12. 海の底

 真波総合医療センター、東棟の二一六号室。自分の居場所は何も変わっていない。

 違いは誰もいないこと。

 壊れた人形のような麻莉は、もう見当たらない。


 病室の区切りカーテンを、玲は端から全て開けていく。

 葉田のベッドと違い、乱れた布団や点滴も放置されているが、患者はどこにも存在しなかった。

 窓の外は明るく、人気ひとけの無い病院の中庭が窺える。ポプラの葉が揺れていなければ、静止画像のようだ。


 無人の夢――。

 部屋の扉を開け、廊下に一歩踏み出した彼の進路を、ガラスのテーブルが遮った。

 テーブルを挟んで向かい合わせに置かれたソファー、その奥に濃褐色の厳つい机と革張りの椅子が見える。

 来た扉を振り返った先は、病院ではなく、暖色のライトに照らされた狭い廊下だ。窓にはブラインドの下がり、外の様子は窺えない。

 高級机の上に、この場所を教える手掛かりがあった。


 転がる万年筆、コードレスの電話、幼い少女の写真を入れたアクリル板のスタンド。

 電話の横、アルミのケースに重ねて入れられた名刺を、一枚取り上げる。


「柴浜工作機械、代表取締役。柴浜汰司の部屋か……」


 入って来た入り口以外に扉は無く、おそらく会社であろう廊下へと進むしかない。

 部屋の外に出た玲は、四人掛けのテーブルが並ぶレストランに居た。

 パスタやサラダが、食べかけのまま机の上に放置されており、店内にはボリュームを抑えたピアノ曲が流れる。

 背後で自動ドアの開く音がしたが、来客など存在しなかった。


 湯気を立てる白磁のカップが目に留まり、彼は鼻先まで持ち上る。

 エスプレッソの香りが鼻腔をくすぐるが、口を付けるのは止めておく。

 ランチかディナーか、皿の数からして食事時の喧騒が目に浮かぶが、話し声も食器に当たるフォークの音も聞こえない。


 玲は店のウインドウに顔を近付け、スモークガラス越しに外を覗く。

 天井のある商店街、ここは地下街だ。煌々と点く照明が、客のいない店を眩しく演出する。

 おそらく真波駅地下のショッピングモール、“ゼファー”。東王百貨店にも近い。


「閉じ込める気か。深層の断片に」


 彼が入って来たのは、レストラン入り口の自動ドアだった。扉を潜る度に、別の空間に飛ばす構造らしい。

 よくもまあ、こんな深層を作り上げたものだと、敵の手並みの良さに玲もほとほと感心した。

 曳航えいこう深層は、普通の深層とは全く違う。相手をき込むために能力者が作った、人造の深層世界だ。

 玲にしても説明を受けただけで、実際に体験するのは初めてだが、この深層の凄さは理解できる。


 曳航能力者は普通、自分の記憶を利用して、世界を再現すると言う。

 生まれ育った街や、勤務先、自宅の一室。曳航ダイバーは、そのバリエーションを増やす訓練を受けていた。

 曳き込みは拷問にも使われたことを考えると、どんなシチュエーションを用意したのか想像も付く。


 ところが、単一でも困難なその世界構築を、玲のいるこの世界では、複数の深層を組み合わせて行っている。

 それも重ねて潜行した深層の奥底でだ。ガラス細工のように繊細な仕事振りと言えよう。


 玲は自動ドアを抜け、次の世界へ移動する。

 夕方の薄暗い教室。三十余の生徒用の机の天板に、窓枠の影が落ちる。

 机と椅子の大きさからして、高校の教室だろう。

 橙色に染まる外の景色を眺め、彼は確信した。南真波高校で間違いない。


 深層の断片には、昏睡患者の素材が使われている。

 柴浜の会社に、舞と凪坂の高校、敵は彼らに潜行し、そこで得た世界をコピーした。

 こんな技術を持つダイバーを、玲は知らなかった。


 しかしながら、どんな高度な能力で作られた世界でも、脱出方法は同じはずだ。

 世界の主役を探すべし。

 無限回廊のようなこの深層の迷宮を、玲は出口を求め彷徨さまよい始めた。


 深層を小さく切り取ったような各断片は、扉で区切られているとは限らなかった。

 階段の踊り場にある百貨店のトイレは、外へ踏み出した瞬間、バスターミナルに停まるバスの車中に切り替わる。

 開きっぱなしの扉からバスを降りると、どこかのテニスコートへ。

 コートの白線を踏み越えて、二度目の南真波高校に移った。


 ――グランドの砂地から出ると、次に移動するパターンかな……。


 辟易しながらも、玲は歩き続ける。

 導線上に転がるサッカーボールを脇に蹴りつつ、グランドを囲むフェンスの切れ目へと向かった。

 ふと見上げた校舎に、動く影を感じ、彼は立ち止まって目を細める。


「今のは……?」


 しっかり姿を捉えたわけではないが、確かに自分以外の存在を察知した。

 敵はいる、必ず、この同じ世界に。

 グランドを出れば、また違う場所に飛ばされるだろう。それでも、移動し続ければ、いずれは敵と同じ断片に辿り着くはず。

 次へ進もうと、彼は足を早めた。


 グランドを越えた次は、真波駅二番線ホームへ。

 周囲を確かめ、線路に飛び降りると、そこは駅前通りのコンビニ店内だ。無人の店に興味は無く、外に出るべく直ぐさまガラス扉に手を掛ける。

 だが、扉を押し開けようとする手を止め、玲はレジの前に戻った。

 カウンターに置かれた小さな飲料品のケースを開き、中から缶コーヒーを取る。


「気分の問題、だったな」


 プルタブを倒し、彼は苦いコーヒーで口を満たした。

 店内の時計は十時半、暗さから考えて夜だ。断片の時間はバラバラで、法則性はない。

 半分ほど缶の中味を空けると、また移動を再開する。

 南真波高校の屋上から、駅一階の広場へ。


「動く者は誰もいないか……いや、あいつは!」


 二階のカフェから見下ろす影を発見した玲は、階段に向けて走り出した。

 遠くて顔まで識別しにくいが、人に違いない。


 ――そこを動くなよ。


 今回の断片が二階も含んでいることを期待して、玲は一段目に足を掛けた。


「くっ、飛ばされたか」


 彼がいるのは地下街ゼファー、そのど真ん中だった。


「……どこまでが区切りだ?」


 ブティックや化粧品店の前を歩きながら、断片の境界線を考える。

 地下街出口が境目だとすると、少し広すぎる気がした。この中央を貫く通路、その直線を外れると次に移動と言ったところか。

 左右に曲がることはせず、彼は真っ直ぐ突き当たりまで歩くことにする。


 人がいない、その根本的な異常を除けば、不審な点は見付けられない。

 ヘアサロン、書店、喫茶店と通り過ぎ、一軒の店の前で足を止める。

 動く人影、しかし、ここは――店内を向き、テーブルを見回す人物に、もちろん覚えはあった。


「――オレか」


 レストランの前に立ち、自動ドアを開け、自分・・を見ながら中へ入る。

 駅二階、藤田の待ち合わせたカフェへと景色が急変した。

 玲は慌てることなく、落下防止のフェンスまで近寄って一階を見下ろす。


 暫くそのまま観察を続けると、いきなり構内に見知った人物が出現する。

 こちらを見て、駆け出すその男を、やはり玲は知っていた。

 階段で掻き消える自分を確認し終わると、彼は白い客用の椅子に腰を下ろして、背もたれに身体を預ける。


 ここまでに体験した深層を思い返して、納得の行く推論を出そうと思考を巡らせた。

 葉田の夢から、舞の深層へ。

 さらに麻莉に曳き込まれたのが、この海の底。

 ダイバーを閉じ込めるために作られたこの世界は、時間すら封じられている。何度もループする永遠の牢獄だ。

 その精緻な罠を用意した敵に、玲は吹き出した。


「ふっ……ははっ、やり過ぎだよ」


 曳航にはうとくても、玲は深層の経験を積んだプロだ。こんな深層が有り得ないことを、誰よりもよく知っている。

 深層には主役が必ず存在し、また絶対的な終了の刻限が決まっていた。

 対象が現実で生きる時間、それ以上先に深層が進むことは無い。


 ――いくら曳航で作った人造世界でも、永遠に繰り返すなんてことは起きないんだよ。誰だか知らないが、少し演出に凝り過ぎたな。


 玲は椅子から体を起こして、丸テーブルに両手を付いた。

 まるで時間を巻き戻したような現象は、この世の道理から大きく逸脱している。悪夢――正に夢でしか、こんなことは起きない。


「よく出来ただ」


 普通の断片を組み合わせただけの深層なら、彼も対処に慎重になる。

 無理をすれば、潜行対象者にダメージを与えてしまうからだ。しかもこの場合、榊原舞が対象者の可能性もある。


 しかしながら、これが夢を組み合わせたのなら、遠慮することはない。目の前のテーブルを見つめながら、それでも玲は一瞬、躊躇した。

 舞を傷付けてしまうと、何のために潜行を繰り返したのか分からなくなる。

 情を感じるには余りに疎遠な妹でも、麻莉にとって唯一の肉親だ。彼女の目的は他にもあろうが、舞は簡単に諦めていい人間ではなかった。


「……最後は賭けか。は悪くない」


 この最深の層を壊しても、上に影響は出ない、その賭けに彼は乗った。

 彼の手から黒円がスルスルと広がる。光をも飲み込む虚無空間が、カフェのテーブルを消し、フロアを覆う。


 虚空に立つ玲は、更に円を拡大しつつ、その縁が描く奇妙なラインを注視した。

 破壊円はどこか一部が凹むのではなく、生き物のように波打って姿を歪める。

 敵の水圧は動いている……いや、正確には、この断片の繋がりが一定ではないのだ。


 ここに留まれば、深層の断片がどう繋がり、動くのか解明できるかもしれないが、そんな座興に玲は関心を示さなかった。

 更に大きくなった黒い円は、駅の一階広場を超え、百貨店も範囲に入れる。


 深海世界は、全てが闇で塗り潰されて行った。

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