第36話『シロツメクサ-後編-』

「もう姿を現していいですよ。樋口さんの恋人である……花園夏樹君」


 僕がそう言うと、木の陰から1人の男性が姿を現した。そう、花園夏樹君だ。緒方とも引けを取らない黒髪のイケメン君である。


「な、夏樹君……」

「……昨日、瀬戸から全部聞いたよ。まあ、中学を卒業するまでの間に、お前が神岡をいじめていたかもしれないって噂を何度も耳にしていたけど。それは本当だったんだな」

「そんな……」


 さっきまでの余裕ぶりはどこへやら。樋口さんは一気に顔色が悪くなり、複雑そうな表情をしている。


「彼氏の前では言い辛い言葉ではありますが、あなたの醜悪ぶりを伊織や瀬戸さんから聞いたとき、今も伊織をいじめたことについて全く反省していない可能性は高いと思いました。そして、第三者である僕や緒方達と話しても改心しないかもしれないと。ですから、今回の話に深く関わっている花園夏樹君にも事情を説明し、今日の様子を見守ってもらい、状況次第では彼にも説得もらうことにしたんです」


 樋口さんが最も恐れているのは、自分のやったことを花園君に知られ、その結果、彼と別れることだろうから。


「まさか、信じたっていうの? 彩音が言っていたことを……」

「彼氏として信じたくない気持ちもあったけれど、中学のときに神岡が不登校になっていたことは気になっていた。ただ、神岡とは別のクラスだったから、そのことについては有耶無耶のままで卒業したけどな。神岡が高校で出会った恋人と一緒に幸せな高校生活を送っているって聞いて安心した。あと、興味本位で……初恋の人の顔を一目見たくてね」


 花園君は伊織のことを見て爽やかに微笑んだ。樋口さんの彼氏とは思えないくらいにいい人だな。

 そんな彼と付き合っているのだから、樋口さんは伊織をいじめていたことを上手く隠して告白したんだろうな。


「嘘だよ! 彼女達が言っていることは……」

「……それは真澄の方だろう? 俺は今の沖田さん達の話をしっかりと聞いた。それにはっきり聞いたよ。真澄が神岡をいじめたことを認める言葉も……」

「ううっ……」


 樋口さん、苦み潰した表情を見せている。さすがに、大好きな彼氏からの言葉だとダメージが大きいようだ。


「本当にすまなかった、神岡。俺のせいで……」


 花園君は伊織に対して深く頭を下げる。


「花園君は気にしないで、本当に。悪いのは自分の思い通りにするためにいじめた真澄の方だから」

「……そうか。じゃあ、とりあえず……今、真澄の頬に一発か二発叩いてやってくれ。そのくらいしないと真澄は改心しないだろう」

「いやだ! 夏樹君、どうしてそんなことを言うの? こんな女から頬を叩かれるなんて人生の汚点になる!」


 こんな態度を取っていては、伊織に頬を一度や二度叩かれたくらいでは改心しないと思うけれど。

 真剣な様子で樋口さんを見る花園君。


「お前が神岡をいじめたことが人生最大の汚点だろう。神岡は何もしていないのに、身勝手な理由で彼女にひどいことをして。彼女から何回か頬を叩かれても文句は言えないじゃないか?」

「文句言うに決まって……いたっ! いたっ!」


 伊織は樋口さんの頬を思い切り2回叩いた。そのときの伊織の表情は今までに見たことがないくらいに恐ろしかった。本性を現した樋口さんなんて可愛いくらいに。まさか、瀬戸さんに絶交宣言をしたときも今みたいな表情をしていたのかな。


「……最低だよ、真澄。あなたを好きになったことがあるのを後悔するくらいに」


 伊織は低い声で言った。


「伊織、あたしに向かって何てことを……」

「真澄、これ以上私や私の大切な人達を傷つけるようなことをしたら、もっと痛い目に遭ってもらうから。あなたの友人や進学した学校に、あなたの悪行をバラしたっていいんだけれどなぁ。そうすれば、あなたにどんなことが起こるんだろうね?」

「それは、その……」


 樋口さん、すっかりと怯えているぞ。青ざめた表情をしている。あと、伊織……頬を叩いたことで吹っ切れたのか、さっきから物凄く恐いぞ。


「神岡、このことは俺と真澄でゆっくりと話をするよ。今後の俺達のことも含めてね。だから、とりあえずは真澄の過去を広めるのは保留してくれないかな。もちろん、神岡達に何もさせないから」


 花園君はとても真剣な表情でそう言った。きっと、樋口さんを好きであり、大切に想っているからこそ言えることなんだろうな。


「……分かった。花園君に免じて、あなたがひどいいじめをしたことを広めるのは一旦止めといてあげるよ」

「ありがとう。あと、真澄。神岡達に言うべき言葉があるだろう」


 強い口調で花園君がそう言うと、樋口さんは悔しそうな表情を浮かべて下唇を強く噛む。そして、


「……色々とひどいことをして、ご、ごめんなさい……」


 伊織や瀬戸さんに対して謝罪の言葉を口にした。低い声色からして本心で言っているんじゃなくて、花園君に言わされているだけなのが丸わかりだ。


「まったく、真澄の奴は。瀬戸や沖田さん達も遠くからわざわざありがとうございました。真澄が大変ご迷惑をおかけしました。ほら、真澄。これから俺の家で色々と話を訊くからな。もし、お前に加勢した奴がいるんだったら正直に言うんだぞ」

「う、うん……」

「……あと、沖田さんが真澄にプレゼントしてくれた花がかわいそうだ。この花に何の罪もないだろ」


 花園君はさっき樋口さんが踏みつけたシロツメクサの花を拾った。


「それでは失礼します。真澄、行くぞ」


 樋口さんは花園君に手を引かれながら、僕達の元から立ち去っていった。花園君がとても誠実な人で良かったよ。今の言葉だって、彼女よりもよっぽど気持ちがこもっていたし。

 2人の姿が見えなくなったところで、


「はあっ、緊張したぁ」


 そう言って、伊織はほっとした表情をして僕の隣に座った。


「さっきのようなセリフがある漫画のシーンを思い出して、勢いで言ったんだ。どうだったかな?」

「……物凄く恐かったよ」


 それでも、あのくらいに恐ろしく振る舞わないと、樋口さんが反論してくると思ったのだろう。


「なるほどね、さっきの伊織ちゃんは演技だったんだ。凄く恐かったから、あたし……思わず腰を抜かしちゃったよ」

「私にしがみついてきましたもんね、朱里ちゃん。あと、樋口さんほどの人格が破綻した方とこの先出会うことはないでしょうから、伊織さんがあのような表情をする機会は今後はもうないと思いますよ」


 僕も一瞬、寒気がしたくらいだから、三好副部長が腰を抜かすのも分かる気がする。浅利部長は意外とキツいことを言う。


「いつもの伊織ちゃんじゃなかったよね。伊織ちゃん、これで樋口さんと決着を付けられたかな」

「真澄に気持ちを伝えることはできましたし、花園君なら大丈夫だと思います、詩織先生。それに、千尋が真澄に色々と言ってくれたので。みんなのおかげで、ようやくいじめから解放された気がします。本当にありがとうございました」


 そう言うと、伊織は嬉しそうな笑みを浮かべて、みんなに頭を深く下げた。今日のことで伊織は気持ちを整理して、新しい一歩を踏み出すことができたんだと思う。


「あの、えっと、伊織……」


 緒方達が安心した笑みを浮かべている中、瀬戸さんだけは気まずそうな表情をしていた。そういえば、今日……ここに来るまでの間も、伊織と瀬戸さんはあまり会話をしていなかったな。

 伊織は瀬戸さんの目の前に立つ。


「千尋もそうだけれど、彩音の協力がなければできなかったと思うよ。彩音を信じて良かった。あのときは絶交するなんて言ってごめんね」

「……そのくらいのことを言われて当然だって思ってる。でも、伊織が真澄と決着を付けることができて良かったよ。これで、あたしは必要じゃなくなったよね。伊織には沖田君っていう素敵な恋人がいるし」


 僕らと樋口さん、花園君を繋ぐには瀬戸さんの協力がどうしても必要だった。それが彼女自身も分かっていたから、今回は一緒に行動してくれたのか。

 樋口さんと決着を付けた今、自分の役目は終わったから伊織から離れようとしている。


「必要じゃないと親友にはなれないの? 私は違うと思うよ。むしろ、そういうことを関係なしに彩音とはこの先も親友でいたいな」


 そう言って明るい笑みを浮かべる伊織。


「僕のこともこれ以上、罪悪感を持つ必要はないよ。伊織とお互いのことを深く分かり合うきっかけを作ってくれたってことで。でも、今回のことは忘れないでね」

「……うん。分かったよ、沖田君」

「じゃあ、千尋とも私とも仲直りだね、彩音」

「……うん!」


 瀬戸さんは涙をポロポロと流しながら伊織のことをぎゅっと抱きしめた。これで全てのことが解決したかな。

 普段、誰かの泣く声が聞こえると悲しい気持ちになるけれど、今はとても温かく感じる。それは今も吹いている風のように、どこか遠くへと消えてゆくだろう。

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