04. 罠
ダッシュボードに手を掛け、玲が叫ぶ。
「止まれっ!」
軽自動車が慣性を無視し、即座に静止した。
「左へ!」
タイヤの向きなどお構いなく、車は左へスライドする。
進路を阻むものが無くなった後続の白いセダンが、横滑り中のトレーラーへ突っ込んで行った。
銀色に光る円筒型の巨大なタンク、ガソリン運搬用のトレーラーだ。
正面からまともにタンクにぶつかった乗用車は、激突音と共に白煙を噴き上げた。
急ブレーキを踏んだ何台かの車が、玲たちの横で玉突き衝突を起こす。
「後退しろ!」
男がギアをバックに入れ、軽自動車は歩道脇に寄った状態で後ろへ逆走した。
トレーラーは道を塞ぐように反対車線に飛び出して、直角に倒れ込んでいる。
こちらからは見えないが、トレーラーの向こう側でも、ゴムを擦り付けるブレーキ音が響いていた。
車体の前半分をペシャンコに潰されたセダンから、チョロチョロと小さな火が上がり始める。
直後、猛烈な爆風に、鼓膜を突き破らんばかりの轟音が続く。ガソリンを詰めたタンクから、巨大な火柱がそそり立った。
近くに立ち並んだ商店や事務所の窓ガラスが、爆発の圧力で粉々に割れ飛ぶ。
爆発音に続いて誘爆の破裂音、さらにあちこちから上がる悲鳴。
平穏な街の夕暮れは、完全に吹き飛ばされた。
トラップ、麻莉の言った言葉が、玲の頭に蘇る。
しかし、ダイバーを狙ったのなら、こんなまどろっこしいことをしなくても、直接この軽自動車を爆破すればいい。
この事故が人為的なものならば、敵は潜入を察知しているだけで、正確な場所までは分からないということだ。
――ならトレーラーを横転させた目的は? 道路の封鎖、さらには時間稼ぎというところか……。
忌ま忌ましい炎の壁を睨みつつ、彼は打開方法を考える。
時間内に駅へ到着できないのが、最も避けたい事態だ。
また脇道へ――いや、時間稼ぎに付き合う必要は無い。一旦広げかけた地図をポケットに押し込み、玲は車の進むべき方向を指す。
「トレーラーの妨害は車道だけだ。歩道を走れ」
「あ……火が……」
男の肩を強く掴み、彼はもう一度通告した。
「歩道だ。突っ切れ」
猛然と発進した軽自動車は、縁石に乗り上げ、前方の火炎に向け歩道を走り出した。
放置自転車を跳ね飛ばし、居酒屋の電飾看板を倒して、車が疾走する。
事故を遠巻きに見ていた歩行者が、慌てて脇に避けるが、別に
「この車は、潰れたりしない」
「はい」
玲の乗る車を見た者は、輪郭が奇妙にブレることに気付いただろう。
衝撃も熱も、タイヤの踏む爆破の残骸も、全て無害に上書きされる。
延焼する街路樹の横を抜け、火の手の上がる花屋の前を車が通り過ぎると、事故現場は後方のものとなった。
「ちょっとやり過ぎたかな……柴浜に影響が出ないといいが」
深層の改変は、最小限に留めたい。そんな玲の希望を知ってか知らずか、彼を襲う悪意は、まだ始まったばかりだった。
◇
地図の細かい経路を指で追い、玲は進む方向を告げ続ける。
「次の交差点を右に」
「はい」
これじゃカーナビだと、玲は皮肉に口許を歪める。
結局、幹線道路を外れたのには訳がある。
トラック、トレーラーと連続した事故は、その後も車種を変えて発生し、彼の行く手を阻んだ。
罠かどうかは知らないが、少なくとも、これらは敵の改変結果に違いない。
五つ目の大規模な交通事故と遭遇した時、玲は確信する。
狙いはダイバーの命ではなく、街の交通を麻痺させること。
トレーラーは
事故に巻き込まれそうになったのはこれだけで、他は玲とは関係なく引き起こされている。
事故は真波駅へ向かう全ての道で多発し、スムーズな通行を不可能にした。
彼の駅到着を遅らせるつもりなら、成果は上々だ。
「深層を壊す気か……目茶苦茶やりやがる」
六件目の騒乱は、もう交通事故の域を超えている。
二トントラックがガソリンスタンドに突っ込み、給油中の乗用車と共に爆炎を放つ。
黒々とした大量の煙が、夕方の空を暗く染めた。
――空襲か、爆弾テロといった感じだな。
自分の感想に、玲はまた苦笑いする。
真波事件は、一般にはテロリストの仕業とされており、被害はこの程度では済んでいない。
深層で爆破を繰り返すくらい、気にもしない相手だったと、彼は思い返した。
「信号の先に、商店街のアーケードがある。通り抜けよう」
「分かりました」
向こうがその気なら、こちらも無茶をさせてもらうと、彼はやり方を変えることにする。
交差点を過ぎたところで、車を一時停止させ、玲はアーケードの入り口に近付いた。
自動車の障害になりそうな物を消す。地面に手を触れ、彼は誰に言うでもなく言葉を投げかける。
「車止めを解除。ベンチはいらない、
商店街の入り口に並ぶ鉄柱が、端から順にストンと地面へ収容された。
アーケード内に置かれていた木のベンチも、近くにいた店員たちによって、横に運ばれる。
再び車に乗った玲が、発進を合図した。
「行け、近道だ」
進入した車に、買い物客が悲鳴を上げて道を空ける。
時刻は十六時四十九分。
アーケードを出たら、小学校の敷地を通り抜け、河川敷に沿って北上すれば、駅の近くまで行ける。そこで降りて、残りは徒歩――。
――ん、地図では見づらかったが、まだ時間の短縮方法があるな。
幸いなことに、これほど大きな改変が相次いでも、柴浜の深層には何の揺らぎも生じていない。
人並み外れた精神力の持ち主か、または改変を抵抗無く受け入れる人物だ。
その対象者の特性を、彼も利用しない手はない。
玲は地図の一点を目標に定め、再び進路指示に集中した。
河川敷まで進んだところで停車させ、運転手に外へ出るよう命じる。
「運転を替わる。もう地図はいらないからな」
無言で立ち尽くす若いサラリーマンを残し、玲は運転席へ身を沈めた。
ここから先は、地表に引かれたガイドに沿って進むだけだ。
真波駅には私鉄の
その車輌が走る線路は、河川敷の先で直交していた。
高架を走るJRと違って、私鉄は踏切のある地上線が基本で、真波駅の直前で地下に潜っていた。
川に架かる鉄橋に続いて、玲の目当ての踏切が在る。
踏切内に進入した彼は、ハンドルを大きく右に回した。
アクセルをベタ踏みして、遠慮無くスピードを上げると、軽自動車は暴れ馬のように跳ねる。
揺れる車体は、深層を上書きして安定させればいい。
線路上を走行すれば、道路の渋滞とも無縁な上に、駅への最短ルートだ。
十七時二十五分。
百五十キロ毎時で十分も走れば到着できる。
流石の“テロリスト”も、電車の路線まで封鎖することはかなうまいと、玲が予想した時だった。
ゴトンゴトンと響くタイヤから伝わる震動とは別に、小刻みなリズムが彼の耳に伝わって来る。
走行音よりも早い、微かな低音の刻み。徐々に大きくなるその音の発信源は、車の上後方、空だ。
サイドミラーを限界まで上に向け、近付く物体を確かめる。
「おいおい……」
報道用のヘリが、猛スピードで下降している。
線路沿いに急降下するヘリの着地点は、前方に暗く開いた地下進入口か。
「加速」
接近するローター音に追い付かれないよう、玲は車速を上書きした。
――くそっ……。
彼が腹立たしく舌打ちしたのは、線路を封鎖されそうなためではない。
それに対抗するために、自身が深層に手を加えることに苛立ったのだ。
ヘリが墜落することは、異常事態ではあっても、現実世界の延長に過ぎない。
しかし、車を二百キロを超すスピードに加速させたり、被るダメージを無効化するのは深層の再構築だ。
敵の妨害へ対応する度に、玲は物理法則を大きく逸脱した。
単なる事故を引き起こすだけの敵と比べて、彼の方が遥かに悪影響を与えていておかしくない。
車がトンネルに入った直後、後ろから爆発音が轟く。
バックミラーを見なくても、ヘリが目的を達したのは明らかだった。
耳を
――いいだろう、これはトラップだとしよう。
潜行に反応し、駅への経路を封じた。
そこまでして
地下への下り坂を過ぎ、線路は水平な地面に行き着く。
トンネルの奥から対向車輌のヘッドライトが近付いたため、行き交う隙間を開けるために車を片側に寄せた。
こちらの車影を発見した運転手が、列車を急停止させるが、玲は逆にスピードを上げる。
車幅に余裕はある。
緩いカーブの外側が対抗車輌、ガードレール代わりに丁度いい。
速度が乗った軽自動車は、カーブの外側に膨らもうとし、列車の下部にボディを擦り付けた。
赤い塗料が剥がれ、飛び散る火花が暗闇を照らす。
駅まであと五分。
事件を隠蔽するだけなら、昏睡者を抹殺して回るのが一番手っ取り早いはずが、敵は世界の改変だけに留めている。
被害者の深層を残したまま、周到なトラップを仕掛ける。
考えられる動機は、ダイバーの特定、さらには捕獲といったところだろうか。
地下線路の先に、ぼんやりと光る終着が浮かび上がる。
私鉄真波駅、そのホームの照明が小さな点から成長し、並ぶ通勤客の姿も判別できるまでになった。
ブレーキを踏み、線路上に車を止めると、玲は外に飛び出す。
放置された自動車は大事故を引き起こすだろうが、一時間後の惨劇を考えれば大したことではない。
彼はホーム端へと駆け寄り、こちらを見ていた者たちの腕を、ポンポンと叩いて回った。
「何も見てない。そうだな?」
「ええ……」
人の波を掻き分け、玲は地上を目指す。
三回目の潜行にして、やっと事件の一時間前に到着できた。
見つけるべきは、柴浜、そして事件への手掛かり。
十七時四十四分。
夕闇の訪れた真波駅前に、ダイバーが立った。
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