第22話『ホロ苦ナミダ』
僕は天宮先生と一緒に茶道室へと向かっている。
吹奏楽部の練習なのかな。小さいけれど、演奏の音色が聞こえてくる。
「放課後になると生徒があまりいませんよね、ここ」
「特別棟だからね。部活で用がある生徒以外はほとんど来ないから」
「そうですか」
白花高校の校舎は教室棟と特別棟によって構成されている。クラスの教室や職員室、カミングアウトの舞台となった自習室がある棟が教室棟で、茶道室や音楽室、家庭科室などの教室がある棟が特別棟。選択科目や部活によっては、特別棟に来ることがほとんどない生徒もいると思う。
「もう5時過ぎですけど、伊織……大丈夫ですかね」
「きっと大丈夫よ。千佳ちゃんや朱里ちゃん達もいるし」
「……そうですね」
仮入部期間が終わってから初めての活動日だ。今日からさっそく、伊織は茶道の作法を先輩達から教えてもらっているかもしれない。
茶道室に到着する。扉を開けるのをちょっと躊躇ったけれど、いつまでも扉の前で立ち止まるわけにはいかない。
ゆっくりと扉を開けると、その音で気付いたのか伊織達はこちらを向く。
「みなさん、こんにちは」
「やっと来たね。千尋、勉強のお悩みは解決できた?」
「ま、まあね」
そういえば、伊織には先生に勉強のことで相談したい、ということになっていたんだっけ。実際に天宮先生は今後どうするかについての考え方を教えてくれたけれど。
「伊織ちゃん。仮入部期間が終わって初めての活動だけれどどうかな?」
「相変わらず、抹茶は苦いなぁと思って」
「ふふっ、抹茶は苦いよね。伊織ちゃんの場合は茶道の作法もそうだけれど、まずは抹茶の味に親しんでいくことから始めた方がいいかもね」
「そう思って、今日は上級生みんなで伊織ちゃんに抹茶を点ててあげたのですよ!」
えっへん、と三好副部長は胸を張っている。抹茶の苦味に慣れるのは大事だと思うけれど、一気に何杯も飲むと逆に嫌いになってしまう恐れがあるのでは。
伊織は笑みを見せてはいるけれど、心なしか顔色が悪いような気がする。それは抹茶をたくさん飲んだからなのか。それとも、僕を心配していているからなのか。
「伊織、抹茶をたくさん飲んだみたいだけれどお腹とか大丈夫?」
「……さすがに4杯飲むとね。さっきまではお腹がタプタプだったけれど、今はもう大丈夫だよ」
「……そっか。でも、少しずつ慣れていけばいいと思うよ、僕は」
先週は1杯飲むのがやっとだったのに。抹茶に慣れるのが目的だとしても、4杯も飲むのはかなりキツかっただろう。僕がいれば半分の2杯になっていたかもしれないと思うと罪悪感が。
「抹茶に慣れるまでの間、伊織さんへ一度に4杯も飲ませるのは止めておきましょう。伊織さん、今日は大変申し訳ありませんでした」
「いえいえ、気にしないでください! その分、たくさんお菓子を食べることもできましたので。それに、初めて飲んだときよりも抹茶が好きになっていますよ!」
「……そう言ってくださるのは嬉しいです。ただ、無理はしないでくださいね」
「分かりました。そうだ、今度は千尋に4杯飲ませてあげましょう」
僕、抹茶の味も好きな方だけれど、一度に4杯飲みたいほど好きじゃないよ。コーヒーだったら喜んで飲むけど。
「でも、今日は飲むだけではありませんでしたよね、伊織さん」
「うん。その……千尋が戻ってきたらお抹茶を点てたくて。昨日から何だか元気がないから、少しでも元気にできないかなって」
「……そうか。ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」
さすがに、僕がいつもと様子が違うことは気付いているようだ。僕が悩み続ける限り、伊織にも気を遣わせてしまうことになりそう。
僕は畳に上がって、伊織と向かい合うようにして正座をする。今はお抹茶を点てるからだけど、こうして向かい合うと緊張してしまうな。
「それじゃ、千尋のために点てるね」
「うん。よろしくお願いします」
「分からなくなってしまったら、遠慮なく私に訊いてくださいね」
「はい!」
伊織は浅利部長の助けを借りながらお抹茶を点てていく。浅利部長と比べるとぎこちなさがあるけれど、頑張っているのが伝わってくるので微笑ましい。
ただ、そんな2人の横で「上手だよ!」とか「その調子!」と三好副部長が大きな声で逐一言ってくるのが気になっちゃうけれど。
「はい、千尋。できたよ」
「ありがとう、伊織」
「でも、その前に……」
「あっ、お菓子を食べるんだよね」
お抹茶の横には、この前ショッピングモールの和菓子屋で購入したザラメが付いたおせんべいがあったのでそれを食べる。ほどよく甘く、塩気もあって美味しい。
僕は伊織が点ててくれたお抹茶を飲む。
「……美味しいよ」
「良かった」
伊織の笑みが抹茶の苦味を強くさせているような気がした。
僕が本当のことを伝えていないから、伊織は今のような笑みを見せられるのかな。僕が女性の心を持っていると伝えたら、伊織の笑顔が見られなくなっちゃうのかな。
「ど、どうしたの? 千尋、涙なんか流して」
「……えっ?」
右手で目元に触れてみると、涙で濡れていることが分かった。きっと、伊織への罪悪感が気付かない間に涙となって表に出てしまったんだ。お抹茶の苦味が僕の涙を出すことを後押ししたのかも。
「私、今日教えてもらったばかりだから、きっと苦すぎたのかも。ごめんね、千尋。不味かったら全部は飲まなくていいからね」
「……そんなことないよ。初めてお抹茶を点ててくれたから嬉しかったんだよ」
強引かもしれないけれど、涙を流した理由を誤魔化すためにはこれしか思いつかなかった。その言葉を言った途端に、この流れで自分のことをカミングアウトしてしまえば良かったのにと後悔してしまう。でも、そんなことを考えてしまうことに胸が苦しくなった。
伊織の点ててくれたお抹茶を全て飲んだ。
「ごちそうさまでした。ありがとうございました」
「こちらこそ」
「……美味しかったから、伊織にお抹茶の点て方を教えてもらおうかな」
「私なんてまだまだだよ。今のだって千佳先輩に教えてもらいながら点てたんだし。一緒に勉強していこうよ!」
「……そうだね」
冗談のつもりで言ったんだけれど。こういった他愛のない冗談はさらりと言えるのに本当のことは言えないなんて。
「点てることも飲むことも、どちらも経験を積むのは重要です。ただし、やり方を間違えていたら元も子もないので……分からないことがあれば、私達上級生がしっかりと教えていきますので安心してください」
落ち着いた口調で浅利部長がそう言ってくれると、本当に安心できる。
「あたし達に任せてよ! あたしだって、入部したときはさっぱり分からなかったんだからね」
「……お菓子目的で入部しましたからねぇ、朱里ちゃんは」
「そうだよ! そんなあたしでも作法を覚えられたんだから、伊織ちゃんや千尋君だったら絶対に大丈夫だって!」
「それを聞いたら私、急にできそうな気がしてきました!」
多分、副部長は僕達のことを少しでも安心させるためにああ言ったんだと思うんだけど……伊織、さすがにそれは失礼なのでは。
ただ、言われた本人である三好副部長は依然として明るい笑みを浮かべている。
「言ってくれるね、伊織ちゃん! いい意気込みだね。ただ、分からないときは周りの人に訊いてね。あたしもできなかったときは先輩方や千佳ちゃん、詩織ちゃんにたくさん質問していたからさ。あたし、バカだから同じことで何度も訊いていたよ」
「おバカさんだと思ったことはないですが、同じことで何度も訊いていましたね。でも、そんな朱里ちゃんも一人前にできているじゃないですか。彼女達2年生が入部したときにはしっかり教えていましたし」
「……まあね。時間がかかったけれど、ちゃんとできるようになって良かったよ」
「そうですね。時間がかかってもちゃんとできるようになればいいのです。千尋君、伊織さん……これから一緒に頑張っていきましょうね」
時間がかかってもできるようになればいい……か。それはさっきカミングアウトした内容を伊織に伝えることにも言えそうな気がする。
「もういい時間ですし、今日の活動はこれにて終わりにしましょう」
浅利部長のその一言で今日の部活動は終了した。
その後、僕と伊織は浅利部長の指導の下、今日の活動で使用した抹茶碗などの後片付けをした。
僕らが帰路につく時には、陽がかなり沈んでおり薄暗くなっていた。
「まさか、お抹茶を飲むときに涙を流しちゃうなんてね」
「……伊織の優しさに思わず」
3人にカミングアウトしたあの場所にいたときは、伊織に本当のことを教えた方がいいだろうと思っていた。
けれど、僕にお抹茶を点ててくれたときの伊織の優しさと笑顔に触れたら、このまま何も話さない方がいいんじゃないかとも思えてきたんだ。話すべきなのかどうかより迷ってしまう。
「ちょっとは元気になれたかな?」
「……ちょっとは」
伊織が可愛くて優しいことが改めて分かって嬉しい。けれど、だからこそ失いたくないと思ってしまうのだ。
「ねえ、千尋」
「うん?」
伊織は急に立ち止まり、僕の目の前に立つ。
「もしかして、私が昔付き合っていた子にいじめられた話を聞いたから、色々と考えちゃっているのかな?」
真剣な表情をして、僕のことを見つめながらそう言ってきた。
その言葉を聞いた途端、急に吐き気がして、思わず伊織から視線を逸らしてしまった。まさか、僕の心が女性であることに気付いてしまったのか?
「……やっぱり、そうだったんだ」
すると、伊織はいつもの笑顔を見せてくれる。
「千尋は……彼女とは違うよ。千尋は優しくて、かっこよくて、たまに……可愛いときもあって。私の勝手な思い込みかもしれないけれど、千尋は私のことを考えてくれていて、千尋との距離が少しずつ縮まっているように思えるよ。そんな千尋だから……大好きだし、信じられるんだよ」
そう言って、伊織は僕をぎゅっと抱きしめてきた。
伊織が僕をこんなにも好きでいてくれて、信じてくれている。それはとても嬉しいけれど、同時に辛くもあった。伊織が僕を好きであり信じてくれているほど、僕の体に宿る女性の心について知ったときに深く傷付くと思うから。
僕はどういった言葉を返せばいいのか分からず、伊織の頭を撫でることしかできなかったのであった。
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