21. 遠隔潜行
必要なのは速度。
武川が世界を閉じる前に、主役を始末する。
大型ベッドの前に出現した玲は、敵に先んじて深層に改変を加えた。
「崩れろ」
黒々とした亀甲模様が天井に描かれ、砕かれた建材が土石流の如く降り落ちる。
コンクリートの直撃を受けなかったのは二箇所だけ。玲と武川の立つ場所だけを避けて、部屋は瓦礫と土煙で埋め尽くされた。
武川の自殺を待つまでもなく、大規模改変によって空間が激しく湾曲する。
魚眼レンズを通して見たような光景の中、ベッドに横たわる人物にも確実に礫塊が襲い掛かった。
トドメと言わんばかりに、ベッドを串刺しにする鉄骨の群れ。
事態を認識した武川も、その身を昏睡者の上に投げ出すが、既に機は逸している。
自分も死ぬつもりの行為なのか、それとも患者らしき人物を守る気だったのか、何れにせよ、その目的を遂げることはない。
昏睡者の命が断たれたと同時に、玲は二層を一気に浮上する。
ほんの刹那、武川と向いあった一室が現れ、また場面は中央研究棟へと替わる。
残念ながら、玲がこの世界の変遷を最後まで追うことは不可能だ。
深層の脱出点、現実世界での彼は、未だ研究棟の床で薬によって昏睡させられていた。
◇
深刻な精神ダメージを受けた武川は、膝から崩れ、自身も床に手を突く。
目眩や動悸と闘いつつ、彼女は仰向けに横たわる玲に顔を向けた。
――瀧神玲、全くなんという男なのか。
彼への投薬に成功した後、武川は玲を認識ドアの奥までひきずって行き、機器から延長したコードを首や頭に貼付けた。
玲も予測した通り、各種回線は真波総合医療センターに接続されている。
この研究所は数年前からセンターによって浸蝕され、現在では元の通信関連の研究者は殆ど残っていない。
柴浜先端通信開発機構、その内実は潜行技術の研究施設だ。
光ファイバー線を利用した遠隔潜行は、約二年前、この地で遂に実用化に漕ぎ付けた。
技術開発の成功を受け、武川が次に触手を伸ばしたのが、近隣にある医療センターだった。
病院の関係者は、従来の医師たちのままだが、潜行能力を持つ人間が中に取り入るのは簡単である。
掌紋認証を取り付けた先に収容されていた、武川の研究の精髄。その人物のために、医療センターがどうしても必要とされた。
研究所の重要資料は、既にセンター本部に移送中であり、警備員以外のスタッフも退避している。
急遽用意した瀧神捕獲のためのトラップだったが、失敗に終わった。
このまま彼を放置すれば、次はまた病院へと向かうだろう。
取り込めないのなら、処理しなければ。
武川は空のベッドの縁にしがみついて立ち上がると、部屋の奥へと体をズラせてズリズリと進む。
ベッドを放し、また床を這って、彼女は壁際を目指した。
込み上げる嘔吐感を抑え、何度か動きを止めながらも、武川は手術用具のケースに辿り着く。
苦痛に歪む彼女の顔は、一気に何年も老化したように目は窪み、皮膚は光沢を失っていた。
膝立ちして、ケースの中を手でまさぐる。
鋭い刃が指を傷付けるが、構わずに一本のメスを握り込んだ。
――これで、首を。瀧神の首を。
血痕を床に垂らしつつ、彼女は玲の元へ戻ろうと、四つん這いを再開する。
床に引かれる血糊の筋。
ヌルリとした感触に、手を滑らせる武川。
肩から床に激突し、痛みに呻きながらも、その不格好な体勢のまま彼女は屈伸を繰り返して床を進み続けた。
待望の玲の身体が、苦行の末に現れる。
彼の服を掴む左手、それを基点にして自分の身体を引き寄せれば、もう目的の首に手が届く。
――ナイフを……柔らかい肉に。
とっくに血で汚れたメスが、新たな獲物に向けて持ち上げられた時だった。
全身がバラバラに分解する衝撃が、武川を襲う。
皮一枚で繋がっていた彼女の気力を、高圧電流が消し飛ばした。
「させないわ」
スタンガンを床に置き、麻莉がメスを握った手を踏み潰した。
メスは床に落ち、壁際にまで蹴り飛ばされる。
麻莉の足がへしゃげた女の背に移動して、全体重を掛けて敵を押さえ付けた。
ギリギリのタイミングに、彼女の動悸も速い。
もし車を限界まで飛ばさなければ、間に合わなかった。ここで玲を失っていたらと思うと、冷や汗が出そうだ。
女をよく見ようと、麻莉は顔を近くに寄せた。
訓練を積んだ人間の反射行動であろうか。瀕死の武川の刷り込み光が、弱々しくも瞬く。
「まだやる気なの!?」
光を打ち消すべく、麻莉が自分の深層を守って周囲を構築し直す。
この攻防は、玲に何度も深い傷を負わされた武川の深層を、修復不可能にまで破壊した。
伏せた顔の下から血流が四方に広がり、白い光が消滅した時、センターの熟練曳航者は遂に息絶えたのだった。
麻莉からは見えなかったが、死を受け入れた武川の顔は、決して苦痛に歪むそれではない。
敵の虜囚となるべからず。
センターで自らが教えた鉄則を実践した彼女は、微笑んでいるようですらあった。
◇
眠りから覚め、頭を振って体を起こした玲の目に、書類の束で散らかされた床が飛び込んでくる。
貼られていたコードは、もう麻莉が剥がし、紙屑と一緒に投げ捨てられていた。
彼は足先を覆うコピー用紙の布団を退けて、武川の死を確認すると、ガサゴソと家捜しをする麻莉に声を掛ける。
「助けられたみたいだな」
「眠らされるなんて、貴方らしくないわね」
「どれくらい寝てた?」
意趣返しもそこそこにして、彼女は腕時計へ目を落とす。
「四十分……と少し。私が来た時からだけど」
「研究所にいた他の連中はどうなった?」
「みんな死んでるか、深層を潰されてるわ。瀧神くんがやったんじゃないの?」
研究所に着いた麻莉は、彼と同じ思考を辿り、ほぼ一直線にこの中央研究棟にやって来た。
玲を救出した後は、急いで他の棟を回ったが、どこも死体だらけだったと言う。
建物の外周や保安室には警備員が倒れ、屋内ではダイバーたちが昏倒していた。
「真波事件で受けた衝撃を、ここでも食らった。あれが研究所に広がったんなら、皆が倒れたのも当然だ」
「佐藤は平気だったの?」
「本名は武川らしいぞ。こいつが引き起こしたなら、張本人は無事だろうさ」
だが、武川の能力にしては強力過ぎる上に、玲との攻防では再度の衝撃を使っていない。
彼はヒントを求めて、麻莉の捜索結果を尋ねた。
「何を研究してたのか分かったか?」
「あるのは途中報告のメモや、研究員の走り書きばっかり。でも、少しは推測できそう」
「聞かせてくれ」
遠隔潜行という言葉は、書類中にも頻繁に出現していた。
長期刷り込みなどを行うと、能力者が対象とリンクする現象が生じる。これを機械的に再現しようというのが、武川の研究だった。
回線の先にいる対象と力を融通して、遠隔地から相手と同化する。
能力を流す回線設備は完成したが、彼女の希望はそれに留まらなかった。
「回線での遠隔潜行は、双方が能力者じゃないと成功しない」
「微妙な成果……でもないか。強力なダイバーが、子機を持てるようなもんだからな。工作規模が一気に広くなる」
「第二班クラスが全員、瀧神くん化したら悪夢だわ」
「でもそれじゃ、この女は満足しなかったんだな?」
麻莉は頷いて、何枚かの書類を彼に渡した。
武川の直筆らしき手書きのメモもある。
「……無線化?」
「そう、有線じゃ、使い勝手が悪いのよ」
コードを繋いだ工作員同士をリンクしたところで、活動範囲は知れている。
自由に動くダイバーに力を送れて、初めて有効活用できるだろう。
「で、研究は上手く行ったのか?」
「それを調べてたとこ」
残された資料を見る限りでは、既存の無線通信技術の援用は、尽く失敗したらしい。
潜行能力を電波化して飛ばす、そんなことは夢物語だった。
ただ、麻莉と一緒に書類に目を通していった玲は、残された資料に大きく欠ける物があると気付く。
中央棟の全室を当たってみたが、彼の望む情報は得られなかった。
「無いな」
「何を探してるの?」
「奥の部屋にいた昏睡者の資料だ。そいつの深層に曳航されたんだよ」
今はもぬけの殻だとしても、ここに誰か重要な人物がいたのは間違いない。
調べる先の候補は、真波医療センター、警察、それに何よりも極秘情報が集まる場所が存在する。
「センター本部の情報を見る」
「どうやって?」
床の遺体を、玲は顎で指した。
「死体に潜行するの?」
「違う、第二班のダイバーの生き残りに潜る。昏睡してるなら、武川を利用できる」
「ああ、上級権限のコードを入手するのね。大丈夫かしら……」
せっかく倒した相手との再戦に、彼女はやや渋い顔をする。
それでも、他にいい手は思いつかない以上、最終的に麻莉も彼の考えに従った。
「やるなら急ぎましょう。誰が来るか分からない。実験棟の端に症状の軽い工作員がいたわ」
「それでいい」
次に研究所に来るのは、警察ではなく、おそらくセンターの連絡員だ。
全滅の報告が本部に届けば、処理班が急行して来るのが予想される。
潜行者によって引き起こされた事件は、おおよそそうやって人の耳目から隠されてきたのだった。
中央研究棟の奥には、十二の大きな実験室があり、麻莉によると二階も同じ構造らしい。
三階は事務室や休憩室、一階には食堂や来客用の施設が設置されていた。保安室は実験棟を抜けたところ、一階の隅にある。
三階構造の建物の中で、第二班の工作員は二人ずつ
「二階と三階に、それぞれ四ペア。実験棟に二人、それで十八人」
「オレが倒した二人を合わせて二十人か。第二班を上階に展開させるとは……」
配置の仕方は、敵の侵入を考慮したものではない。
玲を捕らえる罠なら間違ってはいないものの、大量のダイバーを召集する意味が薄くなる。
第二班の役割を考察しながらも、彼は麻莉に案内されて、すぐに昏睡者のいる実験室へと導かれた。
「この二人、手前の方が
「血まみれじゃないか」
これが軽傷とは。彼女の見立ては嘘ではないのだろうが、昏睡ダイバーは瀕死にすら見える。
溜め息を付くのを我慢して、玲は目鼻から出血する男へ潜行を開始しようと音叉を取り出した。
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