血海に潜る
高羽慧
1 血海
01. 血海
地方都市としては膨大な人口を抱える
この政令指定都市の表玄関が、JR真波駅とその南北に広がる巨大商業区だ。
もう四月になろうというこの季節、コート無しで外出する者も多い。
周囲を警戒する鋭い眼差し以外には、彼に目立つ点は無い。平均身長を少し上回る背丈くらいが、数少ない彼の特徴だ。
既に駅は通りの先に見えていても、到着までにはまだ十分は掛かるだろう。
現在時刻を確認するために、玲は時計を探した。
コンビニの前で缶ジュースを片手にスマホを弄る若い男を見つけると、足早に彼は近付いて行く。
首に銀のネックレスを提げたその男は、接近する玲を明らさまに警戒し、威嚇するように睨んだ。
平然と真正面まで寄ると、彼は男の肩を強く掴む。
「なんだお前――」
「時計を見ろ。今は何時だ?」
「……六時二十二分」
彼の期待に反して、思ったより時間が無い。乱暴に男から手を放すと、玲は歩くスピードを上げる。
駅までの道にある交差点は、後二回。一つ目はタイミングが合い、人混みと一緒に素早く渡ったが、二つ目で赤信号につかまった。
やや強引に信号待ちの人垣を押し退け、最前列に出ると、彼はその場にしゃがむ。
その姿勢で右手をアスファルトに押し付け、信号機を見上げた。
「君、大丈夫か? 気分が悪いのか?」
グレースーツのサラリーマンが、彼の肩に後ろから手を置く。
玲は振り返りもせず、はっきりと宣言した。
「信号は青だ」
「……そうだ。青だ」
急変した信号表示に、赤いセダンが慌ててブレーキを踏み、玉突き事故を引き起こす。
激しい衝突音と悲鳴の中、玲はまた我関せずと先を急いだ。
そこからバスターミナルを横目に進めば、真波駅は目と鼻の先。しかし、彼の目的地は駅そのものではなく、隣接する商業ビルだ。
駅に直結する
金曜の夜ということで、店内にもそれなりに人が入っている。
化粧品のブースの横を通り、エスカレーターの近くに来た彼は、進路を塞ぐ買い物客の群れに舌打ちした。
「なんの騒ぎだ……」
蛇行する行列は、某タレントが身に付けていたという直輸入のスカーフを求める人々だった。
客は厚い壁を作っており、エスカレーターには大きく迂回しないと辿り着けない。
玲は直角に曲がり、エレベーターへと方向を転換する。
二機のエレベーター前に、待ち人が七人ほど。どちらも上階で止まっており、そのままだと結構な時間を待たされる。
信号は簡単だった、エレベーターも行けるだろうと、玲は扉横の壁に右手を当てて暫し集中した。
不審な顔を向ける家族連れは、無視して構わない。
今、必要なのは、上に運んでくれる金属製の箱だけだ。
「エレベーターは、一階に止まっている」
彼の言葉を証明するように、チンとベルが鳴り、扉が左右に開かれた。
狐につままれた顔をする家族をすり抜け、先に乗った彼は、一応待ち人たちに声を掛ける。
「乗らないんですか?」
「あっ……いや、乗ります」
「このエレベーターは、八階直通です」
「ええ? ああ、そうだね……」
箱が上昇する間、店内の案内がスピーカーから流れた。
『ただ今、八階
そして併設して開かれているのが、「現代ガラス作家展」、こちらは入場料の要らない展示即売を行っている。
途中階に停止しないエレベーターは、あっという間に彼を催事階へと導いた。
色とりどりのガラス工芸が、照明に乱反射して玲を出迎える。エレベーター前が現代職人たちのブース、直進して最奥がアールヌーボー展。
『展覧会場の入場は午後七時三十分まで、各階売り場は午後八時に閉場いたします。なお、九階食堂街は午後九時まで営業して――』
営業時間のアナウンスを聞き流しつつ、彼は目的の人物を探す。
――彼女はどこだ?
キョロキョロと見回しながら、ゆっくりと通路を進む彼へ、若い女性が声を掛けた。
「お客様、何かお探しですか?」
制服の胸のプレートには、“中島”とある。
白いブラウスに黒いスカートという出で立ちは、彼女がここの正社員であることを表していた。
「アンタが中島さんか。今回はいい」
「え?」
「いや……今は何時だ?」
質問する前に、彼は中島の右手を握った。
それを振りほどきもせず、彼女は反対の手首を返して腕時計を見る。
「六時四十一分です」
あと五分。
「ここでじっとしていろ」
「はい」
切り子に吹きガラス。意匠を凝らしたガラス工芸のブースの前に、女子高校生の制服は見当たらない。
「となると、展覧会場か……」
玲は入場口ではなく、エスカレーター近くの退場口へと向かう。
客のたかるグッズ売り場の奥に、係員の女性が立ち、会場内への逆流を防いでいた。
彼女へ一直線に近寄り、今までと同様、肩を掴んで希望を告げる。
「中に入る」
「……はい、どうぞ」
大きなパネルで区切られた会場は、予想より広い。
スポットライト以外の照明は控え目で、暗い中に古い欧州の工芸品が輝く。
時代を逆順に巡る経路で、彼は展覧会場の客を確かめつつ歩いた。
ちょうど会場の中央、キノコ型のランプが展示されるケースの前に、女子高生たちがへばり付いている。
ショートカットの背の低い子と、髪の長い
ロングヘアの子は色白で、目が大きく、注意して見れば確かに似ていた。彼をここに来させた、あの女に。
「
「そうですが……どなたですか?」
驚いて振り返った少女の顔には、警戒心がありありと見て取れる。
「いや、確認だけだよ。今回は失敗だった。もう一分を切ってる」
「一体何を……!?」
彼女の問いを振り払うように、玲は入り口の方へ歩み去った。実際には、角を曲がった所で身を隠し、残り時間を見守る算段だ。
彼女は会場の外で発見されたはず。なぜ、ここにいるのか。
差し迫ったこの状況で、その答えを待つ必要は無い。
そろそろ一分が経過した頃と見計らい、玲は再び舞へと近付いた。
「何回やっても、不愉快だな……」
「!」
背後から聞こえた声に、彼女は目を見開いて振り向く。この時、顔に映されたのは、はっきりとした恐怖だった。
彼が手を伸ばした瞬間、舞とその友人が悲鳴を上げる。
「あああああっああっあ!」
「なっ!」
悲鳴? 違う、奇声だ。
展覧会場のあちこちから奇怪な声の波が巻き起こり、空間全体がグニャリと歪む感覚は彼を怯ませた。
この隙に玲の手から身を引いた舞が、全力で退場口へと走り出す。
彼女だけではなく、皆が好き勝手に動き始めていた。
年配の男性が中央ケースに激突して、強化ガラスがランプごと床に滑り落ちる。
二つに割れたキノコの上に、主婦らしき女がダイブして、ガラスの破片を粉々に飛び散らせた。
破壊の調べが次々と共鳴し、鼓膜に突き刺さる。
床に倒れ伏せた舞の友人の体を跳び越え、玲は目的の女子高生を追いかけた。
展覧会場の外は、中を上回る惨状だ。
買い物カゴや自身の体で、展示品を粉砕する客たち。赤い液体を垂らしながら、ゾンビのように徘徊する店員。
彼らの血飛沫を浴びつつ、舞はフロア中央へ突き進む。
飾られたガラスの人形や花瓶が、少女の振り回す腕に当たって次々と倒れて行った。
即売会場の真ん中に鎮座するのは、職人がこのために制作したと言う巨大なガラスのベルだ。
キノコのランプとは違い、こちらは剥き出しで台に置かれている。
青を基調に、幾層にも重ね作られた豪奢な工芸ベル。その手間暇の掛かった芸術品に、舞は勢いをつけて体当たりした。
四方を固定していたテグスが弾け飛び、安定を失ったベルは派手な音を立てて床に落下する。
台座に
フロアに広がるガラス片の絨毯の上でも一際目立つ、大きなベルの破片を拾い上げ、玲はテキパキと舞の元へ歩み寄った。
「そんなになっても、意識はあるのか。
「うぅ……うおぉぉっ……」
青く厚手のガラス片は、百貨店の強いハロゲン球の光を受けて、怪しく
断面はするどく、手にした彼の手すら傷付けてポタポタと血を滴らせた。
誰かが会場中央の吊具のスイッチを押したらしく、豪奢な光を放っていたシャンデリアを固定するワイヤーが緩み、急速に落下した。
大きな工芸照明は玲を
何者かの邪魔が入らない内に、玲は舞の背中に回り込んだ。
明後日を向く舞の頭髪を左手で引き下げ、天井を見上げさせると、彼は青いガラスを彼女の喉元に当てる。
そのまま静かに、横に右手を引く。
ざっくりと喉に口が開き、噴水状の激しい出血が周囲を赤く染めた。
「ごぁ……ごっ」
後ろ向けに異様な角度で倒れる舞の頭。
やがて彼女の体から力が抜け、ゴブゴブと血の詰まる音も長くは続かない。
「さあ、帰ろう」
足元の高校生が息絶えるのを待つ間、玲は狂乱の八階を見渡した。
顔に付いた細かな疵から、汗のように血が顎へ伝う。
この階で生き残る者は、ほとんど存在せず、辛うじて二名が昏睡状態で病院に搬送されたと言う。
一人は危篤状態の続く東王百貨店、催事担当店員、
もう一人は南真波高校二年、榊原舞。
血まみれの
彼はゆっくりと目を閉じ、周囲の騒乱に耳を澄ました。
けたたましい奇声は、数秒後に静寂へと変わる。
再び目を開けた彼の前には、舞にどこか似たツーピースのスーツの女性が立っていた。
「お帰りなさい。何か分かった?」
「時間が短か過ぎた。状況確認しただけだよ」
真波事件。
真波駅前を襲った日本史上最悪のテロ事件では、計五千人以上が犠牲になった。
現場は酸鼻を極め、未だに復旧作業が続けられている。
爆発も倒壊もなく、只々死体が転がる異様な光景は、人々の心胆を寒からしめた。
――テロ事件ねえ。
間違ってはいない。無差別テロには違いないだろう。
マスコミは、新型神経ガスによる被害だと報道した。
その見解は、しかし、医師たちだけでなく玲にも疑わしいと思える。
――
「事故じゃない、敵も
「でしょうね」
――どこに隠れている?
玲の三日間に及ぶ激闘が、ここに開始されたのだった。
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