第21話 ライバルに負けたくない

 図書館を出て鶴川の駅へ。そこから折れて少し進んだところに柿の木と茅葺の屋根が見える。ユーハさんが嬉しそうに指をさした。


「何度か行った時のままね。ここ、両親が好きだったの」


 閉じていた門の横へ、赤いマジックで大きくネコとショウさんへの伝言を書いた。大通りからはずれるけれど、二人にはここも目印にすると伝えてある。


「誰かいませんか?」


 ユーハさんが門の上にできた隙間へ目を向けながらノックする。すぐに中からハイと返事が聞こえた。なんか聞き覚えのある声だった。


「神楽坂優葉といいます。中野島から来たんですけど、浅井先生はいますか?」


 かんぬきが抜ける音がした。引き戸の向こうにいたのはチノパンにポロシャツ、そしてベルトに木刀を差していた、僕と同じくらいの男子だ。


「……あれ、シキ?」

「邦彦?」


 大きく目を開いて、彼が僕の手を取った。道明志紀どうみょうしき。同じ中学校の剣道部員だ。僕が部活をやめようと思った日に部室にいたやつだ。剣道部のエースで、そして……ユミをかわいいって言ったことがある奴だった。


 ユーハさんは僕たちのやりとりに驚いた顔をしたけれど、事情を説明してすぐに納得してもらった。敷地は木々にかこまれているだけで、周囲から入ろうと思えば入れる作りだ。木を柱にして荷造り用のスズランテープで封鎖してあった。資料館に使ってたみたいな建物に案内された。


「ここまで歩いてきたのか?」

「そっちも?」


「俺は自転車。日曜日に溝の口の友達のところにいたんだけど、そこの親が帰ってこなくて。帰りに知り合いの親から電話が来て」


 僕がうなずいたところで、ユーハさんが横から聞いてきた。


「ここに、浅井っていうフェンシングの先生がいると思うんだけれど」

「浅井先生……に、習ってたんですか?」


「私にフェンシングを教えてくれた先生なのよ」

「あー……えっと、さっきの知り合いの親って浅井先生のことなんです。亡くなりました。昨日。ロメロで」


 シキが目を逸らしながら言った。


「亡くなった?」

「はい。手錠で手足を椅子に縛りつけて、みんなで首を絞めました」


 びくっとユーハさんが足を止めた。あわてて二人で彼女を見たけれど、すぐにユーハさんはもう一度歩き始めた。握った手を震わせながら。休めるところあるのと僕が聞くと、シキは気まずそうに首を縦に振った。


 *


 夕食はストックしてある缶詰をめいめいに食べた。ここは電気がもう通らなくなっている。お腹は空いていたけれど食べ過ぎないようによくかんで、歯を磨いて和室に入った。座布団の上に座って足をマッサージしたところで、久しぶりにユーハさんが口を開いた。


「男女相部屋ね」


 僕の隣にユーハさんが脚を伸ばして座る。ハーパンとTシャツになって、ストレッチをしながら言った。落ち込んでいないように見せていたけれど、その横顔は涙を殺していた。どんなに強い人でも死ぬ。それは世界に白く穴があいていって、少しずつ大きくなっていくみたいな感覚だった。


「先生のこと、残念でしたね」

「そうね。予想していたけれど……ごめんなさい。邦彦君に何も関係ないことだけど、結構ショックね。でも私は残るわ。ここにいる人と耐えて、チャンスをみつけて駒澤へ行くわ」


 ユーハさんはそれ以上あまり話さずに、本棚にあった理科年表を読んでいた。アンテナは立っていたけれど、ラインにはユミからはなにもない。ついに電池か、電波が切れた。じっとそれを見つめたけれど、何度か立ち上げ直してから、ついに電源を切った。落ち込んでいられない。もうすぐだ。メッセージよりも本人に会うことだと、心の中で繰り返した。


「明後日、日食だって。皆既じゃないけど、大きく欠けるみたい」


 僕がスマホをいつまでもいじっているのを見て、とってつけたような声でユーハさんが言った。気を紛らわせようとしてるんだろうか。


「なんか聞きました。そうらしいですね」


 スマホを落としながら相槌を打った。日が落ちると寝るしかない。ユーハさんも本を置いて、ごろりと畳の上に寝転がった。


「……ユーハさん、なんでフェンシングを選んだんですか?」


 リュックサックの紐を調節しながら、ちらっとユーハさんの顔を見た。


「理由……? なにかしら。中学まで何もやってなくて、その時に格好よく見えてかな」

「強かったんですよね?」


「最初は下手だったわ。フラーズ・ダ・ルムがダメだった。『剣で語り合う』って意味なんだけど、微妙な打ち合いのやり取りを制しながら有利に運ぶことよ。それができなくて。でも高校になって浅井先生に会ってから、フラーズ勝ちを捨てろって言われて。アタックサンプルとリポストサンプル……単純な攻撃と反撃だけ覚えて、徹底して自主練に時間を割いて、それで神奈川の個人で優勝できたの。フェンシング的には邪道なんだけどね。ただ正直、今は役に立ってるわ。なにしろ感染者相手ならフラーズ負けなんてあるわけないしね」


 フェンシングにはフェンシングで、いろんな技術があるんだろう。武術の中に広がる世界は本当に様々で、それは僕にとってはいつも大きな驚きだった。


「じゃあ、死にかけを相手にするのに有効な練習は……」

「ごめんなさい。もう寝たいわ。明日からまたやることはいっぱい出てくるし」


「あ、すいません。そうですね。でも眠れますか」

「眠らなければダメよ」


 ユーハさんが目を閉じて、腕を頭の上に組む。


「明日も起きられるように」


 いろいろとフェンシングのことで聞きたかったけれど、体力を回復するのが大事だと思って素直に僕も寝ることにした。スマホの電源を入れてみたけれど、やっぱり連絡は入っていなかった。そもそもアンテナが立っていない。いよいよネットが死に始めた。


 前には進んでいる。それなのに近づけば近づくほど、不安は海のように広がっていく。恐怖が薄い紙で包むように増えていく。今日が過ぎて、明日が積み重なっていく。


 *


 朝。隣で白衣の女性がユーハさんと話をしていた。ふわっとしたウェーブの髪。顔は少し汚れていたけれど、優しそうな口元がそれを感じさせなかった。ユーハさんと何かを真剣に話し合っている。そばでシキも話を聞いていた。


「お医者さんですか?」


「浅井まどかさん。浅井先生の奥さんよ。外科医さんですって。ロメロから助かった人よ」


 ユーハさんが言った。


「助かった?」


 驚いて首を突き出した。助かることがあるんだろうか? だったら僕の家族も死ななくて済んだ? そう聞く前に、彼女がすっと手を出した。その左手には親指しかなかった。


「指だったのよ。噛まれた直後に麻酔をして縛って切って、全力で手当てしたらなんとかなったわ。気を失うかと思ったわよ」

「そうなんですか……良かったです……けど、治ったのとは違いますよね」


「そうね。ワクチンはないのよ」

「ワクチンって、どうやって作るんですか?」


 今度はユーハさんがマドカさんへ聞いた。そのノートには聞き取ったらしいメモがびっしりと書いてある。観察して理解して身に着ける。ユーハさんの勉強への姿勢はすごい。僕も見習ってシャーペンを取りだした。


「ワクチンはウィルスから作るのよ。動物をわざと感染させて。でもロメロウィルスは変化しやすいの。現存する複数のウイルスの株……実験のために用意したウィルスのまとまりね。それを観察すると、全部性質が違う。だから一つの株に効果のあるワクチンを作っても、他には効果がないの。こういう変異性が強いウィルスの代表はエイズね。でもロメロはそれより早い。研究機関が残っていても、作るのは難しいわ」


 ユーハさんはメモを取り続けている。助かる方法はない。それをお医者さんの口から聞くのはつらかった。北里大学病院に行って意味のあることはできないかって聞いたけど、それもないって言われた。


 そこでシキが口を開いた。


「邦彦、北里大学病院って、なにしに行くんだ」

「友達がいる」

「俺の知ってる奴?」


 シキが聞いてくる。言い出しにくかった。シキもユミの事を知っていて、しかも……でも、シキは部員の中じゃ一番信用できる。ごくりとつばを飲んでから、はっきり口に出した。


「ユミがいるんだ」


 シキが息を呑んで両目を開いた。


「生きてるのか?」

「生きてる。最上階のレストランで。昨日までは無事だった」


「ラインは通じなかったぞ」

「電気が通ってなくて、今は電源を切ってる」


「病院はどこなんだ」

「ここから十キロ」


「たった十キロか」

「その十キロが長い」


「俺なら行ける」


 シキが木刀の真ん中を握りしめて、ぐっと突き出した。黒い返り血が乱れた木目に染み込んでいる。


「俺と、この枇杷ビワの木刀があればいける。こいつでいくつも倒してきた」


 シキの木刀は本枇杷だ。ものすごく高価で、僕たちが練習に使う樫や黒檀より十倍近い値段だけれど、どんな木刀よりも頑丈でしなやかだ。全国の木刀を生産している宮崎県都城みやこのじょうでも、このビワの木刀が作られる事は滅多にない。これを毎日振っていたシキの腕は中学生と思えないくらい太い。


「あと一時間だけ休んだら行く。ユミを助ける」


 堂々と宣言するその顔には迷いがなかった。けれど、それをわかっていても、はっきり僕も言った。


「シキ、僕もユミが好きなんだ」

「え? お前、前にただの幼なじみって言ってなかったか?」


「いや、一度も言わなかったけれど、好きなんだ」

「へえ……」


 シキは強い。個人戦では二年の時に県大会に出ている。それでも、このことははっきり伝えておきたかった。


「……僕が行く。僕が助ける」


 シキはその僕の言葉を聞いても、こっちへ目を向けなかった。床の上に座るとザックから濡れたタオルを出して木刀をふき、上から力を込めて椿油つばきあぶらをぬった。木刀を乱暴に畳に置くと、カロリーメイトをガリガリかじってグレープフルーツジュースで流しこんだ。


「邦彦。お前じゃ無理だ。俺に任せてくれ」

「それはできない。僕が助ける」


「……邦彦に負けるかよ」


 それから先はあっという間だった。シキは立ち上がると一直線に出口へ向かった。声をかけるチャンスもなかった。慌ててリュックをひきよせた。出おくれた。いくらシキが強くても、せめて一緒にいないと。仲間がいるのは大事なんだ。


 荷物を整理している時に、ユーハさんがノートを整理して戻ってきた。


「聞いてたわ。行くのね」

「はい。ありがとうございます、今まで。きっと戻ってきます。ショウさんとネコが来たら、目印を追ってくださいって伝えてください」

「何も渡せないけど、これをユミさんに持っていって。昨日の薬局で女の子の役に立ちそうなものを選んでおいたの」


 ユーハさんが、少し大きめの茶色い袋を渡してきた。


「ありがとうございます。渡します」

「私から邦彦君に言えることなんか多くないけど、フェンシングの有名な言葉を教えておくわ。『奇跡は準備されている』っていうの。何か大きなことをやるときは、そこまでに積み上げた準備があるかどうかで決まる。私のフェンシングもそうだった。邦彦君にも、きっと役に立つと思うわ」


 紙袋を受け取ってザックに入れる。ユミに渡すもの。女の子向けのものを考えてくれたんだろう。受け取って、深く頭を下げた。


「わかりました。奇跡を起こせるように、しっかり腕を磨きます」

「次に会った時は、彼女紹介してね」


 ユーハさんと固く握手をして、外へ出た。薄暗い雲が空を覆い始めている。でも、何がどうなろうが、誰が何をしようが、僕のやることは決まっていた。

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