第32話『消えなかった気持ち』

 午後5時20分。

 夕陽の茜色が段々と濃くなっていく中、僕は伊織の自宅の前に到着した。さすがに、道路からだと、伊織が家に帰ってきているかどうか分からないなぁ。

 こうなったら直接確かめる他はない。インターホンを押す。

 ――ピンポーン。

 誰が出てくれるといいんだけれど。


『は、はい……』


 おっ、伊織の声だ。昨日の朝以来だけれど、随分と久しぶりに聞いた気がする。伊織の声を聞くと安心できる。


「千尋だけれど」

『えっ、ち、千尋? どうして……』

「さっき、コンビニに行ったら新発売の抹茶味のチョコレートが売ってたから、伊織と一緒に食べたいなと思って」


 それは本当の話だ。甘いものを食べれば少しは元気が出るかもしれないと思い、ここに来る途中に立ち寄ったコンビニで買った。茶道部に入ったわけだし、こういう形で抹茶に慣れるのもありだと思う。


『チョコレートかぁ……ちょっと待っててね』


 どうやら、伊織と会えそうだ。

 程なくして伊織は玄関から出てきた。デニムにパーカーというラフな恰好だ。そんな彼女は浮かない表情をしている。


「千尋……」

「……学校で色々とあったみたいだね。だから、伊織とゆっくり話したいと思って。お菓子でも食べながらさ」

「……そっか。ここだと何だから上がって。部屋でゆっくりと話そうか」


 伊織はそっと僕の手を掴んで、僕を家の中に招き入れた。そのまま彼女の部屋へと通される。

 ベッドに寄り掛かるようにして、僕と伊織は隣同士に座る。隣に伊織がいるのはやっぱりいいな。


「チョコ、どんな感じかなぁ」


 コンビニで買ってきた抹茶味のチョコレートを1粒食べる。抹茶の苦味とチョコレートの甘味のバランスが絶妙で美味しいな。


「美味しいね、伊織」

「……うん、美味しい」


 そう言うと、伊織は微笑む。やっぱり、甘いものを口に含むと少しは気分が良くなるみたいだ。

 そんな伊織の笑顔が消えてしまうかもしれないけれど、さっそく本題に入ることにしよう。


「ねえ、伊織」

「うん?」

「……実はさっき、緒方と一緒に瀬戸さんの家に行ってきたんだ」

「そうなんだ。彩音の家に……」


 さっきまで浮かべていた僅かな笑みが消える。彼女に絶交すると言ったときのことを思い出しているのかな。


「じゃあ、知っているんだね。彩音が千尋のカミングアウトの内容を漏らしたことや、私が彩音に絶交するって言っちゃったことも……」

「うん。それを緒方から聞いたから、瀬戸さんから話を聞くために、彼と一緒に行ってきたんだよ。瀬戸さんは、僕の心が女性であると隠していたのが許せなかったらしい。中学時代に伊織をいじめていた樋口真澄さんと重なったからって。僕のことを魔女だって言ってたよ」

「そんなこと言ったんだ。あと、樋口真澄……か。久しぶりに耳にしたな、その名前」


 伊織は急に怯えた様子になり、体を震わせる。瀬戸さんでさえも詳しく知っていたほどだ。いじめを受けていた本人である伊織は当然、そのことを鮮明に覚えているだろう。


「ごめん、思い出させちゃって」

「大丈夫だよ……大丈夫だから」


 自己暗示を掛けているのか大丈夫、大丈夫……と呟いて、伊織の体の震えは段々と収まっていった。もしかしたら、当時から何かあったときは今のように大丈夫だと自分に言い聞かせていたのかも。


「でも、千尋は真澄とは全然違うよ。雲泥の差。比べものにならないくらいに千尋の方がいい人だよ」

「……伊織がそう言ってくれるとちょっと安心するよ」

「それにしても、私……中学時代にいじめられていたとは言ったけど、真澄の名前は言わなかったよね。じゃあ、彩音がいじめのことを詳しく話したんだ……」

「僕や緒方が詳しく知りたいと思って彼女に訊いてみたんだ。一通りの話は分かっているよ。伊織はその……樋口さんの身勝手な理由でいじめられたというか。瀬戸さんから話を聞いたときにはイライラしたよ」

「花園夏樹君だっけ、同じ学年の。彼が私を好きだったらしいね。彩音が教えてくれたんだ。彩音、私が不登校になっているときに頑張って調べてくれたみたいで。真澄が何を考えて、一連のことを行なったのかは彩音から聞いたよ。まあ、花園君と付き合い始めたのを知ったときに、彼絡みでいじめられたんだとは思ったけど……」


 さっき、僕に話してくれた内容は、当時の瀬戸さんが頑張って調べたことだったのか。

 今の伊織の反応からして、伊織は花園君のことを同じ学年にいた男子生徒くらいの認識だったんだな。


「真澄から告白をされて、お互いに自分は相手のものだからずっと一緒にいようっていう約束をされて、恋人としての時間を過ごした。でも、それは全て花園君と付き合うための嘘だった。花園君が想いを寄せていた私を壊すために。彼が私に近づかないように。本当に身勝手な理由だなと思ったよ」


 それは同感だ。緒方も言っていたけれど、伊織があまりにも可哀想だと思った。


「不登校になったけど、彩音と一緒に受験勉強を頑張って、一緒に合格できて、新しい生活をスタートできたから過去を断ち切って、気持ちも切り替えられると思ったのに。でも、実際には今も囚われ続けている。ただ、遠くにいるからどうすることもできない。本当に弱い人間だよ、私は……」


 ¥伊織は涙をポロポロと涙を流し始める。


「だから、千尋と彩音のことを傷つけちゃったんだ」


 自分の受けたいじめがなければ、僕がカミングアウトをしようかどうか迷わずに済み、今のような状況にはならなかったと思っているのだろう。そして、僕のカミングアウトを漏らしたと瀬戸さんが自白し、伊織は彼女に絶交することにもならなかったと。


「過去に起きたことはもう変えられない。でも、これからの行い次第で過去について決着を付けられる。瀬戸さんに絶交すると言ってしまったことはもちろん、伊織の受けた樋口さんからのいじめからも」

「千尋……」

「もちろん、今すぐじゃなくていいと思う。ゆっくりと考えていこうよ。僕で良ければ一緒に考えるからさ」

「……ありがとう」


 ただ、決着を付けるためには、瀬戸さんの協力なしではおそらくできないだろう。ゆっくりでいいから、まずは伊織と瀬戸さんの仲を元通りにすることからかな。


「ねえ、千尋」

「うん?」

「……今でも、千尋のことをどうやって見ればいいのか分からない。でもね、不思議なんだけど、千尋が好きだっていう気持ちはなくならなかったんだ。都合がいいって思うだろうけど」

「そんなことないよ。むしろ、嬉しい。好きだって気持ちが一度も無くならなくて。実は僕、伊織からいじめの話を聞いたときに、伊織のことが本当に大好きなんだって自覚したから。昨日の朝、学校から帰ってからも伊織のことばかり考えてた。笑顔の伊織が夢に出てくるくらいに」

「……そ、そうなんだ。段々と恥ずかしくなってくるよ……」


 伊織の顔が赤くなっていく。段々といつもの伊織に戻ってきたな。やっぱり、伊織はとても可愛い女の子だ。


「ねえ、伊織。……キスしてもいい?」

「……うん。いいよ」


 伊織はゆっくりと目を閉じたので、僕の方からキスをする。そのことで伊織の温もり、匂い、柔らかさを久しぶりに感じる。

 唇と離すと伊織と至近距離で目が合い、


「……もっと」


 伊織が呟き、今度は彼女の方からキスをしてきた。ああ、伊織とまたこうしてキスをすることができるなんて。本当に嬉しい。


「……私、千尋といれば、どんなことでも乗り越えられそうな気がしてくるよ」

「……そうか」


 その想いに応えられるように頑張りたいな。それに、僕も伊織と一緒なら何があっても大丈夫な気がしてくる。

 その後も僕は伊織と寄り添い、何度もキスをして、伊織の気持ちをほぐしていく。


「やっぱり、千尋は真澄と違う。一緒にいて、キスをするとこんなにも気持ちが温かくなって、愛おしい気持ちが膨らんでいくよ」

「……そっか。僕が好きになったのは伊織が初めてだから、伊織は僕を幸せな場所に連れて行ってくれている気がする。僕をどんな風に見たっていいよ。でも、これまで消えなかった僕への好意を、これからもずっと抱き続けてほしい。……ごめん。今も伊織は悩んでいるのに、それってとても我が儘なことだよね」

「……そう言う人はいるかもね。でも、千尋が私にわがままを言ってくれることがとても嬉しいの。そう思えるから、きっと大丈夫だと思う」

「じゃあ、約束のキスをしてくれるかな」

「……うん」


 約束のキスを伊織からしてもらったとき、かつての伊織に大分戻ってきていると思えた。僕がいれば大丈夫だと思ってくれるようになったのかな。


「……千尋こそ、私のことを好きでい続けて。千尋のことを信じてるから」

「……うん」


 伊織が側にいて信じてくれていることが嬉しい。そんな彼女をより安心させたい。様々なことを想いながら、僕は伊織をぎゅっと抱きしめるのであった。

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