第37話『君のことを。』

 樋口さんとの一件が終わった後は、せっかく黒川市まで来たので、伊織や瀬戸さんの案内でお昼ご飯を食べたり、オススメの場所に観光をしたりした。黒川市は始めて訪れた場所なので、ちょっとした旅行気分にも浸れた。

 みんな楽しそうだったな。緒方と瀬戸さんの距離が縮まっていたり、写真が好きだと言って浅利部長がデジカメで逐一写真を撮っていたりするなど、新たな発見があって面白かった。

 行きと同じように天宮先生の運転するレンタカーで白花市へと戻る。白花高校に到着したときには午後8時を回っていた。


「それじゃ、今日はみなさんお疲れ様でした! 月曜日にまた元気に学校で会いましょう。これにて解散!」


 という天宮先生の言葉で僕らは白花高校の正門前で解散した。もちろん、僕は伊織と2人きりで自宅の方に歩き始める。


「この道も慣れてきたのに、何だか初めて歩いたような気がするよ」

「日が暮れたからじゃないかな。学校の周りはまだしも、僕や伊織の家の周りは結構静かだから夜は気を付けてね」

「……うん、気を付けるね」


 夜、近所で女性が襲われたという話は聞いたことはないけれど、世の中、何が起こるか分からない。特に伊織は可愛いからより気を付けた方がいいだろう。


「今日、みんなでご飯を食べたり、観光したりしたでしょ。産まれてから先月までずっと住んできた街だったのに、凄く新鮮な感じがしたんだ。もちろん、とても楽しかった。これも、真澄からのいじめに対して、ちゃんと決着を付けることができたからだと思う」

「そっか。そのお手伝いができたなら僕は嬉しいよ」


 思い返せば、伊織はとても楽しそうにしていたな。もちろん、僕も楽しかったし、みんなも楽しそうだった。黒川市へ日帰り旅行に行った感じだ。


「千尋がいてくれたから、安心して今日を迎えられたんだよ。もっと後だったら分からなかったけれど、今の私には彩音だけじゃ不安だった。千尋達がいたから真澄と再会して、想いを伝えることができた。本当にありがとう」

「……どういたしまして」


 その一言で、伊織と出会ってから今日までの時間が正しかったと思える。

 伊織もどんな言葉を言えばいいか迷っているのか、その後は無言で歩き続ける。ただ、繋いでいる手から、彼女の確かな温もりが常に感じているからか、無言でも特に気まずくはなかった。


「……あっ、もうすぐ僕の家だ」


 母親に帰りが遅くなるから夕飯はいらないと言っていたけれど、結局、夕方に黒川市のご当地スイーツを食べて以降、何も食べていないな。


「ねえ、千尋」

「うん?」

「……実はうちの両親、今日から1泊2日の旅行に行っていて。今夜は私だけなの。だから……千尋さえ良ければ、私の家に泊まりに来ない? ううん、泊まりに来てよ。今夜はずっと千尋と一緒にいたいの」


 そう言うと、伊織は上目遣いで僕のことを見てくる。今も手をぎゅっと握っているのに、彼女の真剣な眼差しが僕を更に彼女に引き寄せられていく。僕の答えはもう決まっている。


「分かった。じゃあ、今夜は伊織の家に泊まらせてもらうよ」

「うん!」


 伊織はとても嬉しそうな表情をして、僕を抱きしめてきた。夜なので人通りなんてほとんどないけれど、外で抱きしめられると恥ずかしい。


「じゃあ、伊織。両親にこのことを話して、着替えとか荷物を纏めたいから一旦、別行動にしようか」


 荷物については何かあったら、徒歩1分もかからないのですぐに自宅に戻れるけれど、夜中に戻るようなことは避けたいからね。


「分かった。じゃあ、お風呂とか夜ご飯の用意をしておくね」

「了解」


 僕は伊織と一旦別れて自宅に戻る。

 両親に伊織の家に泊まることを伝え、僕は寝間着や翌日の着替えなど荷物をまとめていく。

 泊まりに行くところは家から歩いて1分もかからないところなのに、バッグに荷物を入れると遠くへ旅行に行く気分になる。

 荷物を纏めるとさっそく伊織の家と向かう。

 インターホンを鳴らすとエプロン姿の伊織が玄関から出てきて、


「おかえりなさい、千尋。ご飯にする? お風呂にする? それとも……わ、わたし?」


 別れてから15分くらいしか経っていないのに、伊織にとっては何年も気分を先取しているようだ。ただ、いずれは僕らにこういう未来が待っているのかなと思わせてくれる。


「ただいま、伊織」


 どれも魅力的ですぐには決めることができず、とりあえずただいまって言ってみたけれど、何だか恥ずかしくなってきた。


「お、おかえりなさい。それで……どれにするの?」

「そうだね。まずは……ご飯がいいな。お腹が空いちゃった」

「千尋ならそう言うと思っていたよ。夕方から何も食べてなかったもんね。温かいそばにしようかなって思っているんだけど」

「おっ、いいね」

「ふふっ。さっ、中に入って」


 僕は伊織の家にお邪魔する。これまでに何度も来たことがあるけれど、泊まるのは初めてなのでちょっと緊張するな。

 僕らはリビングで伊織の作った温かいそばを食べる。


「美味しい?」

「うん、美味しいよ。温かいから体に優しいし」

「そう? ていうか、千尋の言うことがお年寄りみたいで面白い」


 それがツボだったのか伊織の笑いは爆笑へと進化する。僕には面白さがいまいち分からないけれど、伊織の笑顔が見られたので気にしないでおこう。

 食事が終わるとすぐに伊織の部屋へと向かう。夜に来るのは初めてだから、いつもとちょっと違った雰囲気だけれど、これから伊織と2人きりでいられると思うと安心する。

 僕は伊織と寄り添うようにしてクッションに座った。その際、伊織の方から僕の手をぎゅっと握ってくる。


「ねえ、千尋。……今日になって、ようやく気持ちをはっきりさせることができたんだ」

「うん」

「真澄に立ち向かったときのような男の子らしさも、美味しい物を食べたときやワンピースを着たときに見せる女の子らしさも、どれも千尋の素敵なところなんだって。そんなところが大好きなんだって思ったんだよ。私は、沖田千尋という人が本当に好きです。だから、色々な千尋を見ていきたいし、ずっと一緒にいたい。気が早いとか大げさだって笑うかもしれないけれど、私を千尋の奥さんにしてください」


 頬を真っ赤にしながら、伊織は僕に素直な気持ちを告白してくれた。

 言葉に乗せられた伊織の想いは僕のことを温もりで満たしてくれる。こんなことは今までになかった。


「わ、私……何か傷つけるようなこと言っちゃったかな?」

「えっ?」

「だって、涙が……」


 目元を触ってみると、確かに手が涙で濡れていた。


「傷つけるようなことなんて言っていないよ。凄く嬉しいから、気付かない間に涙が出ちゃったんだよ。まあ、今からプロポーズは早いけれどね」

「ふふっ、それなら良かった」

「……本当に嬉しいよ。これまで心が女であることを隠して、男として生きていた。男として相手をされることも嫌じゃなかった。本当のことを打ち明けて、恐れていたように僕を気持ち悪く見る人もいた。けれど、こんなに大好きな伊織が僕という存在が好きだとか、ずっと一緒にいてほしいって言ってくれて。それが僕はとても嬉しいんだよ」

「千尋……」

「伊織は僕のことを引っ張ってくれた。その素直さと、明るさと、笑顔に……僕は救われたんだよ」

「……私こそ。千尋が側にいてくれたから、こうした時間を送ることができているんだと思っているよ」

「伊織……」


 男として生きよう。そっちの方が楽に生きられそうだ。

 そう思いながらも、僕はきっと、心と体の性別が違う自分のことを、誰かに認めてほしかったんだ。だから、本当のことを知った上で、伊織が僕を好きであると分かって凄く嬉しいんだと思う。そんな嬉しさと同時に開放感にも溢れていた。

 僕は伊織の手をぎゅっと握って、彼女のことを見つめながら、


「……伊織のプロポーズ、喜んでお受けします。僕は伊織のことが大好きだよ。戸籍上は男だから、僕は伊織の夫になるのかな」

「うん、そうだね。じゃあ、このことについて誓いのキスをしようよ」

「まるで結婚式みたいだ」

「ふふっ。何度でも誓っていいんじゃないかな。一度でも、誓ったことを破っちゃダメだけど」

「そうだね。……好きだよ、伊織」

「私も千尋のこと大好き」


 伊織を抱きしめ、僕からキスをした。ずっと一緒にいるという約束をお互いの体の奥底に刻み込むかのように、激しく舌を絡ませながら。

 やがて、唇を離すと、そこには満面の笑みを浮かべた伊織がいる。それがとても幸せに思える。


「ねえ、千尋。これで私達はどういう関係になるのかな」

「……結婚を前提に付き合っているカップルかな。お互いに大人だと、事実婚とか内縁とか言いそうだけど、僕も伊織もまだ15歳だからね」

「私達はまだ高校に入学したばかりだもんね」

「そうそう。……ところで、伊織。話が変わるけれど、どうして今日は初デートのときに買ったワンピースを着たの? ずっと気になっていて」

「……千尋との思い出の服だし、この服を着ていると勇気をもらえるから。きっと、真澄にも自分の気持ちを言えると思って」

「そういうことか」


 ただ、このワンピースを着た伊織と一緒に黒川市を観光できたのは嬉しかったな。今日は緒方達も一緒だったけれど、今度は伊織と2人きりでどこか遠くに行ってみたい。もうゴールデンウィークも近いし。


「ねえ、千尋。そろそろ……お風呂に入らない? もちろん一緒に」

「……分かった。一緒に入ろうか」


 この家に来たときの伊織のセリフからして予想はしていたけれど、いざ誘われると緊張する。今日は色々とあったけれど、まだまだ終わりそうにない。

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