06. 刷り込み
地面を揺らす衝撃に耐え、玲は男までの数歩を踏み出す。
灰色の上着の袖を掴み、彼はその顔を
「お前は誰だ!」
「……斉藤
「ここで何をしていた?」
「子供を……連れて……あああっああぁぁっ!」
時間切れだ。
斎藤と名乗る人物の目が、口が黒く塗りつぶされる。
突き放すように男の腕を振り払うと、玲は背を向けて走り出した。
綺麗に割れていた人垣は、再びデタラメな人の群れに潰され、柴浜への道を遮る。
百貨店でも見た血の饗宴が、人数を増やし再現されようとしていた。
うろつく女子高生を引きずり倒し、進路を横切ろうとする中年男性を蹴り戻す。
棒立ちするサラリーマンの襟首を掴み、力一杯前に押し出して学生服のグループにぶつける。
為すがままの彼らは、おうおうと不明瞭に呻きながら、地に倒れた。
絡み合うその集団を踏み越え、玲は最短距離で柴浜のいる車道の縁へ突き進む。
包丁を取り出し、紙袋を投げ捨て、血を撒く狂乱者を縫って駆ける。
対象者は、騒乱前の場所から動いていない。
彼の背中に取り付いた玲は、首に左腕を回し、その体を固定する。
逆手に持った包丁の刃は水平に。
狙いは柴浜の肋骨の隙間。
力を込めて、彼は刃の半分以上を静かに刺し込む。
最初の位置さえ的確なら、何度も刺し直す必要は無い。さらに手首を捻って刃を斜めに
「あっ、あっ、ぐぶぁ」
濁る奇声、手に噴き掛かる温かい奔流。
大量の赤い血痕が、前方の舗装道路を扇型に汚して行く。
玲が左手の力を緩めると、柴浜はグニャリとその場に崩れ落ちた。
暗かったはずの夜空が、遠くから次第に白み始めているのが見える。
駅前に立ち並ぶビル影も、陽炎のように揺らぎ出していた。
昏睡後の白い深層が、真波駅前に忍び寄る。
対象者を含め、全てを白紙化する
柴浜の殺害は、ギリギリ間に合ったというところだった。
麻莉へ尋ねる事項を整理しつつ、玲は帰還に備えて両目を閉じた。
◇
病室に戻った玲は、つい先ほど命を奪った柴浜を眺める。
顔色こそ悪いが、胸は規則正しく上下し、呼吸に乱れは見られない。
ゴトゴト動く物音に、彼は音叉をポケットに仕舞い、背後を振り返った。
「……帰ったよ」
「今、帰ったとこ? 私と同時くらいね」
麻莉は片手に腕時計を持ち、膝を折った姿勢から、ゆっくりと立ち上がる。
彼女の前にはパイプ椅子が置かれ、そこにはクリップボードを抱えた看護師が座っていた。
「今回は長かったわね。途中、脳波が乱れて、看護師が飛んで来たのよ」
「敵の妨害に遭った。向こうにいたのは四時間くらいだ」
「そんなに?」
常識外れの潜行時間に、彼女は目を丸くする。現実での経過は、八分くらいだと言う。
玲は看護師の顔を覗き込み、その目の前で手を左右に振ってみた。
「潜行したのか。無茶をする……」
「
「そういうことか。眠らせたんだな」
「そのうち起きてナースステーションに戻るわ。何事もなく、ね」
麻莉の潜行能力は平均よりはかなり上だ。深層時間で十分くらいの潜行を、安定して行える。
数時間を
そんな彼女には、玲にも勝る技術が一つある。
それが、
理屈はサブリミナル効果の強化版といったところで、催眠術のイメージに近い。
現実世界でもダイバーが駆使できる力で、玲が柴浜たちの深層で行った
深層内では無敵の玲も、刷り込みにおいては
「話は外で。とりあえず、移動しましょう」
「分かった」
椅子の上で身じろぎしない看護師を放置して、二人は部屋を出る。
この棟に入って来た時に利用した非常階段へ戻ると、闇の中、玲は潜行結果を報告した。
「敵は潜行を邪魔する気だ。交通事故で道路を封鎖された。最後はヘリまで登場したよ」
「どうやったら、そんな芸当が出来るのかしら……ちょっと見当がつかないわ」
駅に辿り着くまでの道程を簡単に説明した後、彼は本題の質問を切り出す。
「サイトウシゲキ、あの場所にいた男だ。調べられるか?」
「……昏睡者にはいないわね」
ペンライトを片手に手帳を見ていた麻莉は、替わりにスマホを手に持つ。
「それは?」
「中央棟にいた刑事の私物よ」
「手帳と同じ出所か」
彼女が本気になれば、大抵の無理は通ってしまう。
そのうちバレて大騒ぎになるだろうが、今すぐ発覚するようなヤワな刷り込みではなかった。
本庁の資料に接続した麻莉は、手際よく氏名リストを検索する。
「……これね、斉藤繁岐。犠牲者名簿に載ってる」
「仕事は?」
「柴浜工作機械の重役よ」
柴浜の知り合いであり、この二人が話していたこと自体は不自然でないわけだ。
「改札前で昏睡した子供がいただろ。その子の詳細を教えてくれ」
「生存者ね……タカギとしか分からない」
「柴浜工作機械の関連者では?」
「資料には何も。身寄りがいない子なのかしら、他に記述は無いわ」
こちらは不自然極まりない。
藤田、柴浜、タカギ。それに麻莉の妹、舞もだ。
故意に集められたとして、このメンバーに、何か共通点はあるのか……。
「潜行だけじゃ、物足りないな。ヒントが欲しい」
「どうするの?」
「昏睡者の見舞客リストが見たい。次の潜行の間に、あんたは警察資料とそのリストを調べてくれ」
「了解。病院の主記録を転送させましょう、ここに」
彼女はスマホの角を、指でトントンと叩いた。
全病棟にアクセスでき、その権限を持つ人物が確実にいる場所、中央保安室。
非常階段を降りた二人は、周囲を窺いながら、医療センターの中心部へと向かった。
◇
入院患者を収容するL字型の東棟、西棟に挟まれて建つのが、各種最先端医療の研究施設を擁する真波総合医療センター中央棟だ。
中央棟に付属して、リハビリセンターや関係者用施設が置かれている。
保安室も中央棟に接続しているが、建物としては別棟で、一般訪問者からすれば病院裏側にあった。
麻莉は保安室裏口に進み、無施錠の扉を事もなげに開けて中に入る。
一階廊下の“中央監視室”の表札を素通りしたのを見て、玲が疑問の声を上げた。
「データ処理は、その部屋じゃないのか?」
「そこは誰もいない。先に三階よ」
エレベーターで上った先に、給湯室、休憩室、そして宿直室が並ぶ。
今夜当直の職員は、五人全員が宿直室におり、制服のまま大の字で寝ていた。
「みんな昏倒させたのか」
「ちょっと違う。泥酔してるのよ」
テーブルに転がる空のミネラルウォーターのペットボトルから、玲は彼女が何をしたか悟る。
「勤務時間の錯誤と、水のアルコール化……どうやって飲む気にさせた?」
「病院からの祝い酒だもの。痛飲したようね」
何の祝いかは、どうでもいい。夜勤を切り上げたいと思う彼らの背中を、彼女は能力で
欲求に沿った刷り込みは効果も高い。
麻莉はだらし無く眠る一人に近付いて手を添えると、時計を耳に当てた。
数十秒後、体を起こした男が、
「……どうしたらいい。このままじゃバレてしまう」
「任せて、私ならデータを改竄できる」
「下の端末に行こう」
データのコピーが目的なら、彼女が起こした相手は警備主任辺りだろう。
麻莉と顔色を失くした男は、エレベーターで中央監視室に降りて行く。
二人の茶番劇に苦笑しつつ、玲も階段で下に向かった。
監視室の扉を開けたまま、主任は管理端末に腰を下ろす。
麻莉はその横に立ち、玲は後ろの壁にもたれ掛かって、事の成り行きを見守った。
カタカタとキーボードを打ち鳴らしていた男が麻莉を見上げ、スマホで管理ページにアクセスするように指示する。
「君のスマホに、二十四時間の管理者権限を与える。これで大丈夫か?」
「ええ。ちゃんと上手くやるわ。心配しないで、また休んでて」
「すまない……助かったよ」
主任が彼女の肘の辺りに手を伸ばすが、麻莉はするりと身を
彼女に背を押された男は、半濁した
「何がバレるんだ?」
早速スマホを弄り出した彼女に、玲はからかうように尋ねた。
「浮気よ。逢い引きの記録を消さないと、ね」
――一体誰と浮気した設定なんだか。
刷り込みの手際の良さは、玲と組んでいた頃の彼女より向上している。
この数年の研鑽結果なのか、今の彼女の必死さ故なのか。
「……これでよし。訪問者は全部把握できそうよ」
彼女は画面を見たまま、指でOKマークを作ってみせた。
真波事件の被害者は、重要参考人でもある。見舞いに来た者も、厳しいチェックの上での記録が残されており、不審者を洗い出す参考になるだろう。
「私がリストを調べるとして、次の潜行は誰にするの?」
「この中央棟には、患者はいないんだよな?」
「もうここに用は無いでしょうね。メトロノームも要る?」
別に彼女は冗談で言っているのではない。
中央棟リハビリセンター内の音楽治療室、玲の音叉もそこから調達したものだ。
「そこまでは必要ない。西棟に戻ろう、あの棟には――」
「待って」
スマホの画面をスクロールさせていた麻莉が、動き出した玲を止める。
「中央の集中治療室、そこに一人収容中ね」
「誰だ?」
「
「妹さんの学校か」
ICUに放り込まれているということは、危篤状態だからだ。
潜行するにはリスクが高過ぎる。
「あまり気が進まない対象だな」
「これ、ちょっとおかしいわ」
「何がだ?」
「昏睡場所よ。この子だけ、高校の屋上で倒れてる」
「高校って……駅から一キロは離れてるぞ?」
事件には無関係の可能性すら考えられたが、麻莉は彼女も被害者だと言う。
「昏睡時刻と症状が、全く同じ。偶然とは思えない」
「……いいだろう。調べてみよう」
保安室を出た二人は、中央棟裏口を通り、集中治療室のある二階を目指した。
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