第8話『お家デート-前編-』

 4月9日、日曜日。

 午前10時過ぎ。僕は伊織の家の前にいる。自宅から徒歩1分もかからないご近所さんなのに、彼女の家だからかここに立つと緊張する。

 ――ピーンポーン。

 勇気を出して、インターホンを鳴らした。

 程なくして伊織の両親らしき人が玄関から姿を見せる。


「君が沖田千尋君だね?」

「はい。初めまして、沖田千尋といいます。ええと、一昨日から伊織さんとお付き合いをすることになりました」


 伊織のお父様かな。真剣な表情をして訊いてくるので、僕もしっかりと返答する。それにしても、かなりスラッとした人だなぁ。

 すると、お父様らしき男性が僕の手をぎゅっと握ってきて、


「どうか娘を……伊織のことをよろしくお願いします! 君なら信頼できそうだ!」


 大きな声でそんなことを言ってきた。やっぱりお父様だったか。娘を持つ父親からしたら、娘に恋人ができたのは一大事なのだろう。ただ、相手が男なのに、出会ってすぐに信頼できそうと言ってくださるとは。伊織が僕を凄く良く言ってくれているのかな。


「もう、あなたったら。大げさですよ。伊織が沖田君とお家デートをすると言っていたので、私達も久しぶりに昔のようにデートをしようということになりまして」

「そうなんですか。素敵ですね。楽しんできてください」


 昔のように、と伊織のお母様は言っているけれど、とても若々しい御両親だと思う。


「ふふっ、ありがとうございます。それにしても、沖田君……とても美しいですね。もしかして、何か芸能のお仕事を?」

「いえいえ。特にそんなことは。スカウトすらされたこともありませんよ」


 芸能の仕事には特に興味はない。バラエティやドラマ、音楽番組などを観るのは好きだけど。


「インターホンが鳴ったのになかなか来ないと思ったら、やっぱりお父さんとお母さんが千尋を捕まえていたんだ」


 伊織、不機嫌そうな表情をして家から出てきた。お家デートをするだけあって、ロングス

カートに縦セーターというラフな恰好だ。


「すまないな。父さんと母さん、ちょっとでもいいから沖田君と話したくてね。なかなかの好青年みたいじゃないか。……今度は素敵なお付き合いができるといいな、伊織」

「……うん」


 今度は……って、ああ、伊織は確か、以前にキスをするほどの関係の人がいたんだよな。きっと、伊織のお父様はそのことを絡めて言っているのだろう。


「千尋となら素敵な日々を過ごせると思ってる。お、お父さんとお母さんみたいに」

「……そうか」


 伊織の御両親、とても嬉しそうだな。娘に自分達のような夫婦になりたいと言われたらそれは嬉しいか。


「ほら、さっさと行きなよ! デートの時間、少しでも長い方がいいでしょ!」

「はいはい、分かったわよ。じゃあ、行ってくるね。夕方くらいに帰ってくるから。沖田君、伊織のことをよろしくね」

「はい、分かりました。いってらっしゃい」


 伊織の御両親は腕を組みながらデートに行った。僕の両親も仲がいいけれど、それ以上の仲の良さだと思う。


「ごめんね。千尋のことを話したら、お父さんとお母さんが会ってみたいって言って」

「気にしないでいいよ。それに、娘がどんな人と付き合っているのか気になるのは当然じゃないかな」


 その証拠に、僕の方も両親に伊織と付き合うことになったと話したら、近いうちに伊織と会わせてほしいって言っていたから。とりあえず、写真は見せたら両親は「凄く可愛い!」と興奮していた。


「じゃあ、私達もデートしよっか。お家デートだけど」

「うん、そうだね」

「……そうと決まれば、行こっか」


 僕は伊織に手を引かれる形で、彼女の家にお邪魔することに。自宅から徒歩1分もかからないご近所さんなのに、初めてのところなので遠くの場所へ行ったような気がする。


「お邪魔します」

「いらっしゃい。ええと……リビングに行くか、私の部屋に行くかどっちがいい?」


 一昨日のように、今は僕と伊織の2人きり。この家のどこにいても彼女と2人きりなんだからやっぱり、


「……伊織の部屋に行きたい」


 彼女の部屋に行って、彼女との時間をゆっくりと過ごしたい。


「うん、いいよ。じゃあ、私の部屋に行こうか」

「うん」


 依然として、僕は伊織に手を引かれる形で、彼女の部屋へと連れて行かれる。

 思い返せば、この家……建て売り住居だったけど、つい最近完成したこともあってか家の中はとても綺麗だ。


「ここだよ」

「……お邪魔します」


 伊織の部屋に足を踏み入れる。

 絨毯やベッドのシーツの色が桃色だったり、ベッドの上に抱き枕や可愛らしいぬいぐるみが置いてあったり。本物の女の子の部屋はやっぱり違うな。心なしか、清涼感のある匂いがする。


「そんなにじっと部屋を見られると恥ずかしいかな」

「ご、ごめんね」

「ううん、千尋だからいいんだよ。今日が初めてだから緊張しているだけで。それに、これからたくさん来るでしょう?」


 伊織はそう言いながらはにかんでいる。そんな彼女がとても可愛らしく思える。

 僕はベッドの近くに置かれているクッションに腰を下ろす。


「その服装、とっても似合っていて可愛いよ」

「ありがとう。ところで、千尋。コーヒーか紅茶かココアなら出せるけど、何か飲みたいものでもある?」

「じゃあ、ココアで。久しぶりに飲んでみたくなった」

「うん、分かった。ええと……まだ午前中だし、眠気が残っているんだったらそこのベッドで寝ていいんだよ? 寝ていいからね!」

「そ、そうかい」


 どうやら、伊織はこの前のことに罪悪感を抱いているようだ。


「じゃあ、眠たくなったらお言葉に甘えることにするよ」

「……うん」


 ちょっと嬉しそうな表情をしながら、伊織は部屋を出ていった。

 日曜日の午前中だけれど、外からも人の声や音は聞こえず、静寂の空間になっている。ここまで静かだとちょっと眠くなるな。

 テーブルには昨日、伊織と行ったアニメショップで買った2冊の漫画が置いてあった。もちろん、開封済みだ。


「……ここのキスシーン、凄く良かったな」


 今まではいいなとしか思っていなかったけれど、昨日読んだときは伊織の顔が思い浮かんだ。伊織のことを知っていって、少しずつ好きになれればいいなとは思っていたけど、付き合い始めてからたった2日で、僕にとって伊織は大きな存在になっていた。

 漫画でも文字を見たら余計に眠気が増してきた。こうなったら、伊織のご厚意に甘えてベッドで朝寝でもするか。


「おおっ……」


 このベッド、気持ちいいな。このままだと本当に眠ることができるかもしれない。このベッドからは伊織の匂いが感じられるし。



 ゆっくりと目を瞑ると、程なくしてふわふわとした感覚に包まれる。

 伊織の匂いの他にも、ほんのりと甘い匂いが感じられる。この温かくて柔らかい感覚は何なのだろうか。



 気付けば、僕の視界は伊織の笑顔に独占されていた。


「伊織……?」

「ふふっ、キスをしたら目が覚めるなんてどこかのお姫様みたい」

「お姫様って。僕は男だよ」

「……千尋の寝顔、とても可愛かったんだもん」


 伊織のことだから、その寝顔をスマホで撮っていそうだ。あと、僕が寝ている間にキスをしたのか。凄く恋人らしい。


「まさか、本当に私のベッドで眠っちゃうなんて」

「テーブルの上にあった漫画を読んでいたら眠くなっちゃってさ」

「ふふっ、そっか」

「ベッド凄く気持ちいいよ。結構寝ていたかな?」

「ううん、10分くらいだよ。ほら、ココアを淹れたから飲もうよ」

「ありがとう」


 伊織の匂いの他に感じられた甘い匂いの正体はココアだったのか。

 ベッドから降りて、僕は伊織が淹れてくれたホットココアを飲む。


「……美味しい」

「ふふっ、良かった」


 昨日みたいにどこかへ出かけるのもいいけれど、恋人の部屋で2人きりでゆっくりと過ごすのもいいな。

 気付けば、伊織は手を重ねて、僕にそっと寄り掛かっていた。ベッドで感じた匂いよりも、本人から直接感じる匂いの方が断然いいと思うのであった。

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