第2話 変な病気がはやってる

 厚くて浅黒い手が、僕より先にドアを開けた。じいちゃんだ。がっちりした筋肉に包まれた体。ゆらゆらとゆれる逆立った髪は灰色と黒の間。目は細くて、深い皺の中で鋭く光っている。いつもこの時間は高校で剣道の指導をしてるはずだから、ちょっとびっくりした。


「どうしたの」

「邦彦こそどうしたんだ。病気か?」


「病気? なんで?」

「都立広尾、また病気で休校になったんだ。玉竜近いのに難しくなってきた」


 高校剣道には七月に玉竜旗という大きな大会がある。他人事だし剣道はもうやめる気だったけど、それでも驚いた。


「昨日もだよね」

「だけじゃねえ。指導してる学校がどこもそんななんだよ……ん、それより友達になんか言われたか? ムカツキましたって顔に書いてるな」


 無精ひげを曲げながら、落ち込むなよと背中をたたいた。うん、とつぶやいて自分の四畳半に行った。あまり話したくなかった。部活のことは父さんか母さんから言ってもらおう。


 部屋にかばんを投げこむ。こんな時間に帰ったのは久々で、やることもないしなんかスカッとしたかったから、スマホで一冊ラノベを買った。空手家が異世界に転生して大活躍するアクションものだ。スワイプを繰り返してしばらくすると、隣の部屋からはガチャガチャ金属の音が聞こえた。今日もバーベルを上げてるみたいだ。


 じいちゃんは剣道七段。若い時は自衛隊で、そのあと警備員だ。小学生の頃はじいちゃんにあこがれて剣道を始めたけど、最近は考えが変わった。じいちゃんは六〇になってから仕事をやめて武道ばかりやってる。そのことを母さんはよく言わない。じいちゃんが学校の監督でもらえるお金は、会社に勤めていたころよりずっと少ないらしい。母さんに言わせれば、じいちゃんは少し病気なんだそうだ。


 僕も今では、剣道の決まった場所を決まった武器で狙う規則に飽きていた。高等部にいったら、なんか別のものをやってみたい。ダンスとかマジックとかジャグリングとか、もっと自分のアイデアを使えるような。


 ラノベを読み終えてベッドにころがった。目を閉じると、今度はユミの顔がうかんだ。部活をやめることで頭がいっぱいだったからあんまり考えなかったけど、今日はなんで話しかけてきたんだろう。自転車に乗りたいってのには結構びっくりした。小学校のころは一緒に遠くの公園にいったりしたけど、友達にからかわれれるし、それにあの時……あの時から、ずっと話してなかったのに。


 ユミは男子に人気があるほうだと思う。でも彼氏はいないらしい。今日部室で僕をかばってたやつは、前にユミのことをかわいいって言っていた。けど、別の男子の話だと、顔とスタイルはいいけどキャラが強すぎるらしい。もっと人気のある女子は他にいて、そっちのほうがよく話題になる。


 見ちゃったな。と、反対側に転がってから思った。正直に言えば、ちょっとドキっとした。けど、やっぱり悪かったかも。友達なんだからエロい想像をしたくない。それに、はっきりしなかったけど、なんか無理してたみたいな気がする。明日、やっぱり謝ろうかな。


 *


 父さんが帰ってきたのは十一時過ぎだった。僕はもう寝てることになってるから部活の話は明日だ。父さんが遅い晩ごはんを食べはじめた。


「病気で休んでる人がやたら多くて、注意喚起のメール送ったよ。他の人の仕事も回ってきて大変だよ」

「夏風邪じゃないんでしょ?」


「ロメロウィルスじゃないかって」

「いやねえ」


 壁が薄くて、おさえても声がまるまる聞こえる。またその話かって感じだ。学校でも聞いたけど、ロメロウィルスってのが世界中で流行っているらしい。ヨーロッパとアフリカでかなりの死者が出て、どこかの国なんて無くなりそうだとか。日本でも最近死んだ人がかなりいるみたいだ。苦しくて暴れる病気らしくて、映像は気持ち悪くて見られなかった。


 病気の話が終わると、話題はまたいつもの繰り返しになった。


「お義父さん、やっぱり再就職は考えていないのかしら」

「うーん、今は学校の監督だけだろうなあ」

「用具にお金かかってしょうがないわ。着るものも同じようなのばっかり、やたら厚くて洗濯機痛めそうだし。剣道七段、居合が五段、柔道に杖道に合気道に……」


 もうこうなると父さんは笑いも怒りもせず、小さく咳ばらいをするだけだ。


「しょうがないだろ。親父だって今まで俺たちのために頑張ってきたんだ。それに剣道の七段はめったにいないんだ。六段からすごく審査が厳しくなるんだよ」

「剣道が悪いんじゃないの。あんな健康で元気な人がかせいでくれないなんて。邦彦を塾にやったりもしたいのよ。そうでなければもう刀を売ってしまうよう言ってよ」

「だからそりゃダメだよ。それはナシだって言ってるだろう」

「だってすごく高く売れるんでしょう。会津兼定あいづかねさだなんて、私だって知ってるもの。土方歳三ひじかたとしぞうでしょう。新選組の。あの握るところだってアイヌの? 珍しいものだって」

蝦夷拵えぞごしらえな。だめだめ。あれはじいちゃんが函館にいたころ武道の先生にもらった大事なものなんだ。それはだめだよ」


 深いため息をついてから、母さんがなんか熱っぽいから寝るわと言った。毎日毎日、よく飽きないな。


 じいちゃんの刀は何度か見たことがあった。居合なんかで使われるのとは違っていてつばがない。銅でできたつかにシカとクマと植物が描かれている。土方歳三が使っていたものではないけど、同じ人が作ったんだそうだ。


 寝ようと思ったとき、向かいのマンションの電気が一つもついていないのに気がついた。いつも寝る前にまぶしいから、カーテンだって厚くしてもらったのに、なんか変な事が多いな。思いながら電気を消そうとリモコンへ手をやったところで、ノックの音がした。


「邦彦、入っていいか」


 じいちゃんだ。リモコンを置いてドアノブに手を伸ばした。


「どうしたの」

「いやな」


 じいちゃんが床にどかっとあぐらをかく。


「邦彦、ニュースどのくらい聞いてる」

「ん? あんまり?」

「そうか。まあ俺も病気の事なんかよく知らねえけどな。ただ、ロメロとかいうあの病気な、死ぬだけじゃねえみてえなんだよ」


 ベッドの上に座りなおして、じいちゃんに向き合った。


「なんか頭がおかしくなって、暴れてまわるらしい。人に噛みついたりするんだってよ。邦彦、家に竹刀持ってねえだろ。明日もし学校行くなら、木刀持ってったらどうだ。部活で使うとかいってよ」

「えー、やだよ。それって、誰かにおそわれるかもって話?」 


「いやそりゃ、俺もねえとは思ってるけどな……それと、一緒に玄静館に通ってたユミちゃん、今どうしてる」

「今日一緒に帰ったよ。なんで?」


「あいつの父ちゃんもロメロで入院らしくてよ」

「そうなの?」


 うん、とじいちゃんが小さく首を縦に振った。


「助からねえかもしれねえんだ……よく知ってる人なんだけどな。まあ持っていかねえか」

「おおげさだよ木刀なんて……それに実は、実はさ……実は……剣道部、もうやめたいんだ」


 思わず勢いで言った。誰もが認める剣道一筋へ向かって。本当はもっと後にしたかったけど、つい流れで口が走ってしまった。


「あ、そうなのか……?」

「う、うん。だって、じいちゃんや父さんみたいになれないよ。中三なのに地区も勝てないもん」


「別に勝つだけが剣道じゃねえけどな。でも楽しくねえか。いい友達いねえか」

「それもあるかなあ」


「そうか。そんならつまんねえよな。辞めちまえよ」


 あっさり言われて、えっと目を丸くした。


「いいの?」

「あったりまえだろ。つまんねえこと一緒懸命にやるなよ。なんだそんな顔して。じいちゃんに言うの恥ずかしかったのか」


「うん。悪くてさ」

「辛い思いしてやるほうがずっと悪いさ。それよりバカバカしいかもしれないけど、木刀が嫌なら、この手ぬぐい持ってきな」


 じいちゃんが日本手ぬぐいを二つ、僕の手に握らせた。


「なんに使うの?」

「怖えことになったら、半分おりにして水をかけるんだ。先を縛ってもいい。そうしてたばにして振りまわせば武器になる。変なやつがいたらそれで追いはらって、とにかく家まで走ってこい。金なくてもタクシーとか使って家で払えばいいからさ。それじゃな……」


 なんだかよくわからないまま、じいちゃんは部屋に戻った。手ぬぐいには片方にソーラン節の歌詞が、もう片方には天下無双って書いてあった。洗濯はしてあるけどほつれかけだ。制服のポケットに入れてみたけど、使うとは思えなかった。


 スマホを見直した。そこで、ユミからラインが入ってるのに気がついた。交換はしてたけど、僕だけにかかってきたのは初めてだ。


(この前は家までありがと)


 怒ってないみたいだ。ちょっと嬉しくなって、すぐに返信した。


   (いや別に)


 ちょっとためらってから、もう一行。


   (自転車から降りたとき、ごめん)


 スタンプで返事がきた。笑顔のうさぎだ。次にちょっと赤くなって顔を隠してるスタンプも来た。ほっとしてベッドにはいる。きっと、明日は普通に会える。


 眠くなってきた。まぶたの裏にユミがいた。ニコニコうれしそうに笑ってなぎなたを手に、僕の正面に立っている。防具に包まれているのに、なぜか表情がはっきりわかった。下段に構えるユミのなぎなたの先が、小さく円を描いている。


「邦彦、やろうよ。三本勝負だよ」


 竹の刃が僕の足を狙ってくる。あわてて後ろに跳んでよけた。


「なぎなたにはすね打ちもあるからね!」


 構えなおそうと竹刀を握りなおした。夢の中で、ユミの後ろにはやたらたくさんの人がいた。誰なのかよくわからない。背中に噛みつこうとしているみたいだ。僕が大声をだす前に、ユミはその人たちが溶けあう黒い霧の中にきえた。

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