最終話 別れ
「あんたが柴浜の奥さんだな」
「高木
ベッドから足を下ろし、少し躊躇いながらも、彼女は玲の前に立った。
「高木は旧姓か?」
「逆よ、私は柴浜の娘。高木と結婚したのに、彼は柴浜を通名にさせられただけ」
部屋の外周を巡る深層の断片を、彼女はグルグルと見回す。
ちょうどベッドの頭側では、二人の武川が取っ組み合いをしているところだった。
「ほら、あれを見て、武川がまた減る。あの女が死ぬと、ほんと胸がすくわ」
「俺が殺したのも見てたのか?」
「もちろんよ。ずっと最初から、あなたを見てた」
たまに現れた黒い目の顔は、彼女の物だったのだろうか。
K、いや恵は、事故からの経緯を、武川への恨みと共に吐き出し始めた。
交通事故で脳を損傷をした後、彼女は自身の集合深層に沈み込む。
昏睡中も、何度か共鳴能力を発動して来たが、自分の意思でではないと言う。
最初は偶発的に、武川が関わってからは、実験によって強制的に共鳴が起こされた。
「その度に深層が更新されたから、あの女のやったことは知ってる。どれだけ恨んでも、恨み切れるもんですか」
「……だろうな。真波事件のことは、どれくらい理解している?」
この問い掛けに、彼女は暫くの間、沈黙する。
玲がもう一度質問を繰り返そうとした時、ようやく口を開いた。
「武川は、集合深層を広げようとした。大量に昏睡者を生んで、深層世界を広げるつもりだった」
「何のために?」
「あの女なら、広い深層で何でも出来る。あなたと同じ、思うがまま」
「だからって、深層は深層だ。現実ではない」
「現実なら死ぬ者も、深層なら永遠に生きられる。あなたの力で、私だってこの通りじゃない!」
ここで玲は、また一つ思い違いをしそうになっていたと気付かされた。
今、話している相手は、深層の住人だ。現実世界を知らない恵であり、百貨店で倒した武川と何も変わらない。
彼女たちにとっては、深層こそが自分の生きる世界だった。
真波事件を起こした現実の武川は、どこまでこの結果を予想していたのだろう。
集合深層を肥大化させて、最も得をするのは深層の武川だ。
本来は現実に従属すべき深層が、武川の中では逆転してしまっている。
センターの
長く潜り過ぎると、現実と深層の区別が曖昧になる。
まさか教官の立場の武川が、潜行酔いに犯されていたとは。
「しかし、あんただって見ただろ。あの事件で、何人亡くなったと思ってるんだ」
「…………」
恵は何も言わず、玲から断片の映像へと視線を泳がせる。
切り替わって行く深層の一つを指で差し、彼女は喜色を浮かべた。
「ほら、有沙よ! あんなに大きくなってる!」
少女の深層を、食い入るように見つめる恵。
怯えた顔の娘の仕草に、一々彼女の解説が入る。
「ほら、爪を噛む癖、全然治ってない」
「高木……」
「悔しいけど、顔は汰司に似てきたわね」
「高木!」
玲の大声に、恵は肩をビクつかせた。
下瞼の辺りを光らせ、彼女も声を張り上げる。
「あのクソ女、娘と汰司に会えてよかったでしょって! よかったわよ、どれだけ会いたいと……」
大方、恵の関係者を一掃しようと、武川が企んだことだ。
家族が集合深層にいることが、どういうことかは、彼女も理解しているはず。
それでも玲は、言葉にせずにはおれなかった。
「有沙は今、コードを繋がれて、病院で寝ている」
「知ってるわ。あんたが首を絞めるのも見た。この人殺しっ!」
「あのまま一生、ベッドに寝かせておくつもりか?」
歩いてるじゃない、そこで、一端の顔をして。そんな言葉を繰り返しながら、恵は膝を震わせ、最後には床にへたり込んだ。
共鳴能力者、この類い稀な力を持つ人物が、なぜ真波事件で集合させた深層を解放しないのか。それが玲の疑問だった。
自分では制御できないのか、それとも武川のロボットと化しているのか。そんなことを想定したが、彼女はそうじゃない。
恵は手放したくないのだ。
「なんでこんな目に遭わなくちゃいけないのよ! どうして!?」
濁音が混じり、聞き取りづらくなった声で、彼女は問い続ける。
この部屋で独り、もう何年も同じ質問が発せられてきたが、答えてくれる者など存在しなかった。
有沙の深層を一通り見た彼は、何が少女の身に起こったのかを理解する。
センターの工作員は、彼女を誘拐して、柴浜汰司に駅へ来るよう命じたのだった。
直接刷り込めば早いものを、彼や藤田を集めるには手間を掛け、能力を持たない工作員が担当したらしい。
凪坂や舞など、優先すべき対象者が多く、武川と新班だけでは手が足りなかったのだろう。
今回の事件に、センター全体が関わっていなかったのは幸いと言っていいのだろうか。
どちらにせよ、武川の行動を黙認したのでは、擁護する余地はない。
処置室の床に、ボタボタと黒い染みが落ちた。
その濡れた跡が乾き、恵の呼吸が鎮まる頃、玲は自分がすべきことを告げる。
「オレはここを消す。言っただろ、死神だと」
「……もう少しだけ。あの子が駅に着くまで」
映し出された有沙は、汰司の部下の車に乗せられ、真波駅に到着するところだった。
百貨店の袋を提げた恵の夫も、遠くに見える。右手に握るのは、買ったワイン――ではない。
改変で隠蔽される前の彼が地階で渡されたのは、武川からの指示書だった。
その内容までは見えないものの、何を命令されたかは汰司の行動で予測が付く。
カードを読みつつ、彼は車道の縁まで歩いて行き、そこで刻限まで待機した。
その後の駅前の様子は、玲も体験したものである。
改札前に連れられて来る有沙。
歪む景色、始まる血の騒乱。
血涙を流す少女の顔を、恵は目も逸らさず凝視する。
仰向けに倒れた娘の深層が、地下街のものに切り替わると、彼女はか細い声で玲に尋ねた。
「私が死ねば、有沙や汰司は生き返る?」
二人はまだ生きている、と訂正しても詮の無いこと。
恵には、どちらも死のループに囚われた存在なのだから。
「覚悟を決めたんだな」
「……私は独りで死ぬのね」
「気休めだが、これを」
玲が拾い上げた包帯が、いつの間にか黄色いリボンとなって彼女の手に渡された。
たかが布切れに過ぎないそのリボンを、恵は自分の体の一部のように、きつく握りしめる。
大きくなったら使うのよ、そう言って買い求めた彼女を、夫は気が早いと笑っていた。
「やっぱり……魔法使いじゃない……」
かすれる声、丸めた背。
黒い虚無が、床に穴を開け、スルスルと広がった。
玲と主役である恵だけを残し、集合深層の中核は暗闇に閉ざされる。
伏せていた顔が再び彼の方を向くが、言葉が交わされることはもうない。
静寂の中、彼女の唇が僅かに動く。
玲は黙ったまま、全てを黒く塗り潰した。
◇
医療センター中央棟六階、玲は冷たい床から顔を持ち上げ、体を起こす。
高木恵の処置室は、彼が倒れた時のままだ。
四方を壁に囲まれた部屋の真ん中に、機器に取り込まれた彼女が眠る。
恵の精神を虚無化したことで浮上できたものの、全共鳴が止まった確証は無い。
電源コードに近寄った玲は、生命維持装置も停止させようとプラグを抜いて行った。
主電源、副電源、そして部屋の反対隅の非常電源ボックスへとしゃがみ込んだ時、入り口近くから声が掛かる。
「……終わったの?」
「ああ。鼻血くらい拭けよ」
麻莉が起きたということは、もう共鳴は止まったということだが、まだ全電源は落としていない。
やはり脳死だけで充分だったのか、それとも彼女が自分の意思で先に共鳴を止めたのか。
非常電源も停止させると、彼はベッドの主の枕元に立った。
目を覆うガーゼに伸ばした手は、途中で引っ込められる。
成れの果ては、わざわざ見なくていい。
「西棟に行こう。妹さんも起きてるだろう」
「ええ!」
病院内は、中央棟も西棟も死屍累々の惨憺たる有様だ。
第二真波事件、この病院での
共鳴装置として使われた新班は昏睡状態にあり、保安室の指揮系統も血溜まりに沈んだ。
それでも、少ないながら立ち上がる人影が有り、うめき声が聞こえるのは駅前の事件とは違う。
集合深層はもう存在せず、幸運な帰還者があちこちで動き始めていた。
三一四号室に入った麻莉は、ベッドに腰掛ける舞を見るや否や、その名を叫んで駆け寄る。
「お姉ちゃん?」
「舞……待たせたわね」
まだ妹に貼り付いていたコードを剥がす麻莉、理解が追いつかず質問を並べる舞。
少し離れて二人を見ていた玲は、静かに部屋を後にした。
廊下で目を覚まそうとしていた新班に撹拌を浴びせて、病院の裏、保安室へ。
まだ息のあるセンターの人員を撹拌し終わると、彼は裏庭へ出た。
駐車場の桜は、いつの間にか満開になっている。
血臭の中で咲く花の下、ピョコンと跳ねる小さなアマガエル。素早く両手を前方に掲げ、その先に黒円を――。
「――作れはしないな。ここは海の上だ」
センターを抜けず、任務を繰り返していれば、彼も酔いに蝕まれたのだろうか。
今回のような無茶な仕事は、センター時代でも無かったが。
ポケットから取り出した音叉を、彼は樹に向かって投げ捨てた。
「そこのきみ!」
裏口から出た玲は、地味な背広姿の男に呼び止められる。
後ろに停まるのは警告ライトを屋根に乗せた車輌、男は刑事といったところだろう。
早い出動に関心しつつ、彼は刑事を刷り込もうと右手を向けた。
「駅まで送りましょう。こちらへ」
まだ力は発動していない。
眉をひそめる玲の背後から、手品のタネが現れる。
「あなたのは、大雑把なのよ。私が鍛えてあげる」
「……妹はどうした?」
「質問が終わらないから……刷り込んだわ」
刑事の上着のポケットに手帳を返すと、麻莉は車へと歩いて行く。
やれやれと首を振り、玲も後に続いた。
「酷い姉だ」
復旧作業の続く真波駅で降りた玲たちは、新幹線でこの街を離れ、その後の行方を知る者はいない。
戦いは、深く、静かに。
二人のダイバーは、また人の海へと潜って行ったのだった。
(了)
血海に潜る 高羽慧 @takabakei
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