27. もう一人
共鳴を止めるには本体、この場合はKを始末するしかない。
集合体に取り込まれた各自がKを探し出し、深層から浮上して来るのが理想であるが、玲や麻莉なら可能でもそれを一般人に期待するのは難しい。
次善策は、現実世界でKにキッチリと死を自覚させることだ。
本体が発する死の信号が、集合深層の終焉を皆に伝える。
ベッドを這うコードやチューブ類が、それぞれ何を目的としたものかは玲には理解できないものの、大半は延命装置と思われた。
各種の線はベッド脇の大きな計器や箱に伸びている。
部屋の壁から生える物も多く、アース線の付いた太く黒いコードが主副の電源用というところか。
玲は部屋の隅に
主電源が落ちると同時に、室内にブオーンと虫の羽ばたきのようなハム音が響く。
発生源は反対の隅、こちらは緊急時のバックアップ電源だろう。
ベッドを回り込んで、微震動する大きなボックスに近付くと、彼はその機器に繋がれた線も引き抜いた。
四本全てが床に投げ捨てられた瞬間、金属の震えも収まり、ベッド周りに点灯するインジケータの類いも沈黙する。
玲はベッドの主を見つめる。
頭部の置かれた凹んだウレタンは、枕と言うのもおこがましい。
固定された頭の後ろに手を入れて、彼は酸素マスクのホックを外した。
マスクを除け、目の上に置かれたガーゼを横に捨てると、ようやくKの顔が露わになる。
老婆と変わらないカサついた肌に、手入れなどされない黒髪が蜘蛛の足のように張り付く。
白い唇、ポッカリと丸く開いた口。
落ち込んだ眼窩と合わせて、三つの黒い穴が、これも人の顔であると無理な主張をする。
呼気を確かめるため、彼はKの口許に手を
微かな空気の流れは徐々に感じるのが困難になり、やがて何の気配も、音も消えていった。
ベッドの傍らに立って、二十秒ほど経過した頃だろうか。
部屋の入り口近くでする物音に、玲は顔を向けた。
俯せに倒れていた麻莉が立ち上がり、鼻の下に付いた血の跡を指の腹で擦る。
「片付いたのね?」
「ああ、永眠してもらったよ」
頭痛に顔をしかめながらも、彼女の口調は力強い。
麻莉が回復したとすれば、他の昏睡者も目覚めていると期待できる。
「皆も起きたか確かめよう。近いのは凪坂か」
「ええ」
部屋の外へ出た二人は、倒れ重なる死者を避けて階段へと廊下を歩く。
吐き出された血が床や壁を汚し、清潔な病院の印象は微塵も残っていなかった。
六階から五階、さらに四階と下へ降りるにつれ、惨状は加速する。
職員や患者の多かった三階の廊下は、一面が赤黒い液体で塗り替えられてしまった。
本来の床を彩っていたパステルカラーは消え、壁には血の手形が新たな模様を描く。
共鳴の瞬間、動き回った者も多かったと見え、壁になすりつけられた手の跡がいくつも筋を引いていた。
伏せて横たわる人々は、血の海に浮かぶ島のようだ。
「……動く人はいないわね」
「適性が低ければ、生き残れないだろうな。真波事件の再現だ」
救命活動はいずれ来る他所の医療班に任せ、彼らは二階の集中治療室へと向かった。
看護師たちの遺体を跨いで越え、玲は凪坂のベッドへと歩み寄る。
少女の目は閉じられたままで、一昨日に見た姿と違いは無い。
「もう共鳴はしていないはずだ。悪さをしてるとしたら、首に繋がったコードか……」
「彼女だけよね、首の裏にまで細工されてるのは」
疑問を浮かべる麻莉へ、玲が自分の推測を述べた。
「最後に潜ったのは、凪坂の深層だった。おそらく改変されていない、本来の深層だ」
「前回のは偽物だと?」
「そうだ。武川もいなかったしな」
センター幹部の名前に、麻莉の眉がピクリと持ち上がる。
「武川は彼女に細工してたのね。一体何を?」
「Kの力を現場に伝えるのに、どうやったかってことだ。伝導役を担ったのが、こいつなんだろう」
この玲の考えは正しい。
武川は三ヶ月も前から、凪坂を起爆剤として準備した。
予防接種に来院した少女は、定期的に検診を受けるよう刷り込まれ、頻繁に武川と会っている。
何度も繰り返された刷り込みで、凪坂は武川の操り人形と化した。
事件当日の朝にも通院し、そこでKとリンクさせられ、中継役を与えられたのだった。
Kから凪坂へ、凪坂から舞へ。
深層共鳴の発動は、この死の伝言ゲームで成された。
「こいつの能力の高さで、センターに発見されていないのが不自然だったんだ」
「ずっと以前から、武川に目を付けられていたのね。ダイバーではなく、計画の部品に使うために」
ただ、そうなると、現場で起点になったのは榊原舞ということだ。
最初に潜った舞の深層も、凪坂と同じく既に改変された物。でなければ、舞と凪坂の役割には、もっと早く気付けた。
少女に接続されたコードを外そうとしていた玲は、伸ばしかけた手を引っ込める。
ここに至って、ようやく彼を悩ませて来たいくつかの違和感が、氷解しようとしていた。
「破片の順番だ」
売り場の床に散らばったガラス片は、積もる順番がおかしい。
深層では、混乱したフロアを進んだ舞が工芸ベルを引き落とした。
実際には、ベルの欠片は他の破片の下に埋もれており、フロアの惨状より先にベルが壊れたことになる。
事件の刻限、十八時四十六分に舞がいた場所はアールヌーボー展の会場ではなく、工芸ベルの前だ。
だからこそ、事件をなぞろうとして、深層の彼女はベルへ駆け出した。
彼女が起爆装置だと分からないように、偽装した者がいる。
では、玲が最初にダイブした時点で、彼の目を眩ませるほど複雑な改変ができたのは誰か。
死んだ武川か?
一昨日の夜、初めて行う潜行を、事前に現実の武川が察知することができるだろうか。
前もって舞の深層にいた者でなければ、そんなことは不可能だ。
大体、武川は葉田の深層に潜るのに“苦労した”と言った。初手から彼を翻弄した人間のセリフじゃない。
先の凪坂の深層にいた武川も、玲を見るまでは自分が深層の住人だということを知らなかった。
もう一人、初めから深層内を自由に行動している
舞の深層では、凪坂を改変して、展覧会場に彼女を引き留めた。
藤田を刻限で殺害し、柴浜の世界では執拗に玲を妨害する。
全ては、玲の目を自分から逸らし、あわよくば彼を集合深層に閉じ込めるために。
「オレとしたことが、迂闊だったよ」
凪坂の深層にいた武川が、玲を見ただけで全てを理解できるはずがなかった。
彼が計画を止めに来た、そう考える方が自然だ。
あの武川が深層の住人だと自覚したのは、もっと決定的な何かを見たからではないか?
例えば、玲の背後に出現する別の自分、主役を連れ去るもう一人の武川。
とすれば、屋上から飛び降りた凪坂は、敵の作り出したダミー――。
玲は小さな黒円を、両手の内に出現させる。
円の一部が欠け、彼にこの世界の主役の居場所を伝えた。
この方向は西棟か。
「どうしたの、瀧神くん?」
「つまらん作り物だ。いつまで麻莉の真似をしてる」
彼に看破されたのが契機だとでも言うのか、彼女の顔に黒点が現れた。
目に二つ、口に一つ。
ベッドからも、奇妙な低い呻きが漏れ聞こえる。
真っ黒に窪んだ目で、凪坂も玲を見ていた。
Kを冒涜するような顔真似は、彼の神経を逆撫でる。
偽麻莉の腹へ蹴りを入れると、玲は集中治療室を飛び出した。
――おかげで、攻撃を躊躇わずに済んだよ。
深層の改変者へ感謝とも悪態とも付かないセリフを呟きつつ、死体の溢れる病院を走る。
中央棟一階では、看護師の一人が、廊下に医療器具を撒き散らして白目を剥いていた。
体温計やテープに混じって、血溜まりに銀色が光る。
包帯を切るためのハサミを拾い上げ、ポケットに入れると、玲は西棟の連絡通路を駆け抜けた。
階段を上がりながらも、小型の破壊円を作り続ける。
水圧感知で深層が歪む様子は無く、主役の精神力が強靭なのはありがたい。
目標は三階――舞の三一四の病室だった。
扉を開けて、死臭の充満する室内に入れば、舞の寝るベッドはすぐそこだ。
布団を剥ぎ取り、麻莉に似た彼女の胸へハサミの先を振り下ろそうと構えた時、玲は自分の勘違いを知る。
短く揃えた髪、妹より細く鋭い眉。
――似てるんじゃない、これは麻莉だ。
彼女の穏やかな寝顔に緩みかけた手を、今一度、きつく握り直す。
深層は
写真を破るのと同じこと。
だが、主役を殺害して深層を閉じる、この帰還方法を玲は何より嫌悪していた。
それを強要し、技術を教え込んだセンターもだ。
もはや旧友のような懐かしさを感じる怒りを思い出しながら、彼は鋭利なハサミの先を麻莉へ突き立てる。
中央からやや左、正確に心臓の位置へと。
血潮と一緒に彼女の左手が跳ね上がり、玲の袖口を引きちぎらんばかりに掴んだ。
「瀧……神く……そんな……」
――そんな、何だ? そんな酷い、か。それとも、そんな顔をするな、だろうか。
言葉の続きを告げることなく、彼女の手はダラリと固いマットに落ちる。
変化は玲が瞬きする間に訪れた。
また静かに閉じた麻莉の目。
飛び散った血痕は幻と消え、白いシーツが窓からの光を照り返す。
点滴を繋がれ眠る彼女を、玲は険しい顔で見下ろした。
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