10. 水圧
これまで何度も訪れた真波駅。
帰宅を急ぐ人の波が、足早に駅へ、街へと急ぐ。
夕刻の陽射しに照らされ、駅ビルは濃い朱色に染まる。
――違う。夕日じゃない。
駅構内に入り、玲は券売機の横にある大きなデジタル時計に目を向けた。
十八時四十六分。
いくら現実的に見えても、これは葉田の深層、それも夢の世界だ。
夜にも拘わらず空は明るく、何かを象徴するかのように、赤く滲む。
真波事件で昏睡した被害者に潜行した場合、再現されるのは昏睡直前の深層だ。
完全に昏睡した者の深層は、もうそれ以上、更新されない。しかし、事件後の葉田の脳波には、何度か活動兆候が見られた。
彼女に潜行して辿り着くのは、この僅かな回復時期に見た夢の世界である。
その夢の舞台が真波駅とは、よっぽど事件の印象が彼女にとって強烈だったという
ことだ。
一応、葉田が倒れていた現場を見ておこうと考えて、彼はバス乗り場へと足を向けた。
色以外には、夢らしい特徴は現れていない。随分と忠実な事件時の再現だと、玲は周囲を観察しながら歩く。
ケロッ。
足元が
緑のアマガエルが、一声鳴いて、雑踏の中へと逃げ去る。
舗装された広場をよく見れば、他にも跳ね回るカエルが人の足に紛れ込んでいた。
――カエル好きか。好きなキャラクターを夢に登場させるのは、不自然なことじゃないが……。
駅前のスクランブル交差点、その横断中にも、アスファルトの上をアマガエルがピョコンと跳ぶ。
隣接するバスターミナルは、駅と変わらない混雑ぶりだ。
各方面向けに分かれたバス停に並ぶ面々を、彼は一人ずつ確かめて行く。期待はしていなかったが、ここに葉田はいなかった。
夢の世界の最大の難関は、この主役探しだ。
敵への対応も大事なものの、主役を確保しないと、いざという時の脱出もままならない。
葉田はどこにいる自分を夢想したのか、その答えを探るべく、玲がバスターミナルの屋根を支える柱に手を当てた。
ベージュの塗装を施された柱は、酷く濡れている。
――湿っている?
その冷たい感触に、彼は反射的に手を離した。
水滴が付いているのではなく、柱は水を含んでいるのだ。
玲の背後で、到着したバスが滑り込む。
『このバスは佐雲行きです。途中、南真波、市役所前に停車します――』
流される自動アナウンスに振り返ると、そこには緑のバスと乗り込む通勤客がいた。
真波交通のバスの塗装は、本来、白地に青いラインだ。緑に見えたのは車体を覆う苔、そして、苔にしがみつくカエルたちのせいだった。
乗客がバスのタラップを踏む足音に合わせて、カエルがケロケロと声を合わせる。
「そこまで好きなのか……」
両生類のバスを見送りつつ、玲は街の外観の変化にも注目した。
非常にゆっくりとではあるが、ビルの外壁に緑の染みがあちこち育っている。
鮮やかな発色の苔は、ついさっき触った支柱にも生え、世界は質感を変え始めた。
幾星霜も経たように、緑のカーペットに包まれる信号待ちの乗用車。
視覚障害者用の電子音に負けじと鳴き出すカエルの声。
歩く人々が、ピチャピチャと濡れた足音を立てる。
真波駅が古代遺跡のように自然に還るのも、時間の問題だろう。
だが、そのファンタジックな光景に
「どこもビシャビシャだな……」
自分を中心にして、改変の円を形成すと、玲の周り一メートルのタイルやアスファルトが、真っ黒に塗り替えられる。
彼は意識を集中し、バス停に出現した黒い円模様を広げていった。
玲だから出来る、徹底的な深層破壊。
黒い円内には何物も存在せず、ただ一人、彼だけが虚空に
夢の深層は、昏睡深層より遥かに強度が高い。こんな破壊行為を受けても、それで世界が崩壊することはなく、漆黒の大穴をそのまま受け入れる。
ゆるゆると黒い領域が拡大し、バス停全体の敷地を塗り切ったところで、彼はその成果に目を向けた。
円を心掛けて形成したはずの黒色域は、微妙にへしゃげて歪んでいる。
真円にならないのは、破壊に反発する力が働くからだ。
ダイバーたちは、この改変を妨げる障害を“水圧”とも呼ぶ。
玲が力を抜くと、穴を埋めようと世界を再構築する波が押し寄せ、黒色空間は徐々に掻き消された。
「水圧源はあっちか」
水圧を産むのは深層の主役であり、水圧の最も高い場所、そこに葉田は存在する。
円の凹みを方向の手掛かりにして、玲は駅前通りへと歩き出した。
携帯キャリアの代理店に居酒屋のチェーン店、どこの地方都市でも見る特徴の無い店の並びだ。
但し、遂に店内まで苔に
何を売っているのか怪しくなったコンビニを通り過ぎ、二つ目の大きな交差点へ。赤信号を気にもせず、玲は横断歩道の真ん中へと進入する。
近づく車へ掌を掲げると、全てその場でピタリと停止した。
時が止まったような交差点の中央で、また彼は黒色域の形成を試みる。
先ほどよりは少し小さい、直径十数メートルの破壊円。再確認用なら、これで充分だろう。
凹む向きに沿い、玲は道を右に曲がる。
「凪坂相手にも使えれば、楽だったんだがな……」
そう嘆いても、ICUに収容された患者に破壊円を試すのはリスクが高い。
“水圧感知”、これはセンター時代、玲が生み出した技術だった。
主役対象者を素早く発見する方法として、大いに関心を呼んだが、使いこなせる者はほとんどいない。
破壊円を生成できるダイバー自体が少ない上に、夢の深層に潜ろうなどというのは、玲くらいしか存在しなかったからだ。
通常深層で試した三人のダイバーは、皆、対象者と一緒に精神崩壊を起こしている。
それ以降、水圧探知は夢限定の技術とされてきた。
足を運ぶ度に鳴る音は、もうグシャグシャと湿地を歩くようだ。
駅から離れるにつれ、苔と湿度は増している。
交差点を過ぎた辺りから、建物の表面は緑以外の色が失われた。主役が近い証拠だろう。
葉田が徒歩圏にいるのは助かるが、今回の主目的は彼女ではない。敵が来なければ、無駄足になってしまう。
妨害を望む、そんな皮肉に街が応える。
淡々と歩く玲の目の前で、
グニャリと湾曲したコンクリート塊は、一瞬の静寂後、土くれとなって崩れ落ちる。
土砂の山が道を埋め尽くす中、一層大きくカエルが声を張り上げた。
突如現れた苔の巨大なバリケードに、彼は不敵に笑う。
「やっと来たか……」
全方位を警戒しながら、玲は
黒い円が障害物を飲み込んで展開される。
円を凹ませた歪みは二カ所。
主役だけでなく、もう一つ改変に抵抗する力がある。
「見つけたぞ」
カフェやヘアサロンの入居したビルを曲げ潰したのは、葉田ではない。
彼女に接近する玲を止めようとした、もう一人の人物、敵だ。
水圧は道の前方と、彼の左方向に感じる。左側の商業ビル、その一階のレストランへ彼は右手を掲げた。
「
蛇腹のように建物が左右に畳まれ、玲の眼前に一本の道が開かれる。
周囲より頭一つ背が高いビジネスホテルは、地衣類によって覆われ、水煙でくすんで見える。
地面から立ち上る水蒸気が霧を産み、玲の身体をベトつかせた。
彼がホテルへ向かって駆け出すと同時に、緑の乗用車やバンが、道を埋めるべく躍り出す。
タイヤを転がすことすらせず、車体を曲げて飛びかかる姿は、まるで巨大なカエルだ。
ただの深層なら避けざるを得ない攻勢も、ここは夢の中。
近付く玲の手が軽く触れるや否や、道の脇へカエル車は弾かれる。
何匹来ようが同じことだ。難無く先へ進む彼を足止めしようと、今度は苔壁が迫り上がった。
土中から何重にも壁が形作られ、ホテルの前を遮断し、玲の前に立ち塞がる。
「邪魔をするなっ」
のっぺりした壁に、観音開きの自動ドアが出現した。
彼の接近に合わせ、ズリズリと音を響かせて土のゲートが動き始める。奥へと順に扉は開け放たれ、玲を迎え入れた。
元のホテルの雰囲気は無く、魔物でも巣くっていそうな遺物を思わせた。
「……溶けろ」
コンクリートであろうが、苔の塊であろうが、彼が命じたなら、それが実現する。直方体の高層建築は、熱せられたバターとなって、形を崩し始めた。
緑とグレー、混じり合った二色の濁流が溶け広がる。流れ出した泥水は、玲のいる場所だけを避けて街路に溢れた。
高さを失ったホテルは、どんどんと沈み込み、やがて地に均される。
盛り上がるぬかるみの台地に、玲の険しい視線が送られた。
――どこにいる? 見逃すものか。
重力に引っ張られ、泥はより低く外へと流れ、毒々しい沼地となる。
その中央に隆起する泥人形――泥水を浴び、土くれにしか見えない人の影。その異形が両手を左右に広げると、
自然の摂理に逆らう土砂降りの暗い雨が、玲の視界を奪った。
「無駄だ!」
全ての雨滴がその場でピタリと動きを止める。
再度、重力を取り戻した雨は地面に叩きつけられ、土の飛沫が騒々しい音を立てた。
目くらましに乗じて、泥影が背を向け走り出すが、彼に逃がすつもりはもちろん無い。
「折り返せ」
逃げ去る敵の進む地面が、カーペットのように玲のいる方向へ巻き上がった。
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