19. 突入
開発機構のゲートが見える場所まで車を進め、一度エンジンを切る。
サイドウインドウを全開した後、玲は懐中電灯で後ろに座る男の顔を照らした。
物言わぬ人形と化した鹿島。光が当たるとその目が細められ、やっと生身の人間だと分かる始末だ。
車を降りて後部ドアを開くと、男はわずかに玲へ顔を向けた。
「運転席へ」
「……あ……あぁ……」
返事こそ怪しいものの、鹿島の身体機能は至って健常である。
玲に肩を掴まれたまま、彼は問題無く車の前席へと移動した。
深層を撹拌された人間は、現状を認識する力を失う。
自分の意志で考え、適切に行動することの出来ない
運転席に収まった彼へ、玲はゆっくりとした言葉で、指示を伝えた。
「あのゲートに突っ込め」
「ゲートに……」
「アクセルは全開。目標は建物の玄関だ」
「アクセル……全開……玄関」
この状態の人間に刷り込むのは、彼でも
ちゃんと動けるかが一番の懸念事項だったが、鹿島はエンジンを掛けてサイドブレーキを降ろすと、無事に車を発進させた。
全速でフェンスに向かって動き出す自動車を、玲も走って追い掛ける。
彼の見守る先で、昨夜の深層での光景が車種を変えて再現された。
セダンはブレーキを踏むことなく金属フェンスに激突して、二枚のゲートを一気にへし曲げる。
車体を凹ませ、ヘッドライトの一つを破砕してしまいながらも、車は研究所の玄関へと猛進した。
ゲート周辺に警備員がいないのは深層と同じ、向かって来る車を見て、慌てて玄関先から中へ駆け戻る人影も既視感に溢れている。
車がガラス扉を騒々しく割り砕く音に紛れて、玲はゲートの残骸を踏み越えた。
監視カメラに捉えられるのは仕方がない。皆の注意が車に向いていることを、玲は期待した。
建物の正面には、植え込みも壁も無い開けた平地だ。細い歩道が研究所を囲み、その歩道を敷き詰めた玉砂利が挟む。
それ以外の場所は芝生だけで、走り込む玲は丸見えになってしまう。
歩道に沿って外灯が立ち並び、今夜はその全てが明るく点いていた。
建物に近づくにつれ、玲の神経を逆撫でる高周波が圧力を増す。
外を警備する人員は、一斉に鹿島の乗る自動車へ殺到したようだが、まだ遅れて駆け付ける者がいた。
真正面を避けて玄関の左側面に向かう玲の姿を、巡回中の警備員が見咎める。
「何をしてる、動くな!」
両手を挙げ、無抵抗の意志を示しつつも、彼は歩み続けた。
十メートル、止まる必要は無い。
「止まれ!」
警備員が腰から警棒を引き抜く。
いや、先端に電極が二本突き出ているのは、警棒ではなくスタンガンだ。
――四メートル、そろそろか。
足を止めた玲に、今度は警備員がスタンガンを向けて接近する。
二人の距離は二メートル、腕時計のアラームが短くピピッと時刻を知らせた。
間髪置かずに全ての外灯が、建物外壁の照明もが消え、黒く塗り込められる。
鬱陶しかった高周波も、ピタリと沈黙した。
暗闇と静寂――そして澄んだ音叉の音色に合わせ、警備員は崩れ伏せる。
玲はスタンガンを拾うと、右手に音叉を握ったまま玄関へと向かった。
麻莉の行き先は、この地域の電力供給の要、真波一次変電所である。
夜間も常勤する十数名のスタッフは、今頃、彼女によって宴会でもしているに違いない。
研究所への送電は、現在、周辺地域を巻き込んで停止された。
玲が予想した通り、建物の内部には未だ赤い非常灯の光が見える。
一部施設は自家発電でバックアップされており、いずれは高周波なども復旧される可能性が高い。
この闇は、一、二分も続けば御の字だろう。
玄関では早急な対処を求める怒号と、バタバタと床を揺らす足音が入り乱れていた。
車が打ち破った隙間から、身体を滑り込ませると、玲は携帯ライトを左右に振って内部を軽く照らす。
玲のすぐ正面に一人、車の前に三人、斜め奥に二人。
リズムを取るように、音叉は素早く六回、ライトに叩き付けられた。
潜行した深層で費やす時間は、一瞬で充分だ。
潜り、潰す。
主役の探索などせず、世界を虚無に還す。それを繰り返すことで、玄関ホールにいた警備員六人は無力化した。
掛かった時間は、僅か三秒。
深層で見た回線は、フロアの先へ続いていた。
折れた扉枠や、倒れた観葉植物を避けて、彼は一階の奥へ進む。
仮にその先に何もなければ、敵全員を昏倒させて、建物内を総当たりするつもりだった。
赤灯の鈍い薄明かりの中、廊下の中程まで進入した彼の後方から、何者かが走り寄ってくる。
手に持った棒状のシルエットで、増援の警備員と知れた。
スタンガンが得物なら、近くまで引き付けてしまおうと、彼らが有効射程まで寄るのを玲は立ち止まって待ち構えた。
ライトの瞬光が警備員たちを照射し、位置と人数が明らかになる。
増援は五人、潜行も五回。
最後の一人が倒れて床と同化すると、廊下は人の塊で埋まった。
重火器でもあればともかく、特殊能力の無い警備隊員が玲を制圧するのは不可能に近い。
だが、再び悠々と歩き始めた彼の脳へ、衝撃が走り、いきなり世界が渦を巻く。
深層撹拌、新たに奥から現れたのは
男が左手に持つ武器が、赤い光を鋭く反射した。
センター支給の麻酔銃だろう。
廊下の突き当たりからも、更にもう一人接近者が来る。
銃を使われる前に、玲は前方の男に撹拌を掛けた。よろめき、後退る程度の弱い撹拌を。
揺れる影法師に、命令が飛ぶ。
「後ろのやつに潜行しろ」
深層にダメージを受けた敵は、足をバタつかせて振り返り、仲間へと飛び掛かった。
撹拌と組み合わせれば、麻莉並の難易度の高い刷り込みも成功する。
但し、彼女の丁寧な刷り込みと異なり、その後、回復する保証はないが。
敵の二人は、センター第二班所属のペアだと思われた。
自分のパートナーからの不意打ちに対応できず、後続の男はあっさりと潜行を許してしまう。
立ち尽くす男たちを容赦無く蹴り倒して、玲は廊下の最奥に到達した。
T字の分岐路の右手には二階への階段、左は実験棟、正面の扉には“中央研究棟”の表示がある。
まずは中央から、そう考えて、彼はドアレバーに手を掛けた。
重い引き戸を開けた先も廊下が続き、左右に個別の研究室が並ぶ。
さらに奥へと足を踏み出した時、建物の電源がバックアップに切り替わった。
リノリウムの床が、蛍光灯の光を弱く照らし返す。
室内、少なくともこの中央研究棟の中では高周波の影響は感じず、潜行に問題は無さそうだ。
しかし、第二班が集合しているにしては、遭遇する敵の数が少ない。
――ここは見当違いか?
実験棟と二階、次にどちらを調べるべきか考えつつ、玲は研究室を覗いて行く。
施錠された部屋もあるが、ほとんどの研究室の戸は鍵自体が付いていない押し戸だ。
電子顕微鏡や医学系の計測器が並ぶ様は、工学研究所とは思えない設備で、バイオテクノロジー、もっと言えば医療機関のイメージに近い。
この廊下の終着にもノブの無い扉が存在し、開錠用のパネルが壁に見える。
黒く四角いパネルは人の手の平くらいの大きさで、これは掌紋照合システムだろう。
開けて進むなら、権限者を探して連れて来るか、保安室に乗り込むしかない。
この先が医療センターに繋がる重要施設なら、多木津が隠れていることも有り得るが、やはり護衛がいないのが気になる。
いずれにせよ、情報源になる潜行対象が欲しかった。
保安システムの解除のためにも、もう少し研究所の制圧を続けるべく、玲は開ける手立ての無い扉に背を向ける。
来た廊下を戻り始めた、その瞬間、荒波に世界がうねる。
彼がよろめく程の衝撃――第二班のダイバーが放つ撹拌のような、ちゃちな圧力ではない。
玲の見る現実世界を瞬時に捩り伏せる、深層への巨大な介入だった。
――この
自身の深層を再構築して、体勢を直そうとするものの、重力方向を掻き回すような揺れが収まらない。
彼の力をもってしても、自我を守るのに手一杯で、玲は膝を折って床と向き合う。
昏睡者の深層で体験したものとは、強さの桁が違う。
この今進行している攻撃は彼を直接巻き込むものであり、深層で再現されたものは所詮、弱い紛い物だと思い知らされた。
押し寄せる深層改変の波に抗いつつ、ロック解除の音を聞き付け、玲は背後の扉へと向き直る。
ドアが開き、コツコツと足音を響かせ、白衣の人物が登場した。
何とか頭を上げ続け、近付くこの初老の女の顔を、玲は気力で睨む。
古い記憶が彼に何かを教えようとするが、深層の主導権を巡って争う中では、集中が難しい。
「久しぶりね、瀧神くん」
「アンタ……佐藤……」
「佐藤は偽名よ。多木津もね」
玲をセンターに引き込んだ女、精神医療班の主任だ。
全国の潜行事例を調査し、素質のある者をセンターに招き入れる。その任務の責任者として、彼は女と何度か顔を合わせていた。
銀髪の混じる髪が、玲に近付く度にフワフワと揺れる。
いや、揺れているのは周囲の部屋、玲の意識か。
「スカウトが、何を……」
「私の本業はスカウトじゃない。この状況で喋れるとは、さすがね」
五年前は主任だった彼女も今では幹部となり、新班を率いる工作計画の長である。
真波プロジェクトの責任者の右手には、麻酔銃が握られていた。
これは彼女にとって、センターにとって降って湧いた幸運だ。玲を捕らえる計画など、どこにも予定されていなかったのだから。
病院での玲の深層潜行を受けて、急遽、“捨て駒”が召集される。彼を確保できるのなら、第二班を失っても釣りが来るだろう。
彼女の懸案は、玲がこの夜、医療センターと研究所、どちらに出現するかだった。
センター所属の精神外科医はその賭けに勝ち、仕上げのために玲の首へ銃先を押し付ける。
彼は女の手首を掴み、深層を撹拌すべく力を加えた。
最早、無抵抗と思われた玲が放つ力の奔流、その威力には彼女も顔に恐怖の色を浮かべる。
しかし、あと一歩のところでサロリウムβの効力が潜行スピードを上回り、玲の手は彼女から離れて、ゴトリと床に落ちたのだった。
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