29. 十八時四十六分
移動した先の集合深層は、主役の人物も、在り方も様々だ。
その種類によって、玲の行動も変わる。
主役不在の断片であれば、武川を探して刷り込み、次の世界に移る。
主役がいれば、武川と対決するまでは同じで、深層への被害を減らすために慎重になるだけのことだ。
その後、主役が直ぐに見つかりそうな時は排除に向かい、面倒そうなら移動円を利用する。
十四回の深層を移り渡った時点で、刷り込めた武川は十人。
武川が存在しない世界もあれば、二人は失敗して
主役がいない深層が五回、七つは主役排除後に別の深層に飛ばされ、主役探索が面倒だった二つは白円で横の世界へ移動している。
十五回目の深層移動で、玲はもう見飽きた真波総合医療センターへとやって来た。
来院者でごった返すロビーに出現した彼に向かって、血相を変えた男が二人、走ってくる。
患者を突き飛ばして進む姿からして、新班のダイバーに違いない。
前の一人に加減しない撹拌を浴びせ、後続の男にも力を加えた瞬間、予期せぬ反発がその力を打ち消した。
――こいつ、この世界の主役か!
このまま深層を離脱しようと、彼が黒円形成を始めたその刹那、視界が激しく捩曲がる。
敵工作員の仕業ではなく、当の男の方こそ、両手を床に付いて衝撃に耐えていた。
歪みを構築し直した玲は、力の源を探してロビーにたむろする人々を見回す。
戸惑う患者たちに混じって、新班に手を掲げる女。
傍らに浮かぶ、深層に空いた白い穴。
武川、それもこの世界の住人ではない。
この病院はおそらく二度目のKの共鳴が発動した少し前、現実の武川は玲に始末された後だ。
彼女こそが主役を曳き込みに来た、集合深層の
彼が主役を殺害すると、脱出が成功する。それを阻止するため、ついに玲の前に姿を現したのだった。
「武川っ!」
彼女は彼の叫びを無視して、主役を白円へと呼び寄せる。
その移動円を破壊しようと、玲が掲げた右手は、背後から来た背広姿の男に押さえ付けられた。
非能力のセンター工作員、本来なら雑兵とも言えない彼らが、三人掛かりで彼の邪魔をしようと飛び付いてきたのだ。
連続撹拌で瞬殺する玲だったが、タイミングが最悪だった。
主役は既に白円の中に送り込まれ、武川も足を踏み入れようとする。
逃げられる、そう彼が歯噛みしそうになった時、白い輪がコピーされたかのようにもう一つ現れた。
新たな輪の中から出現した手が、逃げる武川の肘を掴む。
女は驚愕に顔を凍らせ、自分を引き戻す相手に目を見開いた。
二人の武川が、お互いを消去しようと
負けたのは、新たに来た方の武川だ。
改変をまともに受けて腹部を消された新参者は、ダルマ落としの如くグシャリと地面に潰れ落ちた。
集合深層の主の能力は、他のコピーたちでは手に負えない。
いや、力は同等なのだろうが、使い方の熟練度が違う。一人ぶつけただけでは、時間稼ぎが精々か。
玲の作ろうとする黒円に対抗しつつ、武川は移動円の中に身体を入れる。
女の体が消え去ろうと言うとき、彼は破壊を諦めた。
潰せないなら、広げる。
玲の力が白い円を拡大する方向へ逆転し、巨大な空間の穴が病院ロビーに取って代わって行く。
決着は次の深層だ。
穴の向こうでは、武川が更に移動円を作ろうとしていたが、玲が深層を渡って来たのを見て駈け出した。
白円は玲ですら瞬時に作れるものではない。
走りながら別の深層に移動するは困難を極めるだろう。
――時間の余裕を奪って、逃げ道を塞いでやる。
追跡劇は第二幕、荷物や台車の積み重なった東王百貨店の裏側へ舞台を移した。
細い通路を先行する武川。
彼女を破壊しようとした玲は、揺れる床に体勢を崩した。
――この深層は脆弱過ぎる。黒円の形成どころか、作ろうと試みただけで世界が歪むとは。
ワイングラスの在庫や、次回催事のための立て札が、スチールのラックに積まれている。
百貨店の催事階、ここは店員たちが慌ただしく行き交う裏側だ。
主役は重症の催事担当員、中島
反撃しようと一度は振り返った武川も、空間の揺れを感じて疾走を再開した。
彼女が通り過ぎる度に、廊下の横に並んだ棚が倒れ、玲の行く手を阻もうとする。
棚や滑り落ちかけた在庫の箱は、彼によって正常な位置に戻されるが、時間を巻き戻すかのような改変は出来るなら避けたい。
逆に、武川の方に遠慮は無く、玲が進路に撒いた障害物を前方に吹き飛ばしていた。
小汚い壁に囲まれた通路は、武川が重い鉄扉を押し開けたことで終わる。
“この先、催事場。一礼を忘れずに”
貼紙の告げる通り、大量のライトが照らす八階売り場へと二人は出た。
ガラス工芸を眺めて歩く客たちの肩を、武川がポンポンと叩いて行く。
刷り込まれた老夫婦やOLが、玲を押さえようと手を伸ばした。
「下がれ!」
彼の一喝で、人々の動きは止まる。
「シャッターだ」
会場を囲う防犯シャッターが、客がいようがお構いなく酷い速さで下ろされる。
バッグを挟まれた主婦が悲鳴を上げて肩紐を引っ張り、店員の一人は頭を強打してうずくまった。
「防火壁」
瞬く間に閉じられて行く、火災発生時用の仕切りドア。
度重なる改変の衝撃に耐え切れず、水平のはずのフロアの端がカーブを描く。まるで幼児の落書きだ。
逃げる武川は、防火壁に設置された非常口へと急ぐが、壁の前に白円が発生したことで急停止した。
円の中から、また別の武川がヌッと顔を出す。
「そこを退きなさい!」
「武川……死……」
邪魔をする
ケースの破片と、中に陳列されたアクセサリーが、女と共に床へぶち撒けられる。
転がる武川へ、二台のキャスター付きのケースが追撃を加えようと猛進した。
玲の狙いに沿って、商品を薙ぎ倒しながら進んだガラスケースだったが、目標の寸前で彼女が爆散させてしまう。
会場の高い天井が、明滅を始めたのは、深層が限界に近い証拠。
小さな黒い蛍火まで、売り場を漂い始めている。もうこれ以上は――。
玲の下僕役を務めていた武川が、頭を消し飛ばされて床に倒れた。
立ち上がった女の前に出現する、また更なるコピー。
「なっ、やめなさい!」
自分同士で格闘を始めた武川へと、玲は突き進む。
最後にここから脱出するためには中島が必要だが、彼女は見当たらない。
代わりに見つけたのは、中央の工芸ベルの前に呆然と立つ舞だった。
十八時四十五分、ガラス展会場は、刻限を向かえようとしている。
妨害者を始末して、移動円を作ろうとする武川。その作りかけの白い光を、玲は彼女の右腕ごと黒く塗り潰す。
必死で再構成を図る武川だったが、深層自体のダメージが深く、空間の断裂は口を開いたまま消えようとはしなかった。
女の右腕の切断面からも、血の噴出が止まらない。
ガラスの破片を拾い上げ、最強と
「私を殺したら、深層ごと崩壊するわよ!」
「ほう、新説だな」
口先で誤魔化すには、もう遅い。
「お前を消して、ゆっくり出口を探させてもらう」
「私は何人でもいる! そう、凪坂の深層にいた私も今頃は――」
「そいつのことか。地下街で捕獲したよ」
頭を失って横たわるコピーを、玲は指差した。
抵抗した際に派手に転び、手の甲を傷付けたので見分けが付く。
「ど、どうしてあなたは逆らうの! 深層で大人しくしていれば、何でも出来るじゃない。現実世界の何がいいのよ!」
「それが本音か?」
「深層を潰さないなら、私も手を出さないわ。約束する」
この期に及んで、高慢に物を言う彼女を、玲は冷たく見下ろした。
「現実を知らない、影の戯言だ。二度と上に手を出すな」
「待って! やめ――」
筋張った喉に突き刺さるガラス片。
口から、喉に空いた穴から、大量の血が溢れ出し、彼の手とフロアを汚した。
女は血海で藻掻く。
這いずり逃げようとする動きは鈍く、もうトドメは必要ない。
爪が二、三回と床を引っ掻くが、それで全て。
玲を散々と翻弄した集合深層の化け物は、玲によって死を与えられたのだった。
十八時四十六分。
舞の絶叫が、刻を告げる。
死の狂乱の中、白円を作ろうと掌を前に向けた玲は、こちらを眺める舞と目が合った。
その黒い穴が目と言うのなら、だが。
周囲の狂騒を余所にして、少女は彼に手招きをする。
「……入れと言うのか」
工芸ベルのあった場所には、白い円が開いていた。
血とガラスを踏み締め、彼は会場中央へと歩く。
目と口が黒く塗られては、表情など分かったものではない。
それでも、彼が移動円に足を入れた時、彼女は少し微笑んだように思えた。
◇
柴浜先端通信開発機構、中央処置室。
大仰なベッドに管だらけのKと来れば見間違いようもないが、現実世界とも思えない。
部屋には壁が無く、いくつもの風景が周囲を流れている。
リアルな映像を映す大型スクリーン、そのパノラマに囲まれた部屋というところか。
映像と言うには、どの風景もしっかりとした奥行きが有り、空間の断片と言う方がより正しい。
映された場所にも覚えはある。
真波駅前、南真波高校、真波総合医療センター。
振り返れば、まだ八階催事場の惨事は続いていた。
音こそ聞こえないが、どれも間違いなく深層だ。
ここは集合深層の中心、説明を受けずとも、玲は直ぐにそう悟った。
とすると、ベッドに固定された人物が主役だろう。
手足の存在しない身体は、病院で見たKと同じで、維持装置で生きながらえているのは明らかだった。
玲はベッドの上に、矢継ぎ早に改変を加えて行く。
手足は再生され、肌が張りを取り戻す。
顔を覆うマスクは消され、黒い眼窩に肉が盛り上がり、唇には赤みが差す。
永い眠りから覚めたように、ゆっくりと、Kは上半身を起こした。
四肢の断面を隠していた包帯が、ヒラヒラと床に舞い落ちる。
「……ありがとう。魔法使いさん」
「死神だろうな、近いのは」
武川が執着した本物の“化け物”、全ての元凶と、玲は対峙した。
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