第18話『恐れる恋心』
授業が始まってからの1週間は茶道部に入部したからか、とても充実した日々になったと思う。
先週と似たような感じで、週末は僕と伊織の家に行き来して、お互いの部屋で2人きりの時間をゆっくりと過ごしていた。
「クラスメイトや茶道部の先輩方と一緒に過ごすのもいいけれど、こうして千尋と2人きりで過ごす時間が一番好きだな」
「……そうだね」
日曜日の夕方、僕は伊織と一緒に僕の部屋で紅茶を飲みながら、2人きりの時間を過ごしている。
「あぁ、明日からまた学校かぁ」
「伊織は日曜日の夕方から既に憂鬱になりつつあるんだね。体育以外は僕と一緒だからいいじゃない」
「まあ、私の前の席が千尋だからね。千尋を見ながら授業を受けられることには幸せを感じられるよ」
そういった形でも、授業中に幸せを感じることができるだけいいのかな。
「私、千尋みたいな男の子と付き合うことができて本当に幸せだと思ってる」
男の子と付き合うことができて……か。
その言葉を聞いた途端、火曜日の部活後に茶道室から昇降口に向かう途中、校内で女子生徒同士がキスした場面を見たときの伊織の悲しげな表情を思い出す。だからか、今の伊織の笑顔にはどこか陰があると思えるのだ。
ただ、僕がそう思っているだけで、伊織はもう気にしていないのかもしれない。伊織の話を聞けば、彼女の満面の笑みを見られるかもしれない。
よし、勇気を出して伊織に訊いてみよう。
「ねえ、伊織。訊きたいことがあるんだ。いいかな?」
「うん、もちろんいいよ」
「……僕の思い込みだったら謝るよ。伊織と付き合い始めて、一緒の時間を過ごしていく中で思ったことがあってさ。伊織って、女の子同士で付き合うことに嫌悪感を抱いているような気がするんだ」
それを口にしたとき、僕は何故だか、伊織に訊けたというよりも、訊いてしまったという気持ちの方が強かった。踏み込んではいけない領域に入り込んでしまった感じ。
しかし、その勘はどうやら当たってしまったようだ。
伊織は口元では笑っているけれど、目つきは悲しそうだった。そんな伊織を見て、これまでに育んできた彼女の温かな心を、一気に冷たくしてしまった気がした。
「ご、ごめん。いきなりこんなことを言っちゃって」
「……いいよ、気にしないで」
伊織はゆっくりと首を横に振る。
「千尋が言っていること……だいたいは合っているから。女の子同士の恋愛に、嫌悪感というよりは恐れている気持ちの方が強いんだ。友達ならかまわないけれど」
「恐れ……?」
これまでに何か恐い思いをしてきたのかな。
「……千尋だから、話すね」
伊織は僕の手をぎゅっと握ってきて、僕の目をじっと見つめてきた。
「実は、中学生のときに女の子と付き合っていて。そのことを口実にいじめられたの」
その瞬間に、これまでの伊織の様子や、さっきの言葉の意味がようやく分かった。伊織は女の子付き合ったことで辛い経験をしたのか。
「千尋と初めてキスをしたとき、以前にキスをする関係くらいの人がいたって言ったよね。それって、中学生のときに付き合っていた女の子なんだ」
「そうだったんだ……」
「その女の子との関係は断ち切ったって言ったよね。でも、その言葉で合っているかどうかは分からないの。私は彼女が好きだったけれど、彼女は……私のことなんて全く好きじゃなかった。私をいじめる口実を作るために付き合ったんだから。しかも、私をいじめていた中心人物がその子だったの」
「そんな……」
じゃあ、伊織をいじめた女の子は、伊織が抱いた自分への好意を口実にしていじめたっていうのか。しかも、その女の子は伊織への好意は全然なかった。そんな経験をしたら、伊織が女の子同士の恋愛に恐れを抱くのは当然だろう。。
「付き合っていたときの彼女は全て嘘だった。好きだって言葉も、私に見せてくれた笑顔も。何度もしたキスも。それを去年経験して、不登校になった。……中学生のときに女の子と付き合ったっていうのは正しくないかもね。ただ、こうして白花高校に合格して進学して、高校生活を送ることができるのは、家族はもちろん……彩音の協力があったからなんだ」
「彩音って、瀬戸さんのこと?」
「うん。彩音も話していないか。実はね、私……彩音とは中学時代からの親友なんだよ」
「そうだったんだ……」
そういえば、入学して間もないときから伊織と瀬戸さんはとても仲が良く見えた。瀬戸さんは明るくて活発で、クラス委員だからという理由だと思っていたけれど。
「伊織が瀬戸さんに恋愛相談をしたのは、親友で中学時代に体験したいじめを知っていたからだったんだね」
「うん。しばらくは男女問わず恋愛は止めた方がいいって言われたんだ。でも、千尋のことは一目見たときから凄く好きになって。千尋と一緒にいれば、中学のときのことを乗り越えられそうな気がして。その気持ちを彩音に伝えたら、思い切って告白してみようってアドバイスされたの。もし、何かあったらすぐに彩音に相談するっていう条件付きで」
「なるほどね……」
だから、瀬戸さん……僕に何度も「伊織を幸せにしてほしい」って僕に言ってきたのか。幸せにできないなら許さないとも。いじめられて辛い想いをした伊織を知っているから。
「この街に引っ越してきたのは私のいじめがあったから。高校進学はいいチャンスだった。元にいた地域からは電車で2時間はかかる。狙い通り、白花高校に進学した生徒は私と彩音しかいなかった。白花高校には寮があるし、有名大学への進学率も高いから……彩音にとってもちょうどいい高校だったみたい」
なるほど、実家から遠くても寮がある高校だったら進学しても大丈夫か。うちの高校の寮は男女共にしっかりしているそうだし。
「中学のときから瀬戸さんはクラス委員をやっていたの?」
「……うん。1年生のときは一緒だったけど、2年生、3年生のときは別々だった。もし、彩音が同じクラスだったら、何か違っていたのかなって思うよ」
それだけ、伊織は瀬戸さんのことを信頼しているということか。
「でも、この街に来なかったら千尋に出会えなかったし、こうして付き合えなかったと思う。だから、今は本当に嬉しいんだ」
伊織はとても嬉しそうな笑みを浮かべて、僕を抱きしめてくる。彼女から伝わってくる温もりが……とても切なく感じる。つらい。
「千尋……大好きだよ」
伊織は優しいキスをしてくる。伊織は僕に一目惚れをして、僕のことを男だと思って告白してくれたんだ。僕と付き合えたら、中学時代に体験した辛い経験を乗り越えられそうだから。
「伊織……」
僕の体は男性で、男として生きているけれど……心は女性なんだ。でも、それを言う勇気は当然持つことができない。伊織がどんな表情になり、どんな気持ちを抱くのかを考えると恐くなってしまう。
僕は伊織をぎゅっと抱きしめ、
「ごめん……」
それが、今の僕が言える精一杯の言葉だった。しかし、伊織の顔を見ることはできなかった。
「……いいよ、千尋。去年のことを思い出すのは辛かったけれど、千尋に話して胸にあったつっかえが取れたような気がするから」
「……そっか」
伊織の辛い過去を訊いてしまったこともあるけれど、それよりも君に隠し事をしていることに謝ったんだよ、僕は。
体は男で心は女ということをカミングアウトしたら、きっと面倒な事態になると思い、今まで一度もしなかった。それに、戸籍上の性別である男として生きることに何ら不自由はなかった。
しかし、伊織の過去の話を聞いて、こんな自分に生まれてきたことを初めて嫌だと思った。皮肉にも、同時に伊織のことを完全に好きになっていると自覚した。
心を男性に変えることができない。
体を純粋な女性に変えることもできない。
僕は歪な人間として生きて、伊織と接しなければならないのだ。
そんな僕が、女性への好意が発端で辛い経験をしてきた伊織の側にいていいかどうか、今の僕には全く分からなかった。どうすればいいのか分からない。
この場で自分のことを言えない。それだけしか分からないことに酷く悔しさを抱いた。
伊織との温かな日々を過ごしていく中で、伊織のいない未来なんて考えられなくなっていた。でも、伊織が体験してきた辛い出来事を聞いて――。
伊織のいない未来しか考えられなくなっていた。
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