14. 追跡

 医療センター近くの路上に、麻莉の車が停めてある。

 紺色の小さな軽自動車は、移動以外の目的で使われることはなく、メモ書き程度の物すら中に見当たらない。


 麻莉はシートベルトのフックを止めて、運転席に体を固定した。

 助手席に座った玲は、隣で注射器を用意し始めた彼女を横目で見つつ、わざとらしく溜め息をつく。


「それも劇薬なんだろ?」

「サロリウムβ、昏睡実習のアレよ」

「ああ……」


 彼女は無菌パッケージを開け、注射器を取り出して針先をアンプルに刺す。

 注射器のシリンダーに吸い込まれた琥珀色の薬は、彼も知っている薬剤だった。センターでの実習で、潜行対象者を用意する際に使う麻痺薬である。


 深層への影響が少なく、力の弱いダイバーはこれを援助薬としても利用していた。要は、対象者を薬で眠らせてから、楽に潜行するわけだ。

 今、麻莉が薬を打とうとしているのは、彼女自身だった。


「病院関係者じゃダメなのか?」

「もう説明したでしょ。訓練を受けたダイバーじゃないと、耐えられないわ」

「訓練って言ってもなあ……」


 確かに、彼らは対ダイバー戦に備えて、自分の深層を維持する訓練も受けた。曳航や刷り込みに対抗するためには必須の技術だ。

 だからと言って、人間の意識外にある深層は、その技術や根性だけでどうにかなるものではない。


「無理だと思ったら、すぐ止めるからな」

「それでいい。期待してる」


 彼女の左腕の静脈に、薬が静かに押し込まれると、即座にその身体から力が抜ける。

 玲は注射器と手を支え、彼女を傷付けないように針を抜いてやった。

 この彼女に潜行すれば、行き先は深夜の医療センターだ。

 玲は音叉を握り、眠る麻莉を見つめる。


「いつの間に、オレより無茶になった……」


 キンと響く高音。

 パートナーへのダイブは、センターでの訓練以来、彼には二度目の経験だった。


 わざわざ麻莉が自分を対象にさせた理由、それは深層の強度の問題だ。

 彼女が言うように、潜行能力者ダイバーは刷り込みや深層改変への抵抗力を養っている。

 一般人なら深層を壊してしまうような改変を受けても、麻莉なら耐え得る可能性が高い。


「だからって、限度はあるけどな。あいつのお手並み拝見か」


 深夜の街路に、玲の足音だけがコツコツと速いリズムを刻む。

 出現場所は、病院まで三分ほどの路上。

 並木の続く歩道を抜け、麻莉の車の横を過ぎると、病院の救急患者用の出入口に着く。

 そこも素通りして、玲は中央入り口から中へ侵入した。


 守衛の姿は無く、鍵も開いている。この深層の麻莉は、既に病院内にいる時刻のようだ。

 表玄関から堂々と中央棟に入り、ロビーで時刻を確認した。

 二時五十二分。現実世界では、ちょうど舞に潜行していた頃だろう。


 彼は中央棟の裏、保安室の近くに位置する回線収容室へと向かう。

 この深層には、強度に加えて、もう一つ利点が存在する。あの厄介な敵の干渉が無いということだ。

 観察だけで済むなら、これほど楽な任務はないのだが。


 収容室への扉は、病院の外に設置されており、ナンバー式の電子錠でロックされていた。

 他の施設とは独立した機構のようで、麻莉がジャックした保安室からの解除工作も及んでいない。

 扉のステンレスのレバーに手を掛け、玲が解除を命じると、ロックに緑のランプが点灯する。


「まず一つめ」


 深層の改変、これくらいなら、表面に爪を立てる程度のこと。

 レバーを回し、扉を開けた途端、冷気が中から吹き出して来た。空調が強く効いているらしく、室内は真冬の寒さを思わせる。


 新規に敷かれた回線は、全てここに集約していると、麻莉は説明した。

 大小様々なケーブルがいくつかの束にまとめられ、部屋中に置かれたスチール製のラックの上を這っている。

 やたらとインジケータの点いた箱型の機器に混じり、まだ馴染みのあるモニター付きのコンピューターも見受けられた。

 病院と外部との接続地点、或いはその監視所といったところだろう。

 残念ながら、機器や配線の意味を考察するだけの知識を玲は持ち合わせていない。彼に出来るのは、この深層で二つめの改変だ。


「信号を視覚化」


 部屋を埋め尽くすケーブルに、光が灯った。

 ケーブルの中を光点が移動しているのだろうが、動きが早過ぎるため、激しく明滅を繰り返す縄に見える。

 こんな改変は、通常深層では魔法に近い。対象者に与える負担が大きいことを理解しつつ、玲は輝度を激化させた。


「もっとだ。もっと光れ」


 収容室は、目を開けていられなくなる程の光に満たされた。

 ケーブルは地下を通って、医療センターの外へと接続している。

 部屋を出て戸を閉めると、一瞬室外に溢れ出した真昼の明るさは、また暗闇に戻った。

 扉の下の地面に手を付き、玲がさらに命じる。


「透過」


 中央棟裏を敷き詰めていたセラミックのタイルが、半透明に質感を変化させ、土中の光るラインが薄く透けて浮き上がった。


「……大したもんだ。地平線が少し歪んだくらいか」


 深層へのダメージは、玲の予想より少なく、麻莉の精神力に感心させられた。

 これなら追跡できる。


「さて、次が難物だな……」


 この調査で最大の難関はクリアした彼だが、表情はまだ険しい。

 玲は口を真一文字に強く結び、西棟の非常階段へと向かったのだった。




 深層における全ての事物は偽物、そう玲は考える。

 精巧に作られたイミテーションであって、それ以上の物ではない。


 西棟の三一六号室には、その不愉快な偽物が二つ立っていた。

 こちらを向いて警戒心をあらわにする麻莉、そして藤田のベッドの傍らに立ち、目を閉じた自分。

 彼女は刷り込みに備えてか、右手を彼に向けて、本物・・の玲の出方を窺う。


「どうすれば信じる? ここは麻莉の深層だ」

「…………」


 口を開きかけた彼女は、また閉じて固まった。

 深層を脱出するには、彼女の協力が必要だ。普通なら拒絶する、非常識な協力が。

 主役に刷り込みを試すか? しかし、さすがの麻莉も主役の改変に耐えられるとは――。


「……この潜行が終わって、やって来たのね」

「そうだ。藤田の後にも何人か潜った」

「行きましょう、看護師が来る」


 彼らは潜行中の玲の虚像を残して、部屋を出る。

 案外に物分かりのいい偽麻莉に、玲は確かめずにはいられなかった。


「オレが本物だと信じたのか?」

「……私が考えた計画だから。こうなって当然だわ、ふふ」

「何が可笑しい?」


 非常階段を下りたところで、彼女は彼に振り向いて微笑んだ。


「その言い方よ。“偽物と喋るのは不愉快だ”、最初に私に潜行した後も、ずっとそう言ってたじゃない」


 本物そっくりに笑いかける麻莉は、本当に腹立たしい。

 苦々しく見返す玲に対し、真面目な表情に戻った彼女が尋ねた。


「で、何をするの?」

「外に繋がる回線を追う、運転してくれ。説明は……車でしよう」

「了解」


 麻莉の車まで、二人は無言で歩く。

 助手席に乗り込むと、玲は病院の裏手に回るように彼女へ指示した。


「地面に光るラインがあるのが見えるか?」

「ん……ああ、あれね」

「昏睡患者からの信号が、どこかに送られてるはずだ。光らせて行くから、線を追え」


 最初から終着まで光らせると、深層への負担が増えると考え、彼は自動車の進行に合わせて“信号の視覚化”と“地面の透過”を行うことにした。

 網状に広がる回線も、病院からの太い流れに注目すれば、行き先を辿ることは出来そうだ。


 ところが病院から出発して数分も経たない内に、この無理な改変の影響が現れる。

 街灯に照らされる暗い建物のシルエットが、陽炎かげろうのように揺れ出した。


「限界か……?」

「まだ大丈夫、スピードを上げるわ。もっと先まで光らせて」


 光線は歩道の直下を走っている。おそらく電話局の回線か、電気ケーブルといったところだろう。

 途中で無数に枝分かれするため、病院からの流れを追い続ける玲は光から視線を外せなかった。


 夜の街の底に浮かぶ光の細く淡いうねりは、強弱だけでなく、たまに赤や青に色も変える。

 有機的な電子光の揺らぎは、さながら深海に棲む発光生物を想像させた。


 麻莉はそのラインに沿った運転へ、玲は連続する改変作業へ集中する。

 行き交う他の車は少ないとは言え、皆無ではない。

 赤信号を無視するわけにもいかず、交差点で止まった麻莉は、時間が勿体ないと言い出した。


「青にしてよ。突っ切りましょう」

「改変量は抑えるべきだ」

「信号くらいなら、さして影響なんか無いわ」


 確かに透過に比べれば、微々たるダメージではある。

 言われた通り、玲が信号を強制変更すると、彼女は勢いよくアクセルを踏んだ。


「分かってるんだろ、改変だけが問題じゃないんだぞ」

「言われなくても……さっきから眩暈めまいが起きそうよ」

「おいおい」


 真波医療センターを離れるほど、彼らのリスクは増大する。

 この麻莉は深層の主役であり、病院から連れ出すことは、主役の行動に手を加えるということだ。

 だが、彼女を同伴させなければ、この世界から離脱することが難しくなる。

 ここに厄介なジレンマが存在した。


「助手席の前のケース……何て言ったかしら」

「グローブボックス?」

「そう、それを開けて。中にペンが入ってる」


 彼はボックスを開き、ペンケースを見つけると、ボールペンを取り出した。

 安いプラスチックの黒ボールペンを、手渡された麻莉は胸の内ポケットに仕舞う。


「山手に向かってるわね。こっちは確か……」

「何かあるのか?」


 真波市は麻莉の現住所であり、彼よりは土地勘もある。

 光が導く目的地に、彼女はそろそろ見当を付けられそうだった。


「もうすぐ看板が見えると思う」


 街の郊外、山道に逸れた登り口に、彼女の言葉を証明する標識を見つける。

 ヘッドライトに照射された無愛想で黒い明朝体の文字。


 “柴浜先端通信開発機構”


 光るラインは、その施設内、閉ざされたフェンスの奥へ続いていた。

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