03. 悪夢の影

 藤田は喉を潰され、大量の失血を経て尚、玲の前に立った。

 狼狽うろたえていた女友達も、上を向いて奇声を発し始める。


 惨劇の記録が繰り返されようとしているが、舞の時とは様子が違う。

 急激に暗くなる夜空、冷える空気。

 いや、空は元から暗かった。光の力が、砂地に撒かれた水のように周囲の建物に吸い込まれ出したのだ。


 呆然と立ちすくみ、眼窩を凹ませ口を丸く開けた藤田の傍へ、目から血を流し出した女たちが、次々と歩み寄る。

 連れの女子学生だけでなく、若い女性店員が、制服の女子高生が、血と奇声を吐き散らして集まって来た。


「酷い有様だな……」


 現実の過去をトレースすることを放棄し、藤田独自の世界が構築されようとしている。

 こんな非常識な深層が発生する原因は、三つ考えられた。


 一つは、玲のような潜行者ダイバーが、深層を歪めた時。

 次に、藤田が常識のかせを外して想像の世界に移行した時、つまり夢だ。

 いわゆるREM睡眠中の対象へ潜行するのは、自殺行為にもなり得る。空飛ぶピンクのカバに追いかけられたくなければ、手を出さない方がいい。


 玲は五度ほど、他者の夢から生還した経験があるが、それは彼の能力があってこその偉業だった。

 真波事件で救出された昏睡者は、皆一様に脳の働きが低下しており、治療は捗っていない。

 だからこそ、夢を見ることもなく、事件直前で切り取ったような深層を維持しているのだ。


 では、この血塗ちまみれの女どもによる饗宴は藤田の見始めた夢――奴は昏睡から回復しようとしているのか。

 否、それは違う。

 玲は臆することなく、半死の集団に近寄った。

 藤田をかばうように抱き着いた女の肩を右手で掴み、低い声で宣言する。


「消えろ」


 何の手間もいらない。単なる宣告が、女の一人を霧散させた。

 女が消えた空間が練った粘土のように歪み、深層にうねる傷を刻む。

 この期に及んで、対象の精神状況を気遣う必要は無いだろう。


 深層が異常をきたす三つ目の理由、それは被潜行者の死だ。

 この世界は藤田の断末魔、悪夢の走馬灯だった。


 このままでは、玲も深淵に引きずり込まれてしまう。

 直接消却すれば、現実世界の藤田の精神はおそらく崩壊するが、もう死は目前だ。さっさとケリを付けるため、彼は男の肩に手を伸ばした。


「なんてタイミングで死にやがる。消え――!?」


 指先が男に触れる刹那、玲の足元がパリンと割れる。

 そう、タイル貼りの硬いカフェのフロアは、ガラスのように砕け散った。


「くそっ、ここは駅だ!」


 自由落下しそうになった体を、再び駅のタイルが持ち上げる。

 深層の上書き。

 玲の創った半透明の駅前が、周りの光景に二重の輪郭を与えダブらせた。

 ヒビ割れた夜空が、星や月を映したまま、破片となって駅前に降り注ぐ。崩壊は近い。

 彼は今度こそ、物言わぬ藤田の両肩を掴み、全ての終了を告げた。


「消えろっ!」


 二人の足下に漆黒の円が広がり、虚無が深層の主役を飲み込む。


 瞬間の消去、世界の暗転――。


 音叉を強く握った玲は、ベッドの上、白い顔で眠る藤田を見つめる。


「お帰りなさい。行きましょう、すぐに看護師が来るわ」

「ああ」


 ツーと連続して鳴る小さな電子音を残し、玲と麻莉は病室を後にした。





 廊下の突き当たり、非常口を開け、二人は避難用の外階段から病院の外へと出る。


「保安システムに引っ掛からないのか?」

「今夜は無効よ。鍵も全部開けてある」


 彼女の相変わらずの下準備の良さに、玲はそれ以上、質問はしない。

 逆に、麻莉の方が彼に尋ねた。


「殺したの?」


 その言葉に、非難も恐れも含まれてはいなかった。ただ単に、事実を確認しただけだ。


「オレが原因じゃないな。自然死――にしては、タイミングが良過ぎるか」

「トラップ?」


 潜行ダイブに反応して発動する悪夢の罠。そんなことが出来るなら潜行者を封じられるが、実現可能なのか。


「対ダイバーのトラップなんて、聞いたことないぞ。今はあるのか?」

「……いいえ。研究はしてるみたいだけど」


 医療センターの外周には、植え込みの他に、何本か桜やイチョウの木が見られる。

 二人が出て来た裏の駐車場にも、大きな桜が枝を伸ばしているが、まだ膨らんだつぼみが多く満開には程遠い。

 パチパチと明滅する寿命の近い外灯が、木陰の玲たちを気まぐれに照らす。


「妹さんの時は、トラップなんてなかった。技術的にも、準備時間的にも、仕掛けるのは難しいと思う」

「そうね……続けましょう。次は?」


 先の深層が崩壊した時、人々の視線がカフェに向いた。サラリーマンも、学生も、皆が一斉に。

 確かに藤田という男の自意識は、やや肥大化し、他者の視線を集めていると錯誤していた。しかし、それは女性限定だ。

 駅地上階の人々を動かしたのは、別の人物ではないだろうか。


「駅の一階にいた人物がいいな」


 弱い照明を頼りに、麻莉がリストを調べる。

 羽虫を手で払いのけながら、彼女が候補を挙げた。


「改札近くに子供が一人。前の広場に中年男性が一人。どちらもここに運ばれてる」


 その答えに、玲は少しだけ眉をひそめた。


「子供はやめとこう。中年男性の方に潜る」

「あら、あなたでも気にするのね」

「……自分が深層で殺すのは構わない。万一、本当にトラップなら、対象が現実で死ぬからな」


 柴浜汰司しばはまたいじ、四十一歳。

 中央棟の五階に収容されている。


「外階段ですぐ入れるわ。行きましょう、ついて来て」


 麻莉に先導してもらい、駐車場から中庭を抜け、中央棟の非常階段を上る。

 五階の扉を開けた直ぐ近くに、柴浜の病室があった。


「個室か……」


 大部屋を予想していた玲が呟く。

 中に入り、扉を閉めた後、麻莉が対象者の情報を補足した。


「若くても、柴浜工作機械の社長よ。実権は会長が握ってるようだけど」

「ああ、上場企業か」


 一族経営の柴浜グループ、その稼ぎ頭の一つが、柴浜工作機械だ。大企業の御曹司なら、VIP待遇も頷ける。

 意識の戻らない昏睡者にもかかわらず、部屋には見舞いの花や果物が山積みされていた。


「そんな社長が、駅でウロウロしてたのか?」

「うーん、一人で行動してたようね。同伴者はいなかったみたい」


 何をしていたのかは、実際に見れば判る。

 澄んだ金属音の響きと供に、今日、三度目の潜行が開始された。





「どこだ、ここは……」


 見慣れぬ路地裏の光景に、玲は面食らう。

 場所を確認するため、車通りの多い道路を探し、しばらく細い路地を左右に折れ進んだ。

 彼が戸惑ったのは、居場所だけではなく、辺りの明るさに対してもだ。

 温い日差しに、彼の首元が軽く汗ばみ、不愉快な湿気で襟がベタついた。


 植木やエアコンの室外機が並ぶ裏通りを抜けると、ようやく四車線の国道に行き着く。

 白地に赤いコンビニのロゴマークを見付けると、玲はガラス戸を押し開いて、その中に入った。

 店内の時計は、三時八分を指している。


 ――時間は分かった。場所は?


 彼は入り口近くの網棚から、折り畳まれた地図を抜き取り、ガサガサとカウンターの上に広げた。


「いらっしゃいませ?」

「地図を見ろ。ここはどこだ?」


 研修中の札を付けた女性バイトの右腕を、玲がポンと叩く。

 彼女は地図を覗き込み、真ん中辺りに人差し指を置いた。


佐雲さぐもです」

「……そういうことか」


 真波の隣市、佐雲には、柴浜工作機械の本社ビルが在る。主機能を首都に移しても、未だここにトップを置くのは、創業一族のこだわりだろう。

 柴浜汰司は、この街から真波に向かった。おそらく自動車でだ。


 コンビニを出た玲は、手頃な移動手段を探し、国道沿いに歩いた。

 歩道に寄せて停められた赤い軽自動車の助手席から、若い女性が降りて来る。

 ブランドのバッグを掛けた右肩に手を置かれ、彼女が驚いて振り向いた。


「どいてくれ」

「あっ、はい」


 車に乗り込んだ玲は、サイドブレーキを握る運転手の手を掴む。


「何だ、お前……!?」

「真波駅へ。急げ」

「分かりました」


 二十代後半といったところだろうか。会社帰りらしくネクタイを締めたままの男は、アクセルを静かに踏んで、国道の車の流れに戻った。

 平日の昼過ぎ、交通量はそこそこというところ。工事用車両やトラックなど、仕事に奔走する大型車が目立つ。


 道なりに行けば一時間もかからず駅に着くはず、その玲の概算は、残念ながら簡単にひっくり返された。

 十分ほど快調に進んだところで、渋滞につかまり、車は遅々として動かなくなる。


「何事だ……そのまま待っていてくれ」

「はい」


 彼は車を降り、車道の端から前方に目を凝らした。

 車列の向こうに、赤いコーンと交通整理中の警官の姿が見える。道を封鎖し、手前の脇道へ車を誘導しているようだ。

 そのさらに奥、消防車とパトカーの隙間から、煙を上げている横倒しのトラックが覗いていた。


 ――派手な交通事故も、それだけで不自然とは言い切れないが……。


 車に戻った玲は、黙って待機していた運転手へ告げる。


「横道に迂回しよう。Uターンして、反対車線へ」


 やや強引に中央分離帯を踏み越え、車は佐雲方向へ来た道を戻った。

 地図を開いた玲が、すぐに左折を命じ、住宅街を抜ける隘路に進入する。

 折角せっかく長時間潜行ロングダイブだ。出来れば早く真波駅に到着したい。


 右に左にとハンドルを切って先の渋滞の原因を迂回し、ある程度距離を稼いだところで、国道へ戻るように彼は指示した。

 これで事故現場を越え、空いた道を快適に真波へ向かえる。


 無駄にした時間も取り戻せると、玲が地図を仕舞った瞬間、目の前を行く大型トレーラーが弾かれたように横転した。

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