08. コピー
凪坂の行動には、一つどうしても腑に落ちない点が有る。
深層の主役である彼女が、なぜ自由に動けるのか。
最強のダイバーである玲にしても、主役に直接改変を加えることは
ましてそれが衰弱した昏睡者であれば、自分の命にも係わる。
藤田も柴浜も、自分の過去の行動をトレースしており、刻限には駅前に現れた。
しかし、凪坂は、その過去の再現を途中でキャンセルしている。
敵が主役の行動すら改変できる能力の持ち主なら、玲の旗色は一気に悪くなるであろう。
「……深層に歪みが無いのが救いか」
外灯の照らす校舎玄関は、現実世界の光景と何ら変わりはなかった。
肉体的にはともかく、凪坂の精神力は相当、確固たる物のようだ。
居並ぶ生徒たちに、玲の命令が繰り返される。
サッカー部は何も見ていない。男子生徒は立ち去れ。凪坂のコピーたちは、玄関前に集まれ。
玲を中心に、改変の揺らぎが波紋のように広がった。
校門前の遺体に目を向ける者は、もう誰もいない。黄昏時のグランドには、運動部の掛け声が響く。
凪坂たちは全員、黙して口も開かず、校舎前の外灯の下に集合し、彼が近付くのを待った。
本物が混じっているなら、命令を受けた
七人の凪坂の内、右端の一人の手を玲が握る。
「いきなり消すのはマズいか……」
軽い改変を試して、主役特有の抵抗があるか確認するのが先だ。
「髪を茶色に」
凪坂一号の黒い地髪の先端が、明るい茶色へ変わる。深層改変への抵抗感は無く、空間に歪みや亀裂も生じてはいない。
これで真贋が判別できる。一人ずつ殺して行くより、効率がいい。
用の済んだ一号は、邪魔にならないよう退場してもらう。
「寝ろ。起きるな」
玄関の地面に伏せた女子高生が、寝息を立て始める。後はこの手順を繰り返すだけ。
二号、三号と寝かしつけ、五人目に取り掛かった時だった。
それまでと同じく玲が女の左手を握ると、彼女は右手で彼の腕を掴み返す。
白色の発光。
「お前か――」
見付けた、その思いは直後に打ち消された。
刷り込もうとする五号に続き、六号が空いていた玲の左腕に抱きつく。
「こいつら……」
二方向から来る刷り込みのうねりが、白い光を倍増させた。
校舎に重なって、夏の海が透けて見える。真昼の強い陽射し、打ち寄せる波頭が像を結ぼうとした。
「ここは学校だっ」
二人の凪坂が、身体をビクンと跳ねさせ、彼を掴む手を緩める。
今度は玲が逆に、女たちの腕を潰さんばかりに握り締めた。
「寝てろ!」
糸の切れた人形のように、二人の女子高生が崩れ落ちる。
刷り込みを跳ね返した玲は、反転して猛然と駆け出した。
今の一連の攻防は彼の隙を作るためであり、それを利用して逃げ出したのは凪坂七号だ。
最初に始末した0号同様、七号も校門から外に出ようとしている。
また追っ手に使えそうな男子生徒を探した玲は、その必要は無いと思い直した。
先行した凪坂のリードは数メートル、この距離なら校門で追い付ける。
グランドの横を疾走し、0号の死体を飛び越え、校門へと一直線に向かう七号。
門扉が迫り、捕獲のチャンスと考えた彼の見ている前で、凪坂七号は空中に身を翻した。
扉の上部に手を掛け、両足を跳ね上げると、彼女はあっさりと校門を越える。
パルクールの競技者を思わせるその動きに、玲も言葉を失った。
刷り込みの使えるコピーに、超人的な運動能力の本体。
「どうなってやがる……」
鉄の扉を
道路の真ん中を走り去ろうとする彼女を睨みつつ、玲はアスファルトに右手を付けた。
十メートル先を行く凪坂、その横には路上駐車された宅配便の軽トラックが見える。
「
無人のトラックが急発進して、タイヤの音を軋ませた。
凪坂七号に対し、車は鋭角にハンドルを切り、彼女を右後方から襲う。
ゴンッという衝撃が、凪坂を大きく歩道に向けて撥ね飛ばし、彼女の身体は無様に地面を転がった。
超人仕様だろうが、自動車の衝突を受けて耐えられるはずはなく、一撃で目標は沈黙する。
足を明後日の方向に曲げ、血溜まりを道路に広げる女子高生へ、玲がつかつかと歩み寄った。
膝を折り、顔を覗き込んだ彼は、赤く染まった眼を確認する。
その瞳にはもはや何の輝きも映していない。
彼女の瞼を
事故を聞き付けて電話をする者に、事故現場に駆けて来る近隣住民。接近者を追い払うべく改変を加えながら、玲は七号を見下ろした。
「こいつも違うと言うのか……」
深層は揺れもせず、未だ健在だ。
バタバタと煩い足音が、校門から聞こえる。野次馬となった高校生たちをだろうと、彼は学校へ目を向けた。
女子高生の集団が、南真波高校から溢れ出す。
小柄でショートカットの天文部員――十数名の凪坂コピーが、街に放たれようとしていた。
凪坂たちは、蜘蛛の子を散らすように四方八方へと分かれて走り出す。
学校前の道路を、玲とは逆方向に去る者もいれば、路地裏に入って行く者もいた。校門正面の住宅の庭に侵入する凪坂は、隠れんぼでも挑むつもりだろうか。
玲は最も近いその民家に走り寄ったものの、途中で足を止めた。
遠く校舎に掲げられた時計は、十八時二十九分を示す。
逃げた凪坂を一人ずつ潰すのは、もう現実的な解決策とは言えない。それ以前に、あの群れの中に本物がいる確証も無い。
敵の意図は、凪坂を増殖させて彼を引っ張り回し、刻限まで時間を稼ぐこと。単に逃げ回りたいという理由にしては、やることが派手に過ぎる。
玲の力であれば街を改変し、集中治療室の凪坂の精神ごと、まとめてコピーたちを処理するのは可能だろう。
深層世界そのものを破壊する最終手段だ。
だがその前に、確かめた方がいいことが有る。
凪坂コピーが開け放った校門をくぐり、彼は再び校舎前へ戻った。
先ほど眠らせた六人の凪坂は、変わらず惰眠を貪っている。
彼女たちを前にぼうっと立つのは、天文部部長の加西だ。
玲と遭遇した後、彼はしばらく階段に留まっていたが、ようやく下に降りて来たところだった。
玲の命令を受ければ、それが単純な物であれ、しばらく影響は残る。
加西も事態を把握できず、濁った頭で倒れる凪坂を見下ろしていた。玲の姿に気付くと、彼はモゴモゴと疑問を口に出す。
「あんたは……これは? 凪坂が……」
「一緒に寝とくといい」
腕を触られて加西は膝から崩れ落ち、持っていた黒いケースが、ガランガランと玄関先に転がった。
――ガラン?
玲は腰を屈め、ケースを閉じる四箇所の金具を跳ね開ける。
中に押し込まれていたのは、青いフェルトが数枚、それだけだ。
「……そういやコピーは凪坂だけじゃなかったな」
学校を訪れた時点で、複数の加西を目撃していた。
空のケースを運ぶこいつも、単なる複製品ではないのか?
“急げばケーキセットの無料券もあるよ”
何てことはない甘い物好きの女子高生の発言だった。百貨店の閉店前に間に合えば、その程度の意味だと理解していたが、こうなると疑問も湧く。
舞は十九時前まで、ガラス展にいた。
その後、ケーキを食べに行くつもりだったのだろうか。食堂街の閉店は二十一時。何に“急ぐ”つもりだった?
「やられたのは、最初からか」
おそらくティータイムのサービス時間に間に合わせようとした、そんなところだ。ケーキを食べて、そしてガラス展へ。
玲が最初に見せられた凪坂と舞の会話から、全ては罠だった。あの
この悪意ある改変世界を理解した玲は、校舎の中へと入った。
向かうは屋上、そこに凪坂はいる。階段を駆け上がる玲の足音が、人気の減った暗い校舎にコツコツと反響した。
普段は施錠され、立入禁止の屋上も、今夜は鍵が開いている。
玲が重い扉を静かに押すと、大きな天体望遠鏡を覗く加西の姿があった。
こちらに背を向けて彼の傍らに立つのが、凪坂で間違いないであろう。
深層を傷つけない主役の改変など、やはり誰であれ出来るものではない。
この
「加西くん、だったね」
「あっ、すみません。もう少し観察しますんで……?」
教師が様子を見に来たと思った部長は、愛想良く返事をしたものの、玲の持つ雰囲気に眉をひそめる。
迷いなく近づく謎の人物に、彼は思わず
「寝ろ」
命令に合わせ、加西は瞬時にその場へ崩れる。
同級生を助けるつもりなのか、凪坂が彼を庇うように玲の前に立った。
「な、何をする気ですか!」
健気な反抗のセリフと共に、彼女は両手を突き出して不審者の腕を掴みにかかる。
言葉とは違い、この行動に可愛いげはない。
発生する白い刷り込み光を、玲は自身の力で捩じ伏せた。
「無駄だよ……柵は錆びてる」
「なにを!?」
屋上を囲むステンレスの防護柵が、ボロボロに酸化する。
直線のはずの屋上の縁が湾曲して見えるのは、相次ぐ改変がもたらす深層の限界が、そろそろ近い兆しだ。手早く済ませるに限る。
彼女の手首を握って捻り上げると、逆に曲げられた関節の痛みに、凪坂が喘いだ。
玲はその手首を彼女の背中に回し、右手で制服の襟首を掴む。
女子高生の背後に立った彼は、彼女を拘束したまま、前方へと思い切り体を押した。
足をバタつかせる凪坂は、無理やり校舎の端へと走らされる。
何とか踏み止まろうとするものの、玲の圧力であっという間に防護柵へ押し付けられ、またもや潰れた肺から呻きが漏れる。
「や……やめ……てっ!」
玲が力を抜いたのは、彼女が必死に絞り出した悲鳴のせいではなく、今一度助走するためだ。
渾身の力で、柵への体当たりが再度敢行される。
錆びついた柵は根元でポッキリと折れ、玲と凪坂は空中へと踊り出た。
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