2 海の底

07. 凪坂鈴奈

 集中治療室はナースステーションのすぐ近くに在り、患者の状態チェックも頻繁に行われる。

 潜行するには、看護師たちを部屋から遠ざけたい。


「また眠らせるのか?」

「そこまでしなくても、患者がいないと思わせれば充分よ」


 空の治療室、それだけを刷り込み、麻莉は近付く人間を帰らせるつもりだ。

 看護師の人数を考えると、その方が問題は少ない。


 凪坂鈴奈は、昏倒場所が学校であったのが不運だった。

 彼女の友人の通報で救急車こそ到着したものの、受け入れ先を探して隣市まで行くことになる。

 駅前の惨事に対応するため、真波医療センターなど近隣の病院は緊急態勢に入っており、少女の優先順位は低かった。


 その後、真波事件と同様の症状と判明すると、彼女はここ真波医療センターに移送される。

 初期搬送が遅れたためかは分からないが、身体機能の低下が著しく、現在はICUの世話になっているというわけだ。


 治療ベッドまで来た玲は、管だらけの少女の顔を見る。煌々と照らされる凪坂の顔に、彼の表情は険しくなった。

 彼女の額に張り付いた前髪を指で払い除け、もう一度よく顔を確かめる。


「一度会ってる」

「凪坂鈴奈に? どこで?」

「深層だ」


 榊原舞とガラス工芸展を鑑賞していた、ショートカットの女子高生。


 ――間違いない、最初の潜行で彼女を見た。事件刻限の百貨店と学校、二カ所同時に存在できる理由は何だ……?


「瀧神くん?」

「あんたは凪坂を知らないのか? 妹さんの友人のようだぞ」


 玲の指摘に、麻莉は多少困った様子で答える。


「舞の交友関係は知らないの。この日も、久々に会う約束だったから」


 この仕事をしていて、妹と過ごせる時間はそう持てないだろう。彼は気にするなとばかりに右手を挙げ、顔を凪坂に向け直す。


「……看護師は任せた」

「了解、いってらっしゃい」


 玲の音叉が、医療機器の立てる機動音に混じり溶ける。

 四人目の潜行は、最初から大きな疑問を伴って開始された。





 南真波高校の校門前。今までの潜行時に比べると、対象とかなり近い場所からのスタートだ。

 調べるべきは二つ。

 まず、なぜこの場所で凪坂は昏倒したのか。

 もう一つは、学校にいるのが凪坂なら、舞の隣にいたのは誰か、だ。


 現在時刻は、校舎正面壁に取り付けられた丸時計で分かる。

 十七時三十五分、上手くやれば、後で百貨店に向かっても間に合う時刻だった。


 玲は堂々と正門前の守衛室に寄り、関係者証を提供させる。

 ホルダーに入ったそれを首から掛け、職員室に向かいながら生徒の顔を確認していった。

 グランドを走るサッカー部、下校途中の学生、喋り込む数人単位のグループ。


 彼はすぐに、深層特有の異変に気付く。

 何人かの男子学生が、同じ顔をしている。

 柴浜と同じ現象だが、女子高校生の場合なら、原因は恋愛感情が多い。


「さて、当人はどこだ……」


 春休み中に学校にいるとすると、凪坂は部活動中だろうか。

 クラブ名簿が欲しいと考えた玲だったが、幸運にも校舎玄関で目的の人物を発見した。

 下駄箱の近くで話す二人の女学生、一人は凪坂、もう一人は――舞だ。

 来客用のスリッパをまさぐるフリをして、彼女たちを視界の端に収める。


「――鈴奈と一緒に行こうと思って。チケットが余ってるの」

「ありがと。でも、もうちょっと待って……」

「急げばケーキセットの無料券もあるよ。最近、全然一緒に遊んでないじゃん。行こ!」

「調子が悪かったから……あっ、舞――」


 渋る凪坂の腕を、舞が強引に引っ張ろうと手を伸ばし……途中で戻す。

 不自然に途切れた会話は、十秒ほどで再開した。

 但し、話しているのは舞だけだ。


「すっごく綺麗なんだよ、キノコ。いくらくらいするんだろ……」


 虚空に喋りかける舞を、凪坂は黙って見つめる。

 友人が下履きに履き替え、玄関を出て行くと、凪坂は校舎内に顔を向けてぼんやりと周囲を見回し始めた。


 ――こいつ、刷り込みやがった。


 ダイバーなら、気付かない者はいない。

 凪坂は、舞の申し出を断るために深層に手を加えた。刷り込んだのは、誘いに乗った自分自身の姿だ。


 ダイバー素質のある者を、センターがこんなところに放置してることに、玲も嘆息を漏らした。

 手慣れた刷り込みの具合から見て、かなりの強能力者に思える。


 彼の疑問は、これでいくつか氷解した。

 舞の深層にいたのは、彼女が刷り込まれた凪坂で、実体はこの学校にいる。

 現場から離れたここで昏倒した理由も、推測は出来るが――。


「凪坂さん!」

加西かさいくん」


 廊下の奥からやって来た男子学生を見つけ、彼女は満面の笑みを浮かべた。

 男の顔は、校舎前で散々見たものと同じ。背が高く、一般にはイケメンと呼ばれるであろう涼やかな男子生徒は、加西というらしい。

 彼の抱える大きな黒いケースを、凪坂が下から支えた。


「一緒に運ぼうと思って、待ってたのに」

「これくらい、一人で大丈夫だよ」


 彼女が友人を刷り込んでまで待ったのは、この男であろう。

 玲や麻莉に比べて、余りに牧歌的な潜行能力の使い方に、彼も苦笑を浮かべるしかなかった。

 加西は階段を上がり、すぐ後ろに凪坂がついて行く。

 数メートル空けて、その下に玲。


 彼らの関係は、歩きながらの会話で把握できた。

 二人は天文部員で、加西が部長だ。今日は観測活動日だったが、出席はこの二人だけだった。

 凪坂には絶好のチャンスというところだ。調子の狂う高校生カップルに、この後の深層脱出を思うと、少しウンザリもする。


「榊原さんが探してたけど、会った?」

「見なかったよ。先に帰ったんじゃ」


 他愛のない会話を垂れ流しつつ、一行は二階、さらに三階へ。

 屋上への階段に、凪坂が足を踏み出した時、彼女はくるりと振り返った。

 予期していなかった行動に、玲も思わず立ち止まり、二人は暫し見つめ合う。


 彼女の動きは、一瞬だった。

 一足飛びに玲の前まで駆け寄ると、彼の左腕を両手で掴む。

 その彼女の腕を、彼は右手で握り返して引き剥がそうとしたが、既に遅かった。


 視界を塗り潰す白い光。静止する世界――。


 ――この女、オレに刷り込むつもりか!


 潜行者の初期講習では、対ダイバー戦技術の習得は必須だった。

 玲はこの技術でも、他の追随を許してはいない。


「ナメるな、新米が」


 溢れる光を上回る速度で、学校校舎が再構築されて行く。

 白色空間と、陽の落ちた薄暗い階段が、交互に明滅を繰り返し、最後には光は完全に消滅した。

 唯一、女が玲の上を行く優位性があるとすれば、彼女がこの世界の主役だという点だ。

 止めたければ、殺すしかない。


「凪坂さん、その人は誰!?」


 近寄る加西に視線をズラした隙に、彼女は玲を突き飛ばし、階段の踊り場までフワリとジャンプした。

 追って跳ぼうとする彼を、加西が背後から羽交い締めにする。


「彼女に何をするつもり――」

「離せ」


 恋人未満の男は、大人しく力を抜いた。

 ほんの一瞬、その僅かの時間で、凪坂は猿のように階段を跳ね降り、大きくリードを広げる。


「くっ……やってくれるっ!」


 走り出した玲は、自分の油断に歯を食いしばった。

 危篤状態の主役、相手としては最悪に近い。無理な改変は、凪坂の精神を破壊する。

 時刻は十八時七分。

 刻限まで半時間と少しの、命懸けの鬼ごっこの始まりだった。


 玄関を飛び出したところで、玲は先を走る凪坂の背を確認する。

 小柄な女子高生の走力からして、異常なスピードだ。限界一杯で駆ける彼女に追い付くには、さすがに正攻法では無理だった。

 彼は手近な学生たちに手を触れ、次々に命令する。


「あの女を捕まえろ」


 バネ人形のようにダッシュを始める制服の集団。これだけでは、まだ足りない。

 深層へのダメージを覚悟の上で、玲は地面に手を付けた。


「閉まれ!」


 校門の鉄柵が、右から左に高速で滑る。

 目の前で進路を塞がれた凪坂は、鉄扉を乗り越えようとしがみついた。


 追いついた男子学生二人が、彼女を引きずり降ろし、さらに男女数名の追っ手が身体を拘束しようと手を伸ばす。

 暴れる凪坂も、何人もに山乗りされては身動きが取れない。

 悠々と接近した玲は、俯せになった彼女の後ろ髪を掴んだ。


「手間を掛けさせやがって……恨むなよ」


 膝を付き、右手は髪、左手は彼女の顎へ。

 勢いをつけて捻り上げると、女子高生の首から、ボクンと嫌な音が鳴る。

 異様な角度で曲がった頭部を見下ろし、玲は帰還に備え立ち上がった。


「みんな解散しろ」


 役目を終えた高校生たちは、散り散りに遺体から離れる。

 深層に崩壊の兆しは見られず、無事に離脱できることに彼は少し安堵した。


 ――五秒。長過ぎる。


 遺体の首に手を当て、呼吸が止まっていることを確認する。

 さらに三秒。

 玲はまだ周囲にいる学生たちを見回した。

 捕物に参加した男子生徒、呆然とグランドに立つサッカー部員。思い出したように悲鳴を上げる女子生徒――凪坂と同じ顔を持つ、女たち。


「いつの間に上書きした!」


 後手に回ってしまった玲は、この追跡戦で大きく水を開けられたことを知る。

 入れ代わりのチャンスがあったのは、玄関辺りか。

 校舎に目を向ければ、凪坂の群れがこちらを見ている。学校の敷地から逃げ出されていれば、詰みに近いが――。


「出来ることからやろう。ここの連中からだ」


 彼の目に映る七人の凪坂の一掃に、玲はまず取り組むことにした

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る