28. 迷宮
患者の様子を見に来た看護師が、クリップボードを片手に、彼の横に立つ。
「定期検診です、前を失礼しますね」
声を掛けても動こうとしない玲に、彼女は怪訝な声で繰り返した。
「少し下がってもらえますか?」
看護師へ顔も向けず、彼は手に黒円を浮かべる。
十円玉サイズの漆黒の円を眺める玲に、語気を強めた言葉が投げ付けられた。
「
「黙れ」
麻莉に背を向け、看護師を手で押し退けると、彼は階段へと向かう。
“何度殺すの!”
女の叫びが後ろから縋り付くが、耳を貸すことはない。
反応は上階。
西棟の五階まで上がり、黒円を頼りに廊下を進む。
部屋の入り口に掲げられた号室の標示板が、波を打って揺れていた。この深層の主役は、麻莉よりも脆い。
ギリギリまで破壊円を小さくしながら、水圧のある部屋を探す。
三三六号室、それが目的地だった。
中に入り、窓際のベッドを仕切るカーテンを開く。
枕に比べずっと小さな頭が、玲に反応するように僅かに横に揺れた。
点滴のために布団の外に出された左腕の手首には、氏名を書いたバンドが括り付けられている。
彼はバンドを指で少し回して、カタカナ表記されたサインペンの字を読み取った。
『タカギ』
眠る顔は、柴浜の深層で見た黄色いリボンの少女と同じ。
「その子も殺すの?」
何の気配も無く、先ほどの看護師が部屋の中央に立つ。
平淡な声色で放つ言葉が、玲の耳には楽しげに響いた。
――麻莉も有沙も、武川が用意した主役か。
細い少女の首を、彼の両手が包む。
喉元を押さえる親指を見て、今度こそ看護師は嘲笑の声を上げた。
「やっぱり殺すのね! なんて男なの!」
指に力を込め、一気に気道を潰す。
目と口を真ん丸に開いた有沙が、玲の手首に爪を立てて無言の抵抗を始めた。
全力で絞殺される彼女からは、悲鳴どころか呻きすら出ない――出させてたまるものか。
小さな爪が彼の皮膚をえぐり、指の数だけ血の筋を作るが、その手が弱々しく離れたところで、玲も力を緩めた。
酸素の供給を断たれた脳は、もう機能を停止するだろう。
顔を上げ、看護師を見た彼は、憎々しげに睨み据えた。
彼女の目のあるはずの場所は、また黒く変色している。
玲が変移するまでの短い間、彼女は黒い目と口を震わせながら、ケタケタと笑い続けた。
◇
夕方の真波駅――改札前に立つ玲は、すかさず黒円を目の前に展開した。
直径一センチに満たない小さな円でも、その意味するところは明快だ。
ここも深層、帰還は果たせていない。
腕の内側の傷を見つめ、また黒円に視線を戻す。
真円の意味も間違えようがなく、ここは主役の存在しない世界だと示している。
立ち止まる彼の側を、単なる脇役たちが邪魔だとばかりに通り抜けて行った。
一昨日の舞の深層から比べると、敵は明らかに改変能力が向上してきた。
ここに来て遂に、主役を自由に入れ替え、連れ去っている。
やはり相手は武川に違いない。あの厄介な曳航能力を、女はフルに活用しているのだ。
麻莉と有沙を主役に据えたのも、故意に選んだものだろう。
精神攻撃を意図したのかは分からないが、少なくとも、玲はこのやり口に怒りを覚えていた。
午後遅い時間と思われる駅前を、玲は二階コンコースに向けて歩いて行く。
この事態に対処するための方法について、彼の頭の中を思考が駆け巡った。
主役の居場所より、なぜ現実世界に浮上できないのか、そちらの方が問題だ。
“主役を消せば世界は閉じる。本当にそうかしら?”
凪坂の世界にいた武川は、そう言った。
集合深層では、主役の排除が必ずしも離脱に繋がらないのか?
“集合深層は違う、横が在るもの”
友人や少女を殺した彼は、浮上せずに、横の世界にスライドした。
主役を集合深層内でシャッフルした結果が、この有り様というわけか。離脱ではなく、主役が本来いた深層の断片に移動させられてしまう。
“集合深層がある限り、私は生き続ける”
そう、武川は、個々の世界を閉じようが自分は消滅しないと言いたげだった。
今の玲と同じく、敵も集合深層内の断片を渡り歩いている。
本来刻限の決まった深層世界でも、横に移動できれば弾き出されることもない。
その移動方法は?
学校の屋上で武川が作った白い円を、玲は思い返した。
他の断片に通じる穴。
微かなヒントがそこに有る。
“これも感謝しなくちゃね”
白円を作った武川のセリフだ。
――何を感謝する? オレに感謝する理由は?
時計台のある広場まで来て、空いたベンチに腰かけた彼は、人の波を眺めながら考えをまとめに掛かった。
――あの断層を移動する能力は、武川のオリジナルではなく、オレの力を参考にした物だ。だからあの女は、うっかり礼を言った。
広場の地面に並ぶ飾りタイルに、黒円を作成し、また直ぐに消去する。
これでは駄目だ、もっと繊細に。
刷り込みと同じで、彼の力は強大過ぎたため、白円の正体に気付くのが遅れた。
あれは断層同士の接合面だけを潰す、微弱な破壊円。
世界に穴を貫通させる力。
立ち上がった玲は、両手を前に掲げて、円の作成を試みた。
力を出来るだけセーブし、薄皮を剥ぐように世界を破壊する。
黒い円――違う、もっと弱く。
一瞬で消える白光……。弱過ぎる。
中空に浮く白い塊――そうだ、それだ。
ジワジワと外周に力を加えて行くと、円は面積を大きく広げた。
微調整が面倒だが、彼にも作れる。隣接する断層に通じる白い輪が、真波駅の二階に口を開いた。
円の中に見える暗い柴浜の研究所は、大方、倒れた工作員辺りの深層だろう。
玲は白円の中へと飛び込んだ。
研究所の側面に転移した途端、聞き覚えのある声が耳に入る。
第二班や警備員に指示を飛ばす武川、ここは襲撃の少し前の世界だ。
黒円に水圧の反応は無く、主役は不在。一体、どこに連れ去ったのやら。
工作員の断層もあるということは、集合深層の素材は増加している。
真波事件の昏睡者に加えて、病院での被害者も共鳴してしまった。
全て合わせれば、数十、下手をしたら百に届き兼ねない数の深層が接合している。
探すべきは、主役と深層の形成者が一致している世界、そこから浮上――。
次の断層に移動しようと、一旦、白円の作成を始めた玲は、円を消して前庭に向き直った。
こうも主役をデタラメにされてしまった以上、浮上を最優先にするのは効率が悪い。
堂々と庭に歩き出した玲を、警備員たちが見つけて騒ぎ立てた。
「侵入者です!」
「あれは……瀧神!」
奴らがウロウロと散る前に、まとめて片付けよう。
玲は前庭の全域に、黒円を連続形成した。
絨毯爆撃のように、庭には黒い穴が
激しい改変が加わったため、空は文字通りヒビ割れ、遠景の山は熱したバターと化して溶けた。
被害の無いのは武川と玲の周りだけ。
その武川は、ここが深層空間だと理解すると、退避のための移動円を作り始める。
虚無空間を平然と歩き、玲は女へと近寄った。
彼女が白円を形成し終わるより先に、猛烈な刷り込み光がその身体を包む。
「こっちを向け」
「あ……あぁっ!」
抵抗する武川を更に仮借ない光が襲い、意思を奪い合う綱引きが行われた。
一般人なら瞬時に脳を破壊される刷り込みにも、武川は果敢に抗う。
しかし、地力の差は如何ともし難く、最後には顔中を血だらけにして、彼女は地面に突っ伏した。
首に手を当て、武川が息を引き取ったことを知ると、玲は肩を
「死んだか。加減が難しいんだ、刷り込みは」
――
崩れようとする深層の闇の中で、彼は刷り込み以上に難易度の高い白円の作成にかかる。
崩壊するまでに、三つの輪が完成した。
真波駅のホーム、医療センターのロビー、駅地下街。
ホームを選び、輪を潜ると、夕方の駅へと移動する。
迷うことなく改札を抜け、タクシーに乗った彼は、行き先に南真波高校を告げた。
夕暮れの街を猛スピードで飛ばした車は、学校で玲を降ろし、代金を貰うことなく去って行く。
誰の深層かは知らないが、もう彼の目的は浮上ではなかった。
屋上に出ると、案の定、天文部の二人と初老の女が居る。
問答無用で高校生の二人を撹拌して、慌てる武川へは刷り込みを開始した。
移動円を作ろうとする暇は与えられず、得意の話術も封印され、彼女は能力勝負に引き摺り込まれる。
彼がこの女と闘うのは、もう何度目だろう。
繰り返される力の駆け引きを経て、玲もコツを覚えようとしていた。
武川は、弱さを見せると増長し、そこに付け込もうとするタイプだ。わざと力を弱めてやれば、女の意識は攻撃に傾く。
そこで一気に、命令を叩き付ける。
「抵抗をやめろ」
「あっ……」
険しく口を食いしばっていた武川の表情が、だらしなく緩んだ。
「深層を移動して、
「あ……え……」
「見つけたら、殺せ」
「ええ……」
白円を作ってやると、彼女はその中へ素直に進む。
一人目、上出来だ。
抵抗力の高い武川のような人物の方が、玲にとっては刷り込み易い対象かもしれない。
首尾に満足し、彼は自分用の移動円を展開した。
――手駒を揃えて、深層を我が物顔で支配する敵にぶつけてやろう。待ってろ、武川。海の果てまで追い詰めてやる。
「……失敗しそうなら自殺しろ、も試してみるか」
刷り込み内容を検討しつつ、玲は次の獲物へと世界を移動した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます