25. 真波総合医療センター

 真波市街に戻るには特に能力も使わず、二人はタクシーを利用した。

 いつもの癖で、降り際に玲が刷り込みかけたのを麻莉が止める。

 財布も電話も持たない彼は、何をするにもこの調子で、住居すらアパートの空き室に潜り込んで済ませていた。

 自由に暮らす玲の一端を見て、彼女は羨ましくも感じる。自分とは違う生き方だと、これまでなら頭から追い遣った感情だ。


 親を亡くした後、一人で暮らす姉と違って舞は親類に引き取られ、二人の交流はほとんど途絶える。

 それでも麻莉は真波市を活動拠点とし、妹を見守ってきた。

 しかし、センターをはっきりと敵に回した今後は、彼女もこの街を出た方がいいだろう。


 これは踏ん切りの付かなかった麻莉にとって、大きな契機である。

「舞を助けたい」というのが第一なら、センターの真意を見極め、そこから離脱することも同じくらい重要な目的だった。


「組織を抜けて暮らすなら、金は貴重品になるぞ。さすがに銀行で刷り込みを使ったら、警察に追われる」

「適当にやるわよ。瀧神くんこそ、刷り込みはあんまり上達してないのね」

「力の加減が難しいんだ。たまに昏倒させてしまう」


 二人は住宅街を並んで歩き、人気の無くなった所で立ち止まる。

 電柱に留められた住所表記の前で、麻莉は今朝手に入れたスマホを取り出した。


「行くわよ。その苦手な仕事も手伝ってね」

「努力する」


 彼女が119を呼び出すと、即座に返答があった。


『……こちらは真波消防指令センターです。火事ですか? 救急車でしょうか?』

「友人が道でいきなり倒れたんです!」

『場所は分かりますか?』

「真波西区三の十二。近くに川間児童公園があります」

『出血はありますか?』

「いいえ。でも、全然動かなくて!」


 彼女が適当な氏名と電話番号を伝えると、昏倒者を絶対に動かさず、その場で待機するように指示された。

 通話を終えた彼女は、ペロリと舌を出す。


「じゃ、患者さん、卒倒よろしく」


 首を振りつつも、玲は道路脇で仰向けに寝る。

 救急車両が到着したのは、その五分後のことだった。


 手を振って誘導する麻莉の元へ、ストレッチャーを転がして三人の隊員が近付く。

 玲の呼吸を確かめるために、一人が頭の横へ膝を付いた瞬間、隊員は彼を覆うように倒れた。

 立ち上がった玲は、ストレッチャーを押す男も撹拌し、さらに麻莉が三人目を刷り込む。

 彼女はすかさず救急車の運転席へ向かい、四人目を処理して玲に振り返った。


「終わったわ」

「これを」


 彼女の手に、隊員から脱がせた白い上着が渡される。

 白衣の麻莉が追加の命令を刷り込んで行くと、救急隊員たちは黙々と仕事を始めた。

 最初に撹拌した男をストレッチャーに乗せ、救急車の中に運び、酸素マスクを被せる。

 この患者役の上着が、麻莉の着ている分だ。

 玲と麻莉が隊員の代わりに乗り込み、玲に白衣を渡した隊員は、現場にポツンと残された。


 サイレンを響かせて走り出した救急車の行き先は、もちろん真波総合医療センターである。

 二人が危惧したのは、センターの潜行能力者たちよりも、非能力者の下部工作員だった。

 一人ひとりでは話にならない戦力でも、数が集まると馬鹿にならない。

 銃器を所持する者まではいないだろうが、一度に数十人を相手にする事態を避けるため、病院への再侵入は救急搬入口から行われたのだった。




 救急車から緊急手術室までは何の妨害も無く、麻莉たちの刷り込み能力が猛威を振るった。

 玲が救命医の控室で院内地図を眺め、院長室の位置を再確認している時、麻莉から本日連絡のあった緊急のプリントを渡される。


「今日は五階より上は閉鎖ですって。患者、職員とも近付かないように通達が出てるわ」

「院長室も六階の西側だ。目当てのKも、その辺りにいそうだな」


 医師から身分証を奪い、取り敢えずは関係者を装って六階へと向かう。

 救急搬入口は東棟の接続通路に近く、院長室は中央棟の反対側になる。

 ロビーを通ることを避けて、最寄りの東階段を上り始める二人を、スーツの男が下から呼び止めた。


 医師にも患者にも見えない男――玲が注目したのは、その左手の中にある小さな球状の器具だ。

 玲にも覚えがあるセンターオリジナルの装備品、緊急警報球。

 一つだけボタンのついた銀色の金属球は、強く握り込むことで待機状態になり、解除ボタンを押さずに手を放すと発動する。

 弱い高周波を発生させられるが、出力が低すぎ、こちらは麻莉にすら効果が薄い。

 注意すべきは、もう一つの機能、瞬時に仲間へ襲撃を伝える警報だった。


「お前……顔をこっちに向けろ」


 五年前の物とは言え、センターには玲の顔写真が残っており、工作員たちも当然それを見せられている。

 殊更ゆっくりと振り向く彼の横で、麻莉は意識を集中し始めた。


 “球を放すな――”


 彼女の刷り込みと男の行動には、ほんの一瞬のラグが生じる。

 コンマ数秒の僅かなズレ。そのズレが球を自由落下させ、男は虚しく空を握った。

 弱々しい耳鳴りが、玲たちの脳に反響する。


「くそっ!」


 高周波は、球が発動した証拠だ。

 玲がセンター員を撹拌すると、俯せに崩れた体が階段をズルズルと滑り落ちる。

 警告球は段差を跳ね、男を先導するように一階廊下へ転がって行った。


「走れ、集まってくるぞ」

「ええ!」


 二人は階段を駆け上がる。

 二階から三階へと踊り場を回り込んだ時、上下に警告球で呼ばれた工作員が現れた。

 三階から五人、下に二人。


「下を頼む!」


 麻莉に一階からの増援を任せて、玲は音叉を手にする。

 階段を上りながら、手摺りを支える細い柱に、カンカンと音叉の先をぶつけて行った。

 彼が五段駆けるのに合わせ、リズムよく五回刻まれる澄んだ高音。


 潜行と深層破壊。

 駆け付けた工作員にダイバーはおらず、無抵抗で皆がグニャリと膝を折る。

 何人かは警告球を持っていたため、また床に転がる金属の球が増えた。

 下から来た二人も麻莉が難無く無害化し、口を開けて棒立ちしている。非ダイバーが数人程度では、大した脅威にならない。


 玲たちは、再び六階に向けて走り出した。

 四階、五階と進み、六階の廊下へと出た時、彼は急停止して後ろにいた麻莉に飛び付く。


「戻れ!」


 もつれる二人の身体が、階段の下り口へと床を滑った。

 ガシャンという音の発生源を、玲が不審な顔の彼女に指し示す。

 彼らがいる側の廊下の突き当たり、扉に嵌まった小さな曇りガラスが、丸い穴を空けヒビ割れていた。


「あんな物まで用意してるのか」

「銃!」

「対ダイバー用の麻酔銃パラライザーだ」


 彼らが救命搬入口から入ったことは、一応の成果を上げていた。

 ロビーを中心に展開した工作員は、警告球の発信を受けてようやく駆け付けようとするところだ。

 建物内では敵を個別に捌け、戦い易くなるだろう。


 問題はその後、六階まで辿り着けても、あの鎮圧武器はマズいということ。

 廊下の反対側の端には、銃座に固定された自動小銃型の麻酔銃が置かれていた。

 玲が思わず退却したのは、そこに射手が見当たらなかったからだ。遠隔操作、または完全自律型のダイバー捕獲専用の兵器だった。


 ここで時間を浪費すれば、敵に囲まれるだけ。遠回りになるのは腹立たしいが、階下で味方を招集すべきだ。

 こちらの意図を汲んで動いてくれる、自己犠牲精神に溢れた味方を。


「出来るだけ元気な奴を、ここに集めてくれ」

「医者と看護師……音楽治療室にも沢山いるわね。貴方はどうするの?」

「五階から廊下の端へ回り込む」


 銃座を設置したと言うことは、敵の最重要拠点は六階であろう。そこにKが居ると教えてくれているようなものだ。

 階段を降りた玲は、倒した工作員のポケットから、未使用の警告球を探した。

 麻莉が動きやすいようにするため、玲の仕事も暫くは陽動だ。


 彼女が階下へ去るのを見て、彼は五階廊下へと進入した。

 握り締めた警告球を奥へ放り投げ、玲も球を追って走る。


 中央棟五階に並ぶのは、ほとんどが研究室だった。

 封鎖中の今日は無人のフロアのはずが、廊下の中程にある中央エレベーターの前まで進んだ瞬間、最奥の部屋から男が二人現れる。


 手ぶらで近付く片方は、白いシャツの袖を捲り上げたノーネクタイ。

 もう一人は接触型の麻酔銃を構え、少し後ろに控えて立つ。

 分かりやすい二人組は第一工作班、新規編成潜行員、武川の子飼いに違いない。


 まるで力試しをしようかと言わんばかりに、白シャツの男は歩み寄る。

 彼の戦闘準備を見て、玲は危うく笑いかけた。

 男が潜行のために取り出したのは、シルバーチェーンの付いた懐中時計だ。


 ――こいつはオレの資料をちゃんと読んだのか?


 玲が足元に転がる警告球を軽く蹴ると、球はフワリと浮かんで前方へ飛んで行く。

 時計を耳に当てようとしていた男は、鬱陶しそうにそれを手で受け、横に投げ捨てた。

 カランと床に落ちる金属球、その一音が玲への合図となる。


 瞬時の潜行で、男は無様にも崩れ落ちる。

 それでも、玲の秒間の潜行に合わせて、ダイブし返そうとしたパートナーは腐っても第一班と言うことか。

 薄い緑の廊下と壁が、光で漂白され始めたものの、純白に染まるほどではない。


 白ボケた光景の中、音叉が鳴らされる。

 結果として無謀な相方を囮にした攻撃も、センターの危険人物リスト筆頭には敵わなかった。


「凪坂の方が、よっぽど手強かったぞ」


 玲は懐中時計を拾い、倒れた新班二人を踏み越えて、西側の端を目指す。

 こちらにはエレベーターも二機あり、東側よりも階段前が広い。


 敵を警戒して歩幅を狭めた彼の背後で、中央エレベーターの扉の開く音がした。

 正面玄関とロビーを担当していた工作員たちが、ようやく玲の居場所を特定し、順に廊下へ姿を見せる。


 時計を潜行合図に使うのを、彼は嫌っていた。秒針のスピードが遅いからだが、トロい相手なら使えないこともない。

 耳に当てた時計の歯車が、一秒毎に刻む音へ耳を澄ます。


 一秒に一人。

 エレベーターから出て来る男たちへ、針の動きに同調させて潜り、沈黙させた。

 最後の五人目を処理すると、時計をポケットへ仕舞い、また西側へと目を向ける。


 上昇中の二機の西エレベーター、その扉の上に並ぶ表示灯が点滅して到着を知らせると、二台同時にドアが開いた。

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