第23話『水紋』
夜になって、両親に僕の心が女性であるとカミングアウトした。
驚かれたり、がっかりされたりすると思っていたら、両親はあっさりとカミングアウトした事実を受け入れていた。小さい頃にはよく女の子の服を着させていたからか、特に母親の方は納得しているほどだった。
両親も伊織と面識があるので、伊織にはまだこのことは伝えないでおいてほしいと言っておいた。
家族が好意的な反応を示してくれたので、ささやかな安心感を得られたのであった。
4月19日、水曜日。
昨日は青空も見えていたのに、今日はまた月曜日のような空模様だ。今日も雨は降らないものの、一日中どんよりとした曇り空らしい。
1人で抱え込まず、両親と緒方、瀬戸さん、天宮先生にカミングアウトできたのに……何だろう、この胸のざわつきは。
「千尋、いいの? 男子の制服で。と言っても、女子の制服はここにないんだけれど」
「……男として生きることに抵抗ないからね。この制服も気に入っているし、当分はこのままでいいよ、母さん」
その言葉は本当だ。でも、こんな風に生まれてきたことがちょっと嫌に思えてきた。どうして、男か女のどちらかになれなかったんだろうと。
「……分かったわ。いってらっしゃい」
「いってきます」
今日も学校へと出発する。月曜日よりも肌寒い空気の中、制服姿の伊織がこちらを向いて立っていた。
「おはよう、千尋」
「うん。おはよう、伊織」
「何だか、月曜日よりも寒いよね。凄く寒いからベスト着てきたよ」
「……可愛いね。寒くなったことに感謝しないと」
「……もう。さっ、学校に行こう!」
今日も伊織と手を繋いで学校に行く。
肌寒い中、伊織と触れている手からはっきりと温もりが伝わってくる。それはとても優しいものだった。
「まさか、春のこの時期にベストを着ることになるなんて。千尋は大丈夫?」
「うん。歩けば結構温かくなるし、学校にはエアコンがあるから大丈夫だと思うよ」
と話している間にも冷たい風が吹く。街路樹の緑色の葉を除けば、まるで晩秋のような雰囲気だ。
――プルルッ。
うん? 僕のスマートフォンが鳴っているな。
「伊織、ちょっとごめん」
スマートフォンを確認すると、新着メッセージの通知があった。送り主は……緒方か。昨日、カミングアウトをしてから連絡をやり取りはしていないけど。
『まずいぞ。昨日、お前が話してくれたことが学校で噂になってる』
そのメッセージを見た瞬間、全身に悪寒が走った。
まさか、誰かが僕のカミングアウトをした内容を漏らしたのか?
そう考えて真っ先に思いつくのは瀬戸さんだった。彼女は僕が伊織にカミングアウトした内容を話すかどうか迷っていることに、好意的ではなかったから。
『お前に例のことを訊いてくる奴が出てくるかもしれない。念のために、スマホの電源を切った方がいいだろう。それじゃ、学校で』
という緒方のメッセージが届く。
SNSなどを用いれば噂は想像以上に早く広まっていく。緒方以外にも僕の連絡先を知るクラスメイトはいるし、彼が言うように電源を切った方が無難かな。
『分かった、ありがとう。電源は切っておくよ。また後で』
緒方にそんなメッセージを送り、僕はスマートフォンの電源を切った。
「ねえ、千尋。今、私のスマホに友達からメッセージが来たんだけどさ」
「……うん」
「千尋のことで変な噂が流れているみたいなの。千尋が実は女の子だとかどうとか」
「……そ、そうか」
どうやら、自分の意志とは関係なく伊織に本当のことを話さなければいけなくなりそうだ。しかも、それは時間の問題だろう。
何だろうな、この……気付いたら背後が崖のような感覚は。誰が僕をここまで追い詰めたのか。それとも、自分自身で追い込んでしまったのか。
「ごめん、千尋。彩音や千佳先輩以外にも例のワンピース姿の写真を見せたから、それで女の子かもしれないって噂が流れたのかも。ほら、昔……男装をした女の子が男子校に入学して、高校生活を送るドラマがあったじゃない」
「そ、そうだね……」
本当にそんな理由で僕の噂が広まっているならいいけれど、緒方のあのメッセージからして、きっと噂の内容は僕の心が実は女性だということだろう。
「人の噂は七十五日って言うくらいだし、きっとそのうち収まるって。ほら、一緒に行こうよ」
「……うん」
伊織、こればかりは七十五日では収まらないんだよ。だって、僕が女だっていうことは本当なんだから。およそ16年、僕は女の心を持った男として生きているんだよ。
学校に到着すると、それまでとは違った空気になり始めていたのが分かった。
「何だか、私達……変な風に見られてない?」
「きっと僕の噂のせいだよ」
伊織にはそう言うけれど、僕らを見る目つきからして、伊織がさっき言っていたように、ワンピース姿の写真が噂の原因ではないようだ。やっぱり、昨日……僕が話した内容が、何かしらの形で広まってしまったんだ。
そんなことを考えていると、僕らは1年3組の教室に到着する。
すると、大半のクラスメイトはこれまでとは違って、僕のことをまるで普通の人間じゃないと言わんばかりの目つきで見てきた。
「おはよう」
伊織が元気に朝の挨拶をすると、
「お、おはよう、伊織」
「今日も仲がいいね……」
何人かの女子が、引きつった笑いをしながら返事をするだけだった。
教室の中を見渡しても緒方と瀬戸さんの姿はなかった。2人ともまだ朝練が終わっていないのかな。
「ね、ねえ……伊織」
「うん? どうしたの?」
僕らが自分の席に着いたとき、1人のクラスメイトの女子が伊織に話しかけてきた。
「沖田君の噂、聞いてない?」
「ああ、女の子かもしれないってことでしょ? みっちゃんにもあのワンピース姿の写真を見せたよね。あれが原因じゃないかな。ごめんね、千尋、本当に……」
「そうじゃないよ。友達から聞いたんだけれど、昨日の放課後、誰かが沖田君が心は女の子だってカミングアウトしたところを聞いたって……」
「昨日の放課後って、確か先生と……」
伊織は僕のことを見ながら目を見開いた。
心が女であるとカミングアウトしたと広まってしまったのだからしょうがない。これ以上、伊織に僕の心のことを隠し続けるわけにはいかない。一度、長く息を吐いた。
「伊織、ちょっとこっちに来て」
「ち、千尋……」
「大事な話があるんだ。2人きりになれる場所に行こう。だから、誰も僕らについて来ないでほしい」
僕はクラスメイトにそう言って、伊織の手を引く形で僕らは教室を後にする。もちろん、伊織にカミングアウトをするのが第一だけれど、段々を息苦しくなっていたからでもある。
ただ、朝のこの時間だと教室棟では2人きりになれないと思い、僕らは特別棟の方に向かった。
「……ここなら大丈夫か」
「千尋、大事な話っていうのはやっぱりさっきの噂のこと?」
「……うん、そうだよ」
考えが全然纏まっていない中、伊織にカミングアウトしなければいけないなんて。でも、こんな状況になったんだから僕の口からちゃんと言わなきゃ。
「実は僕、体は男だけれど……心は女なんだ」
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