発端 ー 彼女と会えなくなる

第1話 幼なじみとケンカする

「あいつが先鋒とか意味わかんねえ」


 ドアの向こうから露骨な悪口。


「まだ言ってるの? もう邦彦って決まったんでしょ」


 ドアの向こうから、もう少し普通の声。どっちも次の団体戦で僕と組むメンバーだ。


「絶対二年いれた方が勝てるって。病気で出られないヤツ多いからって謎。謎すぎ」

「まあまあ。邦彦もいいとこあるじゃない」


「そういう話してねえし。全中いけないだろって言ってんだけど意味わかってます? あいつの返し技とかヤバいですよあれ。わざと遅くしてるレベル。段とか返したほうがいい」


 つかんだドアノブを離してキリッと歯を鳴らす。でも十秒も耐えると、ぶん殴ってやりたいって気持ちはなんとか抑え込めた。


 まあ、実際その通りだしね。ドアの外に僕がいるって知らなければ、そのくらい言うよね。とっくに想像ついてたよ。そう心の中でつぶやいて振り返った。部室の奥からまだ届いてくる声を心の中で噛み砕いて、足音を立てないように廊下を戻った。


 さぼろう。


 いや、やめよう。


 そりゃ、地区を勝ちたいなら二年を出した方がいいよ。そのとおりだよ。僕なんてそもそも剣道そんなに好きじゃないし。小学生のころからなんとなくやってきただけだし。明日、退部届だそう。それでいいんだろ。


 体育館を出て、渡り廊下へ向かう。頭の中にイライラが走ってたけど、腹の奥にムカムカがうろうろしてたけど、もういいんだ。母さんだって剣道好きじゃないし、父さんだって好きなことやればいいって言ってたし、顧問に冷たい目で見られるのも嫌だ。


 と、まとめたところで、その気分と真逆な感じの声が飛んできた。


「よっ、邦彦!」


 目の前に紺色のソックス。ふてくされた顔をあげる。健康そうな脚、灰色にチェックのスカート、白いワイシャツ、制服の横からひょろりと踊る栗色のポニーテールの順に目におさまった。最後に大きな凛々しい目。


「ユミかあ」


 聞こえないように息をついてから、すっと目をそらした。その肩に菖蒲染めの釣り竿みたいな長い袋をかついでいる。競技用のなぎなただ。


「なんだよう。気分最悪オーラ出てるじゃん」


 パァンと派手に肩を叩いてくる。痛いよ。その通りなんだからしょうがないだろ。言いたかったけど、しゃべる気分にもならなかった。


 こいつはユミ。新関弓子にいぜきゆみこ。僕の幼なじみ。小学校のころ、同じ剣道場に通っていたけど、事情があって最近はあまり話してなかった。


「邦彦、帰るの? 試合近いよね?」

「まあね」


 僕の顔を見て、何か言いたそうにユミが口を動かした。鮮やかな緑のリボンをちょいちょいいじっている。少し考えた顔をしてから、うん、と短く首を縦に振った。


「あたしも帰る! 実は相手してくれそうな人いないんだ。みんな病気でさ」


 なんだそれ。校舎へ続く廊下を歩く僕に、トコトコとユミもついてきて横にならぶ。僕と同じ一六七センチだっけ。子供の頃から、僕とユミの視線はおなじ高さだった気がする。


「邦彦、竹刀持って帰ってないの?」

「部室に置きっぱなしだよ」


 そっかって一言。笑顔のままなのは、気にしなくていいよって意味なんだろう。ユミは他人にきびしくない。家でも素振りしないとダメだよとか、竹刀は剣道家の魂だとか、そういうことは言わない。でも、ユミは毎朝近くの公園でなぎなたを振ってから学校にいく。全国大会にも行けるくらいがんばってるらしい。いつのまにか、僕とは大きな差がついていた。


 駐輪場に着いて自転車を出そうとしたけど、ユミは僕の隣から離れなかった。


「どしたの? 自分のは?」

「あたし自転車じゃないもん。乗せてよ、邦彦」


 握ったなぎなたをひょいと前に出した。


「なぎなたは?」

「切っ先外すの。気をつければ大丈夫」


 言うと、ユミは慣れた手つきで布の袋を開けて、先を止めた白いテープをくるくるとむいた。カバンとなぎなたの先をカゴに入れる。


だってぶつけると曲がるんじゃないの」

「あたし運転しないもん。平気」


 引き出して道路に前輪を向けると、ひょいっとユミが菖蒲染を担ぎながら荷台に横乗りして、片手でサドルをつかんだ。


「変な奴だな」

「そんなことないよー。小学生のころはよく二人乗りしてたじゃない」

「小学生のころだからだろ。しかもこいでたのユミだし」

「まあまあ」


 勢いに押されて、しょうがなく僕も足をまたがった。ユミの手が僕の腰にまわる。二人乗ると沈むな、と思いながらペダルをふんだ。


「ねー、なんか道、すいてるね」


 向かい風にまけないように、ユミが耳元で声をだした。


「病気はやってるんでしょ。今朝、カミナリが言ってたよ。死んだら許さんぞってわけわかんないこと言ってたよ」


 カミナリは僕のクラスの担任だ。体が大きくて声が低くて、そのうえ怒鳴りちらすタイプでみんな怖がっていた。僕たちの通う中学、四天王寺神泉してんのうじしんせん学園は私立の中高一貫で、都内のいろんなところから生徒が来てる。ただ、僕とユミの家は近い。ユミの話題はどこのスーパーが改装したの、どこの公園でイベントがあったの、そんな話ばっかりだった。珍しくおしゃべりだ。僕もなんか話したくなってきた。


「なあ、ユミはなんでなぎなたやってるの?」

「えっ? なんでだろ。かっこいいからかな?」


 答えを受けとってから、まあその程度だろうなって思った。ユミは武道に抵抗がない。僕のように、なんでやってたんだっけ、いつまでやるんだろう、いつやめようか、そんなことを考えながら部室へ行くタイプじゃない。


「なぎなたってさ、男子の剣道と打ち合うのあるじゃない。あれ面白そう。男女でできるスポーツって多くないし」


 ユミがちょっと考えてから続けた。


「公式戦じゃないでしょ? それ、明治時代はプロレスみたいな奴だったらしいよ。男女混合ならテニスやゴルフもあるでしょ」


「でも、異種って燃えない?」

「わかんないよ。見たことないし」


「邦彦、今度相手してよ」

「僕が? なんで?」


「ベテランじゃない。八年やっててもう有段者だし」


 ちらりとふりかえった。冗談じゃないみたいだ。一緒に練習しなくなって長いから、僕の実力をしらないんだ。おなじことを剣道部の女子がいったら、それはほとんど皮肉だった。


「僕じゃ相手にならないでしょ。ユミには剣道でも勝てないよ」


 過去色々とあった思いだしたくないシーンを、頭から追いだしながら言った。


「そんなことないよ。この先どんどん男女差ってはっきりでてくるしさ。ハンデついてる方が面白そう」

「そうかな」

「そうだよ。邦彦、本当はめっちゃ強いの知ってるもん。邦彦はさ。ルールでがちがちなのがダメなんだよ。いろんな工夫ができる武道のほうが向いてるよ。きっと」

「……そういうの、いいよ。もう」


 ユミがそれを楽しめそうなのはわかる。でも僕は弱いし、もう武道への興味も果てしなくゼロだ。いまさらそんなこと言われてもどうしろって感じだ。


 ペダルを少し強く踏み込んだ。土手の上の歩道へ上がって、あとは横道をくだればもうすぐ家だ。


 けれど今日は、その土手に変な人が歩いていた。


 ホームレスなんだろうか。見た目がひどかった。顔色がアスファルトみたいだ。女の人だけど髪の毛はバラバラ、よたよたとお酒でも飲んでるみたいに見えた。手を前にだして、何かを捕まえようとしてるみたいな姿勢で歩いている。目が見えないわけでもないみたいだ。何をやってるんだろう?


 ハンドルを切って避けようとしたのに、なぜか、その人は僕たちの自転車へわざと近づいてきた。がつんとぶつかった。


「おっと?」


 ユミが横すわりになってたのもあって、バランスがくずれる。なぎなたの柄がころがらないか、あわてて振りむいた。


「すいませーん!」


 ユミの声は届かなかったみたいだ。変な人は変な姿勢のまま遠ざかっていった。


「ごめん、ぶつかっちゃった」

「軽くね。でも悪いけど、なんか変じゃなかった? 今の人」

「僕もちょっと思った」


 言いながらもう一度ユミを見たのがまずかった。自転車の前輪が石に乗り上げた。


「あっと!」


 ブレーキ。キキっと止まる。ユミはすとんと着地したけれど、降りた場所が良くなかった。土手の少し低い場所に足をついて荷台にスカートがひっかかったせいで、思いっきり灰色のチェックがめくれあがった。


「うわっ!」


 声が裏がえった。すぐに顔をそむけたけど、白なのはわかった。飾りのないシンプルな白。おそるおそる目を戻す。視線がぶつかる。見たのは間違いなくばれた。


「ちょっと!」

「わざとじゃないよ!」

「最低!」


 ユミが顔を真っ赤にして、カゴから荷物をつかんだ。


「悪かったけどわざとじゃないって!」

「知らないよ! もういい!」

「おい!」

「知らないって!」


 自分の家へ小走りに。栗色のポニーテールがいそがしく揺れる。


 なんだよあいつ!


 土手をおりて自分のマンションにつくと、自転車を乱暴にとめた。音を立てて階段をのぼる。ただでさえ悪い気分が最悪に落ちた。剣道はしかたない。でもさっきのはユミがわるい。自転車にのりたいって言ったのもユミ、引っかかったのもユミ、謝ったのに怒ったままだったのもユミだ。あんなやつ、知るもんか。


 そう思って家についたところで、横から太い声が肩をたたいた。


「よう、今日は早いんだな」

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