ち位置でどうにか政界に入ったものの、やれたことといえばこうして、優しい秘書の待つ議事堂のロビーへ逃げ帰ることだけだ。

(電卓、私、どうしよう……)

 胸の中に想い描いてみて、ますます気が重くなった。彼は決して、集落の中で癒してなどくれない。焚火を囲む車座に彼の席は相変わらず無いし、狩人のようなその目はやはり、獲物しか見ていない。そして律歌も、そうすべきなのだ。

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