第24話『春風が冷たく刺さる』
――体は男だけれど、心は女なんだ。
ついに、僕は伊織にカミングアウトをした。
カミングアウトした内容が信じられないのか。それとも、必死に理解しようとしているのか。伊織は複雑な表情を浮かべ、視線をちらつかせている。
「じゃあ、噂は本当だったんだね……」
独り言のような感じで伊織はそう言った。
「あっ、でも、噂では……昨日の放課後にカミングアウトをするところを聞いたって言っていたっけ。昨日は先生に勉強の相談があるから、部活動に遅れたって言っていたけれど、本当はカミングアウトしたことが理由なの?」
伊織は真剣な表情をして僕のことを見つめてくる。きっと、僕に嘘をつかれたことに怒っているんだろうな。
「……そうだよ。自習室に先生と緒方と瀬戸さんを呼び出して、同じことをカミングアウトしたんだ」
「そっか。3人は昨日のうちに知っていたんだね」
「……うん。それまでは誰にもカミングアウトはしなかったんだ」
「そうなんだ……」
そう呟くと、伊織は目に涙を浮かばせる。
「……どうして、私には言ってくれなかったの? これまでだって話せる機会はたくさんあったじゃない」
伊織は鋭い目つきで僕のことを見つめてくる。きっと、緒方や瀬戸さん、天宮先生にはカミングアウトして、恋人である自分にはしなかったことにショックを受けているのだろう。
「……伊織の言う通りだよ。カミングアウトしようと思えば、いくらでもする機会はあった。でも、カミングアウトをしてどういう反応をされるのか分からない。非難されるかもしれない。そう思うと恐かったんだ。男として生きることに嫌悪感はなかったし、男として難なく生きていけそうだからカミングアウトはしないって決めたんだ」
「でも、実際にはカミングアウトしてるよね。彩音や緒方君、天宮先生には……」
どうしてなの、と伊織は僕の手をぎゅっと握る。そこには温もりは感じられず、痛みしかなかった。その痛みは僕の体の奥底まで痛烈に伝わってゆく。
「カミングアウトをしようと思ったきっかけは、日曜日に伊織の中学時代の辛かった話を聞いたからなんだ。伊織、女性同士の恋愛は怖いって言っていたよね。当時、付き合っていた女の子は伊織に全く好意はなくて嘘をついていた。その話を聞いたら、伊織に本当のことを話した方がいいのかなって迷い始めて。だから、それを相談するために、まずは3人にカミングアウトしたんだ」
「……そうだったんだ。じゃあ、今週に入って千尋が元気なさそうだったのは、私にカミングアウトをしようかどうか悩んでいたからだったんだね……」
さっきまでの怒りの表情はすっかりと消えたけれど、その代わりに戸惑いや悲しみの表情がはっきりと伊織の顔に出ていた。
「……色々とごめん。私があんなことを言わなければ、千尋が苦しむことなんてなかったかもしれないのに……」
「僕こそ今まで隠していてごめん」
伊織には悲しい過去があるけれど、彼女がそのことを話す前に体と心の性別の違いについてカミングアウトをしていれば、何かが変わっていたんじゃないだろうか。そう思うと、後悔の念が生まれてくる。
「ううん、千尋は悪くないよ。こういうのって生まれつきのことで、千尋自身ではどうにもできないこと。でも、心が女の子って言われたら、千尋のことをどうやって見て、これからどうやって付き合っていけばいいのか、急に分からなくなってきちゃった。千尋を苦しめていると思ったら、千尋を好きでいるのが恐くなってきちゃったよ……」
過去に受けたいじめによって、伊織は女性への恋愛感情を抱くことを恐れている。その話をしたことで、女性の心を持つ僕を苦しめ続けていると思っているのだろう。そんな状況で付き合っていても、伊織を苦しめ続けるだけかもしれない。
「じゃあ、一度……距離を置こうか。それで、これからどうしていくのか気持ちの整理をしようよ」
多分、そうしないと僕らの関係がいずれは崩れてしまうだろう。お互いに自分のこと、相手のことを考えて、これからどうしていきたいか考える時間が必要だと思う。それがこのタイミングでやってきただけなんだ。そう思わないとやっていけない。
伊織を好きだと自覚したから、その想いを伝えてみても良かったのかもしれない。
でも、好きな気持ちを言ってしまったら、困惑している伊織を無理矢理繋ぎ止めてしまうだけになってしまうかもしれない。だから、喉まで来ていた「好き」という言葉を必死に体の奥底にしまい込んだ。
「……分かった。じゃあ、そうしよう」
伊織は涙をボロボロとこぼし始める。
「ごめん。先に教室に戻ってて。私、ちょっと1人になりたいから……」
そう言うと、伊織は僕の元から走り去った。何だか、これが伊織との遠い別れになってしまったのだと、急激に小さくなっていく彼女の後ろ姿を見ながら思った。
「戻るか……」
そう呟いてはみるけれど、さっき伊織と一緒に教室を出たときの空気を考えると、とても教室には戻りづらい。
しかし、このまま戻らないとそれはそれで問題なので教室へ戻ることしよう。緒方が既に教室にいてくれるといいけれど。
重い足取りだけれど、どうにかして教室に戻ると……案の定、教室の空気はさっきよりも悪くなっているように思えた。僕に向けられる視線がとても恐い。
これは、心と体の性別が違って生まれてきた僕が必ず受けなければいけない試練なのか。避けることができたのか。そもそも、受けなくてもいいことだったのか。何にせよ、ここから逃げたくて仕方なかった。
「沖田、おはよう」
教室には緒方がいたので、早足で彼のいるところへと向かう。そのときに瀬戸さんの方をちらっと見ると、昨日の自習室のときのような複雑な表情をしており、自分の席に座ってスマートフォンを弄っていた。
「お前と神岡の机にバッグがあったけど、今までどうしていたんだ?」
「……伊織にもカミングアウトした。そうしたら……やっぱり、心が女性であることを知って、僕とこれからどうすればいいか分からなくなったから、一旦、距離を置くことにしたんだ。お互いに気持ちの整理をした方がいいと思って」
「……そうか。それがいいと2人が思うなら、俺はその決断を支持する。しっかし……今のこの様子だと、噂としてじゃなくて事実として広まっているみたいだな。広まっているのを最初に知ったのは朝練のときだったよ」
本当に誰なのか。僕を広めた人は。昨日の態度からして、真っ先に考えられるのは瀬戸さんだけれど。チラッと緒方を見てみると、彼も瀬戸さんの方に視線を向けているようだった。
「昨日、練習が長引いたから、急いで自習室に行ったんだけれど、そのときに何人かの女子生徒に後を追われていたような気がするんだ。もしかしたら、その生徒達が沖田の話を聞いて広めたかもしれない」
緒方は既に同学年の女子生徒を中心に人気を集めているからな。僕も入学して早々に伊織と付き合うことになったからか顔が知られてしまっている。そんな僕のカミングアウトを小耳に挟んだら、広めたい気持ちも分からなくはないけれど。
「沖田、噂通りに心が女だったのかよ」
「今まで私達を騙していたんだね」
「伊織が可哀想だよ。見た目は綺麗で女性らしさもありそうだけれど、心が女の子だなんて普通は考えないよね。せめて、彼女だけには彼氏として言うべきだよね」
「体と心の性別が違うような奴と一緒にいられないよな」
「というか、普通に気持ち悪い……」
それらは僕の恐れていた現実だった。それを避けるために、僕は今までカミングアウトをせずに男として生き続けてきたんだ。
伊織に今まで言わなかったことは、本当に申し訳なく思っている。
ただ、僕自身ではどうしようもできないことによって、あなた達のような「まとも」な人間として産まれることができなかっただけで、どうしてそういう言葉を浴びせられなければいけないのか。悲しみ、憤り……様々な感情が一気に襲ってきて心が壊れてしまいそうだった。
「いい加減にしろよ!」
緒方は席から立ち上がり、怒った表情をして僕以外の人間全員に向かってそんな声を挙げた。
「沖田の体が男で心は女であることは生まれつきのことなんだ! でも、そのことを話したら、周りからどういう反応をされるかが恐くて今まで言わなかったんだよ。きっと、沖田が恐れていたのは今みたいな――」
「ありがとう、緒方」
これ以上、緒方にクラスメイトに向かって叱責するようなことをさせてはいけない。
大好きな恋人である伊織に言えたんだ。長い間、親友として親交のある緒方にも言えたんだ。だから、そんな2人よりも関係が薄いクラスメイトにだって言えるさ、きっと。
「話が広まっている通り、僕は体が男だけれど、心は女だよ」
それを公言した僕の居場所はもうここにはないような気がした。ここから早くいなくなりたい。逃げたい。消えてしまいたい。
「……緒方。僕はもう帰るよ。今はここにいられない」
きっと、緒方しか聞こえていないくらいの声の小ささでそう言った。
「分かった。ゆっくり休め。好きなことでもしてさ」
「……うん。緒方、もちろん教室にいるときだけでいいから、伊織のことを頼む」
「ああ、任せておけ」
僕は緒方とグータッチをし、バッグを持って教室を後にする。そのときに瀬戸さんのことをちらっと見たけれど、瀬戸さんは複雑そうな表情をして俯いていた。
「どうしたの、沖田君」
廊下に出たところで天宮先生に出くわす。そんな彼女は目を見開いている。
そうか、もうすぐ朝礼の時間なのか。それなのに、僕がバッグを持って教室を出たから先生は驚いているのかな。
「もうすぐ朝礼だから、教室に入りなさい」
「……嫌です」
「えっ……?」
「……昨日、先生達に話したことがさっそく校内に広まってしまいました。ですから、クラスメイトにも話しました。そうしたら、僕は……今までみんなを騙していた気持ち悪い存在らしいです。僕のような人間はクラスにいてはいけないみたいです」
「そんなことないよ、沖田君」
「……どうなんでしょうね。ただ、今の僕には学校にいることが耐えられないです。ですから、しばらくは欠席します。部活にも参加しません。わがままばかり言ってごめんなさい。よろしくお願いします」
とにかく、今は学校から離れないと心が落ち着かない。伊織とのことも含めて、気持ちを整理するには学校から立ち去らないと。
天宮先生は柔らかな笑みを浮かべる。
「……分かった。好きなことをしてもいいし、寝てもいいし……ゆっくり休んでね」
「ありがとうございます」
「うん。……どうやら、何度かクラスで話し合わないといけないわね。このことはしっかりと指導していくから。誰が噂を広めたのかについても調査していくよ」
さっきの態度を見ている限り、指導したところで意識が変わるかどうかは正直、期待できない。
あと、誰が噂を広めたのかについては、おおよその見当は付いている。
「分かりました。あと、伊織はまだ教室に戻っていません。2人きりでカミングアウトしたいと思って、特別棟で話したんですけど……ショックが大きかったようで、しばらく1人にしてほしいとどこかに行ってしまって。戻ってきたときに、朝礼に遅れたからと怒らないであげてください」
「もちろんだよ。じゃあ、何かあったら連絡するから。もちろん、これまで通りいつでも連絡してきていいからね」
「ありがとうございます。あと……緒方にも言ったんですけど、伊織のことをよろしくお願いします」
「分かったわ」
「ありがとうございます。失礼します」
僕は一礼して、天宮先生の元から立ち去った。
家に帰るから、家にいる母親に電話を掛けようと思ったけれど、どんなメッセージが来ているのかが怖くて、スマートフォンの電源を入れることができなかった。
外に出ると、登校してきたときよりも寒くなっているような気がした。予報が外れたのか小雨が降っている。強く吹く風に乗る雨粒が顔に当たり、それがとても冷たく感じる。
春ってこんなにも寒かったのか。一番嫌いな季節になってしまいそうだ。
途中、自動販売機で缶コーヒーを1本買って、僕は真っ直ぐ家に帰るのであった。
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