22. 音叉
振り上げた音叉を叩かずに、見つめたままでいる玲を見て、麻莉は不安そうな声で聞く。
「無理なら、別の方法でも……」
「何でもない、考え事をしただけだ。行ってくる」
対象の顔を覚え、澄んだ金属音を合図に深層へ。
研究所の裏庭に出現した玲は、周囲に人がいないことを確かめ、建物に近付く。
外壁に背をもたれさせ、彼はすべき手順を考えた。
麻莉は心配したが、今回の武川は倒すだけなら簡単だ。
胡散臭いセンターの古株は深層の主役ではなく、気に入らなければ消してしまえばいい。
だが、IDコードを知ろうとすると、少し面倒なことになる。
本人に直接手を出すと、武川はまた即、自殺しかねない。
他の班員を刷り込んでも、あの女が見れば気付く可能性が高い。
壁に沿って、建物の正面へと移動する間、警備員などと出くわすことはなかった。
人のいない理由は、前庭を窺うことで判明する。
この時間が玲の襲撃の何分前かまでは分からないが、ちょうど人員の配置のため、武川が全員を集めて指示を出していたところだった。
外灯の明かりの下、よく通る女の声が庭の隅々まで届く。
「センター人員間の連絡は、しばらく禁止します。どうしても必要な時は、所内通話を使って、一度私に報告しなさい」
無線で連絡を取り合う研究所専属の警備員に比べて、これではダイバーたちは自由に動けない。
武川の意図は第二班を適切に並べることで、最初から玲の相手を任せる気は無かったように思える。
警備が復活するまでに建物内部に入るため、彼は保安室の横にあった裏口へと引き返した。
この深層の主役が担当する実験室は、既に把握している。
その部屋は避け、空き部屋に潜り込むと、彼は内線電話を探した。
スマホや無線での通話禁止は、こちらには好都合だ。
所内電話は入り口近くの壁に設置されており、すぐに見つかった。
受話器を前に、玲はタイミングを待つ。
中央研究棟にも電話は在ったが、センター本部へ連絡できるような機器は見当たらなかった。
武川の死体も、携帯端末を所持している様子はなく、通信手段は他にあるはず。おそらく二階、所長室辺りだと彼は予測する。
しばらくして廊下を急ぐ足音が続き、警備員たちが戻ってきたのが知れた。
少し遅れて、やや遅い足取りの二人組。
隣の部屋の扉が閉まる音を合図にして、玲は受話器を持ち上げた。
パネルにビッシリと並ぶ小さなボタンから、中央研究棟、メインルームを選んで押す。
呼び出し音が数回繰り返された後、受話器から返って来たのは、不機嫌そうな女の声だった。
「早速、何なの?」
「こちらは一階実験棟です。第二班の個人端末に、本部から帰還命令が届いてます」
「ええ? 全員に?」
「全員かは分かりませんが……少なくとも、私たち二人には同時に指示が来ました」
「そのまま待機して。調べてから折り返すわ」
「了解です」
――さあ、武川はどこへ向かう?
ダイバー戦を警戒する相手には、逆にこういった古典的な手法が有効なこともある。
二階へ向かう階段の近くに移動し、物陰に身を潜めた玲は、上手く嵌まってくれた彼女が来るのを待ち構えた。
程なくして小走りの女が登場し、階段を駆け上がる。
気取られないように、彼もその後を静かに追って所長室に入って行く彼女を見届けた。
扉を開け放し、立ったまま、武川は部屋の奥で机の端末に向かう。
常時起動中の通信端末は、一瞬でパスワード画面を表示した。
慣れた手つきで、細い指がカチャカチャと数字を打ち込むと、数字は画面に表示されることはなく、ただ承認完了の文字がモニターに浮かぶ。
意識を集中させていた玲が、改変を終了してゆっくりと室内へ進入した。
「ご苦労さん」
「……た、瀧神!」
端末の主電源を落とそうとした武川は、スイッチどころかモニター画面が無いことに狼狽する。
「これは!?」
「家計簿でも付けてたのか?」
机の上に無造作に置かれた、大型電卓。
キーボードに取って替わったその液晶表示盤には、十二桁の数字が並んでいた。
深層改変で、ピエロを演じさせられたことを悟り、武川の表情が怒りで歪む。
咄嗟にクリアボタンに指を伸ばした女に、玲は遠慮なく退場を告げた。
「消えろ」
彼の全力で生み出した黒い空間に武川が捩り消され、電卓だけが残される。
机に近寄った彼の手が、電卓を自分の方へ回した。
長い数列を何度か心の中で呟き、頭を上げた玲は、武川を飲み込んだ深層の傷が未だ残留していることに気付く。
傷は消えるどころか逆に机に広がり、電卓までもが歪み始めた。
彼が加えた少量の改変が、この深層にはダムに開いた針穴となる。
主役の精神は、もう風前の灯だった。
時間切れが近いことを知り、玲は廊下へ飛び出して、一階へと駆け降りる。
消えかけた階段を再構築し、実験室までの経路は自力で確保した。
走る彼をせき立てるように、所内の蛍光灯が明るく、また暗くと明度を変え続ける。
警告灯を思わせる光の中、実験棟の一階は波打ち、荒れる海となってそれ以上彼が進むことを拒んだ。
「全部崩れ落ちろ!」
部屋までもたないと判断した玲により、実験棟が崩落がさせられる。
巨大地震さながらの光景が現出し、建物は瓦礫の山へと変貌していった。
研究所の壊滅と、深層の黒化はほぼ同時。
世界の歪みは収まり、目の前には麻莉が立つ。
今回も玲は闇に取り込まれることなく、無事に帰還を成功させたのだった。
事切れたダイバーを見て、麻莉も脱出が綱渡りだったことを察する。
潜行能力者の任務は、いつも危険と隣り合わせとは言え、玲の大胆なやり方にはヒヤヒヤすることも多い。
久々に行動を共にするパートナーは、彼女の記憶にある青年とやはり同じ人物だ。
僅かに残っていた幼さは、すっかり影を潜めたが、無鉄砲さは相変わらずだった。
薄っすらと笑う彼女を、玲は訝しく思うが、すぐに二人とも真剣な表情に戻る。
「コードは手に入った?」
「ああ。端末は二階の所長室だ」
二人は早速、本部にアクセスするため、所長室へと向かった。
部屋に入った玲は、キャスターのついた所長席に腰を下ろして、端末のキーボードに触れた。
彼の肩越しに、麻莉もモニターを覗き込む。
コードを打ち込むと、認証許可の文字が表示され、センター本部の武川のホーム画面へと移動した。
このコードで、全てのデータを閲覧できるほど、本部のセキュリティは甘くない。
見ることが出来るのは、あくまで武川が現在進行形で関わっている計画のものだけだ。
シンプルな構成の画面に、メッセンジャーやプロジェクト名のフォルダが並ぶ。
“柴浜先端通信開発機構”のフォルダを選択しようとした彼は、その上にある“真波”の文字を見て、そちらを先に開いた。
「……候補者一覧?」
「何の候補かしら」
氏名、年齢、居住地などが入力された人物のリスト。
DIS、TOなど、見慣れぬ英略号の欄には、何を意味するか分からない数値が記されている。
日本語で理解できるのは、“適性度”くらいか。
細かい人物名に、知った名前を見つけたのは、麻莉が先だった。
「榊原舞、適性度七十二%……」
「……こいつもいる。藤田創二、適性度は五十四%だ」
葉田榎津美、中島尚子など、真波事件の昏睡者の名前を、二人は次々と発見する。
彼ら被害者は武川によって事前に用意された、その証拠とも言えるリストだった。
「適性度が高いのは凪坂鈴奈、九十四%。一番低いのは……柴浜汰司、三十八%かな」
「潜行能力の適性度?」
「どうもそれっぽい」
動きを止め、何かを考え出した玲に、麻莉は注意を促した。
「考え事は、ここを出てからの方がいいわよ。何か気になるの?」
「音叉だ」
「え?」
「こいつらは、事件現場に配置されたんだ」
昏睡者の発生場所が奇妙にバラけていることを、玲は不思議に思っていた。
深層の武川が、第二班を似たように研究所内に散らして配置したのを見て、その位置関係が意図的なものだと確信する。
「理屈は分からない。だけど、事件を起こすためには、この位置に能力者がいる必要があったんだ」
「それで、適性度を調べてたのね。でも、音叉って?」
「似てるって感じたんだよ。音叉の近くに、別の音叉があると共鳴現象が起きるだろ」
「……無線の遠隔潜行って、まさか」
実際は、震動の共鳴とは全く違う原理だろうが、結果は酷似している。
武川は故意に能力の共鳴を引き起こし、効果範囲を広げた。真波事件で生まれた飛び地のある被害状況は、これで説明が付く。
舞や藤田ら昏睡者は、能力を伝播する本体のコピーとして使われたのだ。
研究所の第二班も同様に、能力を共鳴させたのなら、あの強力な衝撃も納得できる。
いくら玲でも、十八人を束ねた潜行攻撃を受けては、動きを鈍らせて当たり前だ。
「潜行共鳴とでも言えばいいのか。この現象は、確かに無線の遠隔潜行に近い」
「だからって、巻き添えを食った死者が発生し過ぎだわ。有線以上に使い物にならない」
「遠隔潜行自体が目的じゃないな、おそらく」
“真波”の人物リストを閉じ、彼は他のデータに手早く目を通していった。
武川暁歩、青少年育成福祉センター、元精神医療班主任。真波総合医療センター唯一の精神外科医であり、柴浜の研究所が病院の“南棟”として扱われている。
彼女はセンターの第一班の新規編成組、通称“新班”の指揮者も務め、構成メンバーの人数は知ることが出来た。
新班は全部で八人、武川の命令で旧班とは別行動を取っている。真波事件をお膳立てしたのは、こいつらだろう。
現在の居場所は知り得ないが、襲撃が予想された研究所にいないということは、別の重要拠点に回ったと考えた方がいい。
つまりは医療センターの警護だ。
玲が最も知りたかった情報は、“K”とだけ表記された経過報告書に書かれていた。
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