02. 深層

 真波駅から徒歩十五分、山手にある県立真波総合医療センターは、この地域で最先端の総合病院だ。

 脳外科の拠点病院にも指定されており、真波事件で生き残った昏睡者の大半は、ここに運び込まれた。


 その医療センターの西棟三階の一室に、榊原舞は寝かされている。

 脳波計や点滴を繋がれた少女の横顔を見つめるのは、彼女の姉、榊原麻莉まりだ。

 耳を澄ませば、遠く看護師の歩く足音も聞こえるが、こちらに近づく者はいない。ただ計器の発するモーターと電子音だけが、リズムを取っている。


「一瞬、脳波が揺れたけど、それだけね。どれだけ潜ってたの?」

「三十分くらいだな」


 三十分を“短か過ぎる”と表現する玲に、麻莉は軽く目を見開いた。

 彼女の前に立つ青年は、化け物に違いない。普通は長くて五分が関の山だ。


 彼女にとって、古い知り合いである玲は最大の切り札だった。

 麻莉が知る、いや、凡そ記録に残る中で最強の潜行能力者、瀧神玲。現在は住所不定の彼へ連絡を取るには、無料の占いサイトを経由するしかない。


 心理クイズのような選択式の占いを、登録した会員が投稿し合うサイト――そこの麻莉のページへアクセスして適切に質問に答えて行くと、伝言が読める仕組みだ。

「妹を助けたい」という彼女の書き込みを玲は見逃さず、こうして単身、姿を現した。


「こっちの経過時間はどうなんだ?」

「一分も経ってない。もう一度、舞に潜るの?」


 玲はかぶりを振った。


「連続ダイブは、対象に負担が掛かる。別の奴にしよう」


 彼は次の対象者を探すように、麻莉へ指示した。

 深夜の病室に、彼女の繰る手帳の音が響く。


 事件には不可解な謎が多い。

 神経ガスによる被害にしては、地下街、駅コンコース、ホーム、百貨店と範囲が広すぎる上に、死亡者の発生場所にもムラがある。被害の中心点が存在しないのだ。

 潜行能力者が原因としても、その疑問は解消されない。

 誰が、どこで引き起こした事態なのか、それを探るのが最初の目標だった。


「駅がいいな。分かりやすい場所で発見された被害者はいないか?」

「二階コンコースのカフェで倒れていた昏睡者がいるわね。藤田創二そうじ、大学生よ」

「それで行こう」


 麻莉は部屋の扉を開けると、廊下が無人なのを確認し、玲を手招きした。

 藤田という男の病室は、三一六号室、二つ隣にある。

 二人は慣れた身のこなしで廊下を移動し、その部屋の中へ静かに滑り込んだ。


 六人部屋の奥隅に、機器に囲まれた若い男が、舞と同じく管だらけで眠る。

 彼のベッドの傍らに立った玲は、小さな調音用の音叉を取り出した。

 深層に潜るためには、きっかけトリガーが有った方が楽だ。時計の針、メトロノーム、振り子辺りがよく使われる。

 繰り返されるリズムで同期を取って、長時間意識を集中させる者が多い中、玲には一音で充分だった。


「じゃあ、行くぞ」

「頼んだわ、瀧神くん」


 大学生の顔を覚えた彼は、ベッドの縁の金属パイプを音叉で軽く叩く。

 キーンと鳴る高音が、麻莉の耳にも届いた。


 目を閉じる玲を邪魔しないように、彼女は身じろぎもせず見守る。

 間近で玲の潜行を見ることは、麻莉に懐かしい記憶を呼び起こさせた。


「いつ以来かしら……」


 小声で呟いた彼女は、すぐに表情を引き締め、ダイバーの帰還を待った。





 十七時五十二分。

 目の前の制服姿の男子高校生にスマホを掲げさせ、玲は時刻を確認した。


 約一時間前、それはいい。

 今回は終了時刻が決まっているため、これ以上長時間潜っても意味は無いだろう。問題は場所だ。


 混み合う電車の扉近く、帰宅途中のサラリーマンや学生に囲まれ、玲は溜め息を付きそうになった。

 真波駅に向かう快速急行は、途中の駅を飛ばし、二十分後まで停まらない。


 ――このまま到着まで、大人しくしておくしかないか……


 “藤田創二”の顔を探しつつ、彼は車内を見回した。

 電車を加速させることは可能だろうが、リスクを考えると、あまり使いたくない手段だった。

 現実世界に似たこの“深層デプス”では、対象者の常識を超越した行動を取ると、その精神に過大な負荷を掛けてしまう。

 多少の無茶は仕方ないが、電車の走行を歪めるのは、多少で済むのかが怪しい。


「そこは、俺のですよね?」

「え? ああ、すみません」


 肩に手を置かれた中年男性は、慌てて玲に席を譲った。

 二人ずつ向かい合わせに設置された座席。彼が座った正面で、スマホを弄っているのが藤田だ。

 対象の近くに出現できたのは、僥倖ぎょうこうに違いない。舞の時の潜行では、現場に行くにも手間取った。


 藤田は短く髪を揃え、筋肉質なその身体は、日によく焼けている。

 ポロシャツにジーンズ。網棚を見上げた玲は、彼の物らしきテニスバッグが置いてあるのに気が付いた。


 ここは藤田の深層世界。

 ほぼ万能に近い玲と言えど、深層の主役を直接操るのは難しい。

 不審に思われないために、彼をジロジロと観察することは避けた。


 深層は現実ではなく、過去の記憶とも少し違う。

 その人物が生きた世界の写し絵、それが深層だ。そこに正確さは存在しない。

 願望や、錯誤までが色濃く反映されてしまう。そんな深層を、人は時として記憶と入れ替え、またある時は夢の材料とする。


 例えば、明白あからさまに彼に色目を使う隣席の女性。これは深層の産物だろう。

 現実の出来事にしては、ウインクまでする仕草が不自然過ぎる。玲が横から見れば滑稽な彼女も、藤田には“そうあれ”と刻まれた記録だ。


 席の回りに立つ女子高生やOLまでもが、チラチラと彼に視線を送っている。

 この学生は、少々、自意識過剰な人物らしかった。

 しなを作り出した隣の女を鬱陶しく思い、玲は彼女の手に軽く触れ、耳元で囁いた。


「前の彼、気持ち悪いですね」

「……ヤダ、ホントね」


 藤田を一睨みすると、彼女は窓の外に顔を背ける。

 自分は人の視線を集めている、そんな願望や恐れを基に再構築された深層は珍しくない。

 この現実世界との違和感を、敏感に感じ取る洞察力――ダイバーとして何度も深層に潜ってきた経験が培った玲の力。

 それこそが、潜行能力以上に重要な、彼の武器だった。




 十八時十三分、定刻通り、電車は真波駅に到着する。

 席を立った藤田を追い、玲は混み合うホームへ降りた。


『――南佐那方面は二番乗り場、樽谷方面は三番乗り場へお回りください……』


 場内アナウンスと発車ベルがけたたましく鳴る中、テニスバッグを持った藤田は中央上階段へと進んだ。

 これまでのところ、深層に不審な点は見当たらない。

 玲以外の潜行者ダイバーの痕跡は無いか。或いは、この大学生の深層に手を出した者はいたのか。

 僅かな手掛かりを求め、玲は油断無く階段を上って行く。


 事件発生時は快晴だった真波市も、朝方には雨が降っていたため、行き交う人の中には雨傘を持つ姿もちらほらと見受けられる。


 藤田は階段を上り切り、二階中央改札口を出て、そのフロアにあるオープンカフェへと向かった。

 駅の一階広場を見渡せるそのカフェの床に、彼は倒れていたらしい。

 今から三十分後も、その店にいたということは、大方誰かと待ち合わせたのだろう。


 彼が店内に入って行くのを見届けると、玲は店を通り過ぎ、見晴らしのいい二階広場へ移動した。

 ここからなら、カフェも駅前も、視界に収められる。


 広場ではジャグラーがボールを巧みに操り、通行人の足を止めさせていた。

 楽しそうにパフォーマンスを見物するOL風の二人組。その片方の肩に手を置き、玲は反対の手を差し出す。


「その傘、オレのです」

「あっ、はい……どうぞ」


 彼女から、透明ビニールの安い傘を受け取る。

 玲の希望に適う傘は、最近は少ない。この傘なら大丈夫だ。


 広場に設置されたポールの上にある時計は、六時二十五分を示す。

 あと二十一分。残された時間で、彼は駅前を一回りすることにした。


 真波駅中央口は二層構造で、地上階はバスターミナルに続く。

 駅から放射状に三本の道路が伸び、東に向かうと現実の玲がいる医療センターだ。


 二階にも改札は設けられ、先ほどのカフェから駅前の歩道橋へと接続している。

 どちらの階にも東王百貨店の入り口があり、カフェにも近い。


 改札を出て、カフェとは逆方向に進むと、高層ホテルの入り口に辿り着く。

 駅裏にも三つのホテルが立ち並び、これらのビルで真波駅は囲まれていた。

 二階広場から一階に降り、改札の前を通って、ホテル入り口へ。また二階に上がり、玲はカフェの入り口にまで戻って来る。

 この一連の巡回で、もう刻限まで五分を切った。


 ――今回も空振りか……。


 彼は店の中に入り、藤田の後ろのテーブルの客を追い払うと、そこに腰を下ろした。

 学生の背中越しに、同年代の女性の顔が見える。彼女が男の待ち人だろう。


 談笑する二人を眺めながら、玲は既に次の潜行先を考える。

 被害が多かったのは、駅前広場と百貨店の店内で、ホームや地下街の犠牲者は少ない。

 確かめるべきは、百貨店の各フロアか。


 十八時四十五分。

 玲は立ち上がって、藤田のテーブルを、そして駅前の雑踏を見下ろした。

 惨劇の影など、どこにも見えない。

 改めて視線を藤田の背中に戻し、彼はゆっくりとそちらへ歩み寄った。


「藤田さん」


 いきなりの呼び掛けに、学生は腰を浮かせて振り返る。


「あ……えっ、誰?」


 深層からの帰還手段は、その構築者を排除すること。

 要は、殺害することだった。主役を失った深層世界は、異物を弾き出して一旦終了する。


 殺害によって、現実の対象者が傷つくことはない。普通に暮らしている人間にとって、深層は夢や映画と変わりはないのだ。

 帰還をせず、この世界に留まればどうなるか。そんな不手際は、考えるだけ無駄だ。


 ビニール傘の鈍く銀色に光る先端を、藤田の喉元に向けて玲は勢いよく突き出した。

 傘は石突きが金属製で、刺し殺すには都合がよい。


 対面に座った女子大生が口を手で押さえ、声にならない悲鳴を上げる。

 過呼吸を起こしたような異常な音に、カフェ中の客がこちらに振り向くが、もう構わない。

 この世界は、これで終わった。


 藤田の喉から、蛇口を捻ったように大量の血が噴き出す。

 その傷口を両手で押さえ、膝を突いた学生を、玲は容赦無く前へ蹴り倒した。

 返り血が彼の服と傘を染め、誰が引き起こした事態かは一目瞭然だ。


 ――胸糞の悪さは、相変わらずだな。


 彼がこの帰還方法を好きになることは無いだろう。

 一拍の静寂の後、指を差すサラリーマン、取り乱して電話をする店員、悲鳴を上げ始める女性客。

 スイッチを入れ直したように、皆が一斉に動き出した。

 眼下の改札前の広場でも、通勤客が動きを止めて顔を上げる。


 ――地階の全員が? この雑踏で、そこまで目を引くか?


 二階を見上げて立ち止まる人々に、玲は違和感を覚えた。

 駅前の全員がこちらを見る、そんなことが有り得るだろうか。

 カフェの人々まで静止しているのに気づいた時、彼はこの異常さを確信した。


 ここだ。

 この瞬間から、大規模な介入が始まっている。


 十八時四十六分。

 事件の開始直前に帰還しようとした玲の思惑は、失敗に終わる。

 深層を歪める衝撃の後、前半身を血塗れにした藤田創二が再び立ち上がり、艶を失った黒目で彼を見た。

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