11. 曳航

 立ち上がる地面に押され、泥の人影はゴロゴロと玲の方へ転がされた。

 無様に地を這いながらも、尚、自身を守る障壁を構築しようと試みる。


 盛り上がりかけた土は玲によって強制的に消し去られ、黒い小さな円が泥人形を囲むようにいくつも出現した。

 敵のそれ以上の改変を、破壊円が拒絶する。

 これで彼の接近を止める物はもう存在しない。


 近くで見ると、苔や泥の塊だった人物が、髪の長い女だと分かる。

 凪坂が彼に刷り込もうとしたように、深層内においてもダイバーの能力を使うことは可能だ。

 いくつかある深層に働きかける力の内、玲の最も得意なのは、やはり潜行ダイブ行為そのもの。


 ――葉田の深層を改変したこの女、こいつに重層潜行してやる。


 泥地に伏せる女の髪を掴み、後ろに引き上げると、彼はその顔を覗き込んだ。

 無理に背を反らされ、女がうめく。


「ぐっ……」

「もう観念しろ」


 多木津暁歩、精神外科医だという人物を予想していた玲は、現れた女の正体に動きを止めた。

 顔を隠す泥を手で拭い、息を荒らす少女の顔をもう一度見直す。

 汚れていても、見間違いではない。茶色い胴体を包むのも、南真波高校の制服、その成れの果てだ。

 榊原舞、麻莉の妹が、そこにはいた。


「一体、どういう仕掛けだ……」

「はな……して……」


 彼女は刷り込まれて動いているのか、それとも深層の虚像なのか。

 何れにせよ、敵へ繋がる手掛かりは、今はこの少女のみ。

 だが、仮に舞本人にリンクしているなら、またあの惨劇の百貨店へと潜ることになる。

 これでは堂々巡りだ。

 一時の躊躇、その間にも、舞は彼の手から逃れようと身をよじる。

 彼女の背中を足で踏み付け、玲は覚悟を決めた。


 ――いいだろう、この少女がさらにどこへ繋がって行くのか、付き合ってやろう。


 泥水に左手を浸け、その手で拳を握る。水滴が地面に落ち、ピチャンと小さな音を響かせた。

 舞の口許が微かに緩んだように見えたのは、諦念からだろうか。

 世界は暗転し、玲は舞の深層へと潜行した。





 真波総合医療センターの正面ゲート。中央棟の入り口が奥に見える。

 生暖かい初春の陽射しが、右手に植えられた二分咲き桜の花を美しく照らしていた。

 ラフな服装の入院患者が敷地内を散歩し、沢山の外来と見舞客が病院を出入りする。


「舞の深層じゃないのか……?」


 例え彼女ではなくても、事件の昏睡者の深層にしては、時間と場所に違和感があった。

 玲は中央棟ロビーへと進み、呼び出しを待つ人々の座るソファーの間を抜け、奥へと進む。

 病院ではありふれた日常の光景がそこに在った。

 処方箋を求める患者が長い列を作り、その脇を白衣の職員たちが忙しく通り過ぎる。

 ボードを抱えて歩く看護師を見つけると、彼はその肩に手を置いた。


「今は何時だ?」

「十二時二十分です」


 腕時計に目を落とした看護師に、さらに質問を重ねる。


「……何月何日だ?」

「四月四日です」


 この病院で潜行を開始した、その当日だ。

 誰に潜行したら、ここに行き着くのか。


 看護師を解放して、人の群れを見回しつつ、玲は自分がここでするべきことを考える。

 理屈に合わないこの深層でも、最初にやらなければいけないことは同じ。まず潜行対象者を探せ、ダイバーの鉄則だ。


 榊原舞の眠る病室を目指し、彼は西棟へと移動することにした。

 中央棟の廊下を左に進み、各科の診療室や処置室の前を過ぎると、棟を跨ぐ接続廊下へと出る。

 西棟に入ってすぐの階段を使って三階へ。

 舞の病室は一度訪問してはっきり覚えている。その階の三一四号室だ。


 部屋の右一番奥に、昏睡する少女は眠る――眠っていたはずだった。

 相部屋の患者同士を区切るカーテンは完全に開放され、窓からの光がベッドを照らす。

 綺麗に片付けられた空のベッドを。

 玲は枕元に進み寄り、納得出来ないとばかりに誰もいないシーツへ手を突いたところで、後ろから声を掛けられた。


「瀧神くん、来てくれたのね」


 舞の姉は、力無く彼へ微笑む。

 スーツ姿の榊原麻莉を、彼は険しい顔で凝視した。

 こんな過去は有り得ない。こんな麻莉は、絶対に存在しない。


「少し遅かったわ。舞は今朝亡くなったの」


 ――この女は、何を言い出すつもりだ。


 再会の喜びに混じる憔悴、そして妹を失くした悲嘆。よく出来た作り物だと、玲は表情をより強張らせた。


「生きていたら、ダイブを頼むつもりだったのよ。ここで待っていれば、あなたに会えると思った」


 過去、いや事実を改変した深層世界。ここは誰かの夢の中なのか。

 舞の死を夢想する人間は誰だ。そもそも、少女を知っている人物は家族である麻莉、もしくは友人――。


「凪坂か。確かめてみよう」

「あっ、瀧神くん、まだ話が――」


 中央棟へ逆戻りする玲を麻莉の虚像が呼び止めるが、彼は振り向きもしない。この深層は、どこか彼の神経を逆撫でた。

 理由の分からない苛立ちを覚えながら、中央棟、集中治療室へと玲は急ぐ。


 先ほどの経路を逆に辿り、接続廊下から二階へ上がると、慌ただしく動く医者や看護師ばかりが目に付く。

 この階に一般人の姿は少なく、途中、彼を呼び止める看護師を三人ほど無害化して、ズカズカとフロア中央にある治療室へと近付いた。


 中まで入らなくても、目的の昏睡患者がいないことは直ぐに分かる。

 照明が消え、計器の止められたICUに人の気配が無い。

 近くのナースステーションに赴き、玲は対応に出た看護師の手を握った。


「集中治療室にいた患者はどうなった? 凪坂鈴音だ」

「あ……今朝九時頃、亡くなられました」


 またしても、期待を裏切って死亡報告が告げられる。

 死体安置所に行き、舞と凪坂を探すべきだろうか。

 いや、舞と凪坂との接点は無いが、これが夢ならもう一人確かめるべきだと、玲は女の顔を思い浮かべた。

 この上層にある夢を作った葉田榎津美、次に目指すのは東棟だ。

 きびすを返した彼の正面に、沈んだ表情の麻莉が立っていた。


「少し遅かったわ。凪坂は今朝亡くなったの」

「……そうらしいな」


 同じ服装、ほとんど変わらないセリフ。


「生きていたら、ダイブを頼むつもりだったのよ。ここで待っていれば、あなたに会えると思った」

「…………」


 先の出会いを再現する麻莉は壊れたロボットそのもの、明らかに誰かの創造物だ。

 玲はセンターで働かされていた時のことを思い出す。


 ダイバーの能力には、大きく三つの系統がある。

 潜行し、深層を改変する力。

 相手の深層に何かを刷り込む力。

 そして三つ目が最もレアな能力、自分の深層に相手を引き込む力だ。

 曳航えいこう、または曳き込みドローインと呼ばれており、使える者は限られる。


 潜行の得意な玲は対外工作任務に従事していたが、き込みの得意な者の仕事は、主に尋問や洗脳といった内勤だった。

 使用者とも面識は無く、数が極端に少ないため、今までその可能性を除外してしまっていた。

 玲自身が使えない能力であるのも、意識から外れてしまった原因だ。


 柴浜の深層で事故を多発させたのは、玲も使う深層改変能力に因るもの。

 藤田を女を使って呼び寄せたのには、刷り込みを利用している。

 では、この深層は、“曳き込み”ではないのか。舞に潜行する瞬間、逆に敵の深層へ曳き込まれたのでは?


 多木津の名は得たものの、医者一人が出来ることを超えている。

 複数の能力を駆使する敵は、単独犯と考えない方がいい。相手は予想以上の強敵だ。


 “彼女は今朝亡くなったの……”


 再び同じセリフを呟く麻莉を押し退け、玲は東棟へ走る。

 この世界を脱出し、対策を練り直さなければ。主役の可能性に賭け、葉田の病室へと彼は全力で急行した。

 廊下でぶつかりそうになった医療技師を押し退け、東棟への接続路で文句を付けてきた患者を一瞬で黙らせる。


 階段を一段飛ばしで駆け上がり、二一六号室の扉を乱暴に開けた。

 一番手前のカーテンを引き開け、中を覗く。

 その先にあったのは空のベッド。

 そして、麻莉。


「少し遅かったわ。葉田は今朝亡くなったの」

「くそっ……」


 玲は思わず拳でベッドの薄いマットを殴った。


「ここで待っていれば、あなたに会えると思った」


 虚像との会話が、無益に再現される。


 ――次に向かうべきはどこだ?


 扉に振り返った玲は、入り口に立つ別の麻莉と向き合った。


「少し遅かったわ」


 親しげな表情は消え失せ、黒い双眸そうぼうに生気は感じられない。

 生白く無表情な二人の麻莉が、彼を挟んで両手を前に伸ばした。


「……私も今朝亡くなったの」


 彼女の首がカクンと落ち込み、すがるように玲へと倒れ込む。

 油断。そうとしか言いようが無い。

 数少ない友人が自分に向けて倒れてくれば、咄嗟にその身体を支えようとするのは、反射行為だった。

 例えそれが、如何いかがわしい虚像であっても、だ。

 触れた彼女の手から、力が流れ込む。

 ただでさえ白い病室が、光で漂白されようとした。


「させるかっ!」


 白色を打ち消す、病室の確固たる像。多少隙を突かれても、簡単に刷り込まれるような玲ではない。

 しかし、この麻莉は囮だった。

 背後から近付いたもう一人が、彼の肩をガッチリと掴む。


「少し遅かったわ。少し……」


 瞬時に黒く塗り潰される世界。

 更なる深みへと、玲は曳き込まれたのだった。

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