20. 三つ目の選択肢
目を明けた玲は、頭を押さえながら上半身を起こし、周りを見回した。
天井から吊された強烈なオクタライトや、白く無機質な内装は手術室を連想させるが、医療器具の類いは見当たらない。
彼は固いステンレスの台の上に寝かされていた。
腰の高さの台から降りて、自分の身体をチェックする。
メス傷、注射痕、テープの跡は無し。皮膚に残る違和感も、衣類を脱がせた形跡も、とりあえずは存在しない。
音叉や携帯ライトが取り上げられているのは、当然の措置だろう。
部屋の出入り口は一つ、鍵の無い押し開きの扉に、彼は慎重に近付く。
人の気配に注意を払いながら、彼は静かに部屋の外へ出た。
右奥に掌紋認証の扉、左に進めば研究所の玄関ホールへ。彼が立っているのは、昏睡させられた正にその場所、中央研究室だった。
玄関を目指し廊下を歩き始めた玲は、すぐに横から呼び止められる。
扉の開いた部屋の中に、彼を寝かせた当人が座っていた。
「瀧神くん、こちらへ」
「尋問する気なら無駄だよ」
部屋にいるのは女一人、事務机にパイプ椅子が二つだけ。
警察の取調室にも見える殺風景な部屋へ、彼女は玲を手招きした。
彼は机に重ねて黒円を形成し、女ごと消し去ろうと拡大する。
――黒円、か。こいつを作れるということは、ここは誰かの深層だ。誰の? 丸ごと消せば分かる。
問答無用の玲に、慌てた様子で彼女は自制を求めた。
「お願いだから、話を聞いて。質問にも答えてあげるわ」
――確かに、こいつには尋ねたいことがある。
出来た黒円の空間はそのままにして、玲は虚無を挟んで女の前に座った。
破壊円を作ろうが空間に一分の歪みも生じないとは、主役はかなり強固な深層の持ち主のようだ。
「あんたはここを深層だと認識してる。俺を
「私には
「どういう意味だ」
彼女は会話が成立したことに安心する。
姿勢を正し、黒円から距離を取るように椅子を引いて、改めて自己紹介から仕切り直した。
「私は
玲の記憶にある彼女は、もう十年近く前、スカウト直後のものだ。
多少、
物腰の柔らかなカウンセラーといった雰囲気は、昔より強くなった。
「曳航は、“曳き込み”とも言われてるけど、そっちは正確じゃない」
一言毎に間を空け、相手の理解に合わせてじっくりと語り掛ける。
自称武川のこの話し方が、彼は大嫌いだった。
「曳航は字の通り、相手を任意の深層に引き連れて回る能力。別に自分の深層じゃなくて構わないのよ」
「……第三者へ、誰かと一緒に潜れるわけか。そんなことをするメリットは何だ?」
「葉田で体感したでしょう? 苦労して潜行しても、あなたには通用しなかったけど」
「やはり深層でやり合ったのは、お前か。しかし、曳航の定義を聞かされたところで、何か意味はあるのか?」
不満げな玲の表情に、武川は乾いた笑みを浮かべた。
「ふふ、あなたにしては、鈍いわね。曳航に関しては経験不足かしら」
「何が言いたい」
「この深層、誰のものだと思って?」
――ここは武川の深層ではないと? では、誰だ。回線で繋がった昏睡患者か?
「深層で改変しても、あなたには敵わない。刷り込もうとしても、夢を構築してもダメ。最強と呼ばれるのは、
彼女は上着の内ポケットに手を入れ、細い金属の
「最強を捕らえるなら、最強の深層が必要。ここは
席を立った武川は、黒円を避けて玲へ歩み寄る。
右手に外科用のメスを握り、その持ち手を彼に向けて差し出した。
「武器を渡すのか。自分は殺されないとでも?」
「私を刺すの? 曳航能力者を殺したら、深層から離脱できるかもしれないわよねえ」
メスを受け取った玲は、滑らかな金属の刃に映る自分の顔を見つめる。
「それとも、自分を殺すのはどうかしら。主役を始末するのもいい案じゃない?」
――この女、俺を上手く閉じ込めたつもりだ。
武川の言い分が真実なら、玲は自分の深層を檻にしたことになる。
主役と曳航者、どちらも安易に傷付けていい相手ではない。
とは言え、刃物まで持ち出したのは演技が過ぎる。彼女の悪い癖が出たのだろう、これは選択肢を二つに絞る武川の罠だと、彼は看破した。
「このメス、ちょっと刃が厚いな」
「そう? 切れ味は抜群だと思うわよ」
「これじゃ、音が悪い」
「え?」
メスの刃の腹が、机の角に打ち付けられた。
短く硬い金属の反響音、それが
表情を強張らせた武川の深層へ、玲は深く潜って行った。
ゴテゴテとした機器が満載されたクリーム色のベッド、その傍らに若い白衣の男が二人。
男たちとはベッドを挟んだ逆側に、白衣とマスクと付けた武川が立つ。
介護用にしても重装備な電動ベッドの住人は、酸素マスクのような器具で顔を覆われ、どんな人物かまでは分からない。
ただ、成人にしては、やけに小柄であることは見て取れた。
もっと詳しく調べたくても、玲にそんな暇は無く、武川たち三人は即座に臨戦態勢に移る。
反応の良さからして、男二人もセンターの人間だろう。
男たちの足元に破壊円を。
消滅寸前に、二人は腰の武器を引き抜こうとしていた。彼らもダイバー、円への抵抗力の無さは第二班の人員と思われる。
壁際に走った武川は、消毒ケースを開け、中から一本のメスを取り上げた。
――刃物? ダイバーに対して?
玲は強引に刷り込みを狙って、彼女に右手を掲げる。
主役の改変ではあるが、今はリスクを負ってでも情報が欲しい。
しかしながら、彼女が何のつもりでメスを握ったのか、直ぐに思い知らされる。
武川の深層を揺すり始めた瞬間、彼女は自分の首に刃を突き立てた。
近寄りつつあった玲のシャツに、鮮血が噴き掛かり、世界の崩壊までカウントダウンが始まる。
歪む室内を取って返して、彼は部屋の出口に向かった。
自動ドアの先は、中央研究室の廊下。
潜行後に彼が出現したのは、認証装置でロックされた部屋の中だった。
玲が場所を確認すると同時に、建物は形を失うほどに歪みを強め、黒一色に塗り替えられる。
深層からの離脱、帰る場所は武川と対峙した一室だ。
メスを握る玲を、老いた女の目が見返す。
「私に潜行したところで――」
響く二度目の金属音。
時間を巻き戻したように、三人の敵とベッドの患者が寝る部屋へと景色が替わる。
――リトライだ。
男たちより優先して、手術用具の入ったケースに破壊円を。
麻酔銃を持って飛び掛かってくる男たちには、強めの撹拌を。
相手の深層を見えない手で握り、それを
大して抵抗も見せず、第二班のダイバー二人は床に
残った武川に刷り込もうとした時、彼女は既に自分の首に手を掛けていた。
武川は、自ら絞殺するように、
絞殺、そんな生易しいものではないかもしれない。
少し肉が落ち、骨ばった彼女の親指が、同じく筋の目立つようになった喉の付け根に食い込んで血が滲み出す。
「やめろ!」
彼女の刷り込みに対抗する命令が発っせられる。
だが主役が役割を放棄し、それを更に改変するなどという行為は、深層を著しく歪めてしまう。
黒色に急変する部屋の情景に、玲は力を緩めざるを得なかった。
武川の指は目的を達し、潰れた喉元からはグエグエと気味の悪い音が立つ。
またしても暗転と、深層からの離脱。
脂汗を浮かべた武川を、玲は思わず睨みつけた。
――この女、強敵だ。下手な第一班のダイバーより肝が据わってる。
「な……何をしているの?」
彼女の呼吸が乱れているのも、二度の潜行で深層が傷付けられたからだ。
潜行された対象に、深層での出来事を知る手段は存在しない。潜られた、そう感じるのが関の山だろう。
玲が何をしているか分からないという恐れが、さしもの彼女にも不安を抱かせた。
武川は自分を殺すか、玲が自殺するかを迫った。
彼女が罠を仕掛けたなら、これはどちらも不正解、脱出できなくなる可能性が高い。
自殺はなぜ悪手なのか? 主役が死ねば深層は閉じる。
常人ならともかく、玲には深層のルールが染み付いている。武川が下手に勧めなければ、自分の深層から脱出するために、躊躇なく自死を選んだはず。
自殺がマズいのは、曳き込まれたのが他人の深層だからだ。ここが玲の世界だと言うのは、武川のブラフだと考えていい。
では、武川を殺した場合は?
この女が主役なら、何も問題は無い。
致命的なのは、武川を殺すことで、本当の主役を殺せなくなる時。
――こいつは何を企んだ……。
玲はテーブルに空いた黒円を見る。
虚無空間は外周を歪めることなく、綺麗な真円を描いていた。
水圧が無い、主役不在の世界。
「曳き込んだな、主役を」
「…………」
能面のような武川の顔は、逆に答えを教えたようなものだった。
彼女の曳航講習には、続きがあったはず。
曳航能力者が連れ回すのは、深層の主役。ここの主役は、肉体だけを残して既に別層に曳き込まれている。
曳航能力は、主役のいない深層を生み出せるのだ。
ここまで推察すれば、後は自ずと結論が導かれた。
武川が二択を迫ったのは、玲が潜行能力を使うのを嫌がったから。
潜行先では、死に物狂いで世界を閉じようと抵抗した。主役の本当の居場所は、この目の前の女の中だ。
メスが三度、振り下ろされる。
玲の行動を阻止しようと、武川は力を振り絞ったが、虚しい努力に終わった。
彼は他に比肩する者のいない
潜ると決めたなら、防げる者はどこにもいなかった。
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