第25話 切り札が強い

 拾ったシキの木刀を軽く振ってみた。これまでの木刀よりもずっといい。ショウさんがやってたように先端と物打ちをナイフで鋭く削る。即席だけど、これとスコップの二刀流で行くことにした。


 駅を過ぎてからは順調で、一度も道を間違わなかった。陽炎の先へ北里大学病院が見える。ダウンロードして繰り返し見た写真と同じ、あの建物だ。病院本館は十五階。病棟は七階から十四階まであって、四つのひし形がつながっているような形だ。そのふもと、展望レストランのクルーゼというところを目指す。


 周りは木が植えてあって見通しが悪い。敷地の中がどうなっているかを調べたかった。正門には死にかけが多くて北側の大学へ回ったけれど、そっちはもっと無理だ。西の駐車場へと柵をよじ登って、薄暗い傾斜を上った。あと一歩だ。ここから見下ろせば侵入できるルートが決まる。屋上から正門を見た。いい天気だ。五階までの上に食堂があるのがわかる。あそこにユミがいる。人影は見えなかったけれど、きっと。


 そして僕は、玄関を覗き込んだ。


 数瞬。


 何も考えることができなかった。見間違いじゃないかって考えたけれど、それから、現実を徐々に理解できてきた。きゅうっと心臓が握りしめられるような気持ち悪さに襲われた。喉の奥から酸の臭いがこみあげてきて、アスファルトの上に一度吐いた。


 地面なんかまったく見えない。眼の下のあらゆる場所に黒い姿がうごめいている。理由を考えてすぐに答えは出た。養運寺の時と同じだ。病気と死と関係するもの。一つは宗教。そしてもう一つは病院。ここは、具合が悪い人が来る場所だ。


 吐いた喉の奥からうめき声が続いた。下を向いてアスファルトを殴りつけた。何度も。何度も。ゲンコツから血が出た。痛みは感じなかった。全身を痛めつけるのは無理だという言葉だ。距離なら百メートルもない。けれど、僕とその場所との間には、どうあがいても埋められない理由がある。


 普通に考えてみろ。スコップで潰せて十体。兼定で斬って二〇体。目の下には百以上いる。ノートを取り出した。知識、仲間、道具。確かにそれがあればどうにかなるかもしれない。でもどれも足りなすぎる。


 どうすればいいんだろう。どうにもできないんだろうか。そもそもこの短い旅は、単なる悪あがきだったんだろうか?


 面白くもなんともないのに、なぜか笑い声が出た。疲れ切った人は変な笑い声を出すことがある。何度か見たけれど、自分もそうなるんだと知ったのは初めてだ。それを自覚できるのも今知った。けれど、そんなことはどうでもいい。


 知りたいのは、どうして答えられない問題を解かないとならないかだ。


 どうしてここまでやってきたのに報われないかだ。


 こんな苦痛と絶望しかない中で、いったいどうすればいいのかだ。


 あとわずかで届くと思った未来は、もう訪れない。


 麦茶を取り出して、うがいをして、飲んで、そして吐いた。少し考えて、もう一度下を見て、また吐いた。あきらめるか? まさか。自殺か、逃げるか、殺されるか。いやだ。せめて一度ユミを見たい。何もしないで死にたくない。まだ方法はあるかもしれない。


 大事なものは知識。一旦下がって、なにか思いつくまで本屋とか図書館に行こうか。でも時間がない。ユミがどうなってるかわからないんだ。


 次に大事なものは仲間。助けなんて来るわけない。みんな死んだ。父さんも母さんも、あの強いじいちゃんも、せっかく会えた仲間も。ユーハさんたちだって、ここへ呼ぶわけには行かない。


 次に大事なのは道具。何を使えば倒せる。ガソリンと火? 一人じゃ無理だ。飛行機か戦車でもないと。あそこまでロープでもつなげられれば。マンガの忍者みたいにタコを上げてロープをつなげて。ばかばかしい。


 そこに、ぽんと誰かの手。


「なんだよ、今……」


 振り返ってから、叫んでスコップを振り回す。死にかけだ。運よくスコップが直撃して吹き飛ばせた。起き上がって木刀を拾う。起き上がるタイミングで首へ突き立てた。駐車場の屋上にはかなり数が上がってきている。油断していた。もう油断もなにも関係ないかもしれないけれど、せめてもう少し考える時間は欲しい。


 三体をスコップと木刀で倒したけど、あとからあとから上ってくる。いよいよここで終わりか。ただ手間をかけただけの自殺が。ここで死ぬのか。みんなと同じように。そして僕が死ねば……


 僕を待ってるユミを想像した。囲まれて噛みつかれるユミを想像した。こいつらと同じ姿になって歩くユミを……


 いやだ!


 いやだ! いやだ! いやだ! そんなこと絶対にいやだ!


 最後の力を出そうと、アスファルトをどんと踏みしめた。


「やってやる。やってやるぞ。百だって二百だって」


 殺してやる。スコップも木刀も捨てて刀のこいくちを切った。


「殺して、殺して、殺して、全部殺してやる」


 つぶやいて腹に力を込めた。


 ところが、その直後。


 目の前の姿は糸が切れたように崩れて、駐車場の上でうつぶせに痙攣し始めた。


「えっ?」


 刀を戻した。ばたばたと突っ伏した死体が増えていく。背中に墓標みたいな長い棒。その先を風になびいているのはなんだ?


「これは、イヌワシの羽根?」


 刀から手を離して、死体の先へ目を向ける。


 陽の光に、亜麻色の髪が照らされていた。


「絶対に見つからないだろうと思って、見上げた先にいた時は叫びましたわ。わたくしともあろうものが、はしたないこと」


 アスファルトに反響する凛とした声。白の武道衣、黒の袴、朱の鉢巻。そして巨大な弓。


「サラ姉……!」


 *


 死んだ人が生き返る以上の驚きだった。サラ姉さんだ。駒澤大学でじいちゃんと決裂して、もう会えないと思っていた従姉妹がそこにいた。


「なんですそのしょぼくれた顔は。しかも視察のつもりですか? こんな場所に入って囲まれて。それでは敵に勝てませんわよ」


 言いながら、堂々とした打ち起こしが押手を出してぴたりと止める。直後、まわれ右をしようとした死にかけが吹き飛んだ。


 完全な死を見とる残心に続いて、サラ姉がこちらを向いた。めったに表情を見せたことのないその目が、かすかに喜びを語っていた。何から言えばいいんだろう。黙って離れたことを謝る? それとも助けに来てくれてありがとうって?


「愚かなことをしましたわ。お二人が出てから追うように言われました。過ちを認めて借りを返せと。にしても、あの時の手品には驚きましたわよ」


 つかつかとこちらへ歩きながら、背負ったえびらから矢を無造作に構える。次の一体も一瞬で討ちとった。


「さて、ではここに責任をもって罪を償い、そして彼らに知らしめましょう」


 サラ姉の何度も擦り切れて固くなった親指の付け根が、僕の手首に食い込んだ。その痛みに正気が戻ってきた。僕が立ち上がるのを見ると手を離し、背を向けてスロープへ向かう。あわてて武器をかき集めて追った。


「わたくしの武芸は日本古来の伝統にして、今、最も価値のある人類の誇り! すべての人の希望として、この現世に蘇ったのだと!」


 文字通りの矢継ぎ早が空気を引き裂き、その数も何するものぞと、集団が葬られていった。


「行きますわよ。走って!」

「わ、わかった!」


 薄暗い駐車場の向こうへ。集まってくる死にかけは三歩どころか十歩までも近づけずに射殺された。駐車場の出口に蹄鉄の音。


磨墨するすみーっ!」


 光の中に真っ黒の巨大な馬が走りこんできた。気合いと同時にサラ姉が駆け乗り、左手を伸ばす。


「お乗りなさい! 必ずあぶみに両足を入れて!」


 サラ姉が足を入れた後ろにもう一つ、手製のロープで作った鐙に足をかけ、巨大な馬に飛び乗った。サラ姉が脚を動かしてジジジッと舌から奇妙な音を出す。いななきを止めて漆黒の馬が力強く踏み出し、すぐに信じられない力を出し始めた。速い。馬って、こんなに速いのか!


「亡者ども、遠くは音に聞け! 近くは目にも見よ! わたくしは奥州の産にて清和天皇より六二代の後胤こういん奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめい仙台藩にて十六の首を挙げし葛西次郎太の昆孫こんそんにして上町正吉の孫! 小笠原流弓馬術礼法が修善弓しゅぜんきゅうを受け継ぎ、須藤更紗が参る!」


 大声をはりあげて、迫り来る集団を馬で突きとばす。たしかじいちゃんから聞いた話だと、うちの系図は江戸時代に作られたデタラメだし、戊辰戦争で幕府軍が降伏した時に弓も刀も捨ててしまったはずだ。第一、今そんな名乗りを聞いたって理解できる相手は一人もいない。それでも姉さんの声は僕をがっしりと支えてくれていた。足元をうごめく奴らは威風に負けて明らかにひるんでいる。


 大学の敷地に入り、開いた門へ向かった。病院の周辺に比べれば数段人はまばらだったけれど、門の周辺はかなりの数がうろついている。


「サラ姉、多い!」

「お黙り!」


 サラ姉が馬を大きく蛇行させて集団を追い払う。ビリヤードみたいに散らされて、あっという間に残りは三体。鞍につけたえびらから三本まとめて引き抜くと、もう一度手の内を整えて高く弓を掲げた。


 サラ姉の流鏑馬は見たことがあった。遠目から見た時は、やたら派手な装束に身を包んでいて、儀礼的で武術という感じじゃなかった。矢が的にあたったのもよく見えなかったし、それで周りが拍手をしていたから、僕も合わせていただけだった。


 あれが、本当は、これだったんだ。


 疾走する馬の背は車の比じゃないくらい揺れてるのに、サラ姉の体は微動だにしない。横顔は静かな射場に立っているかのように、一度も表情を崩さない。目の前の巨大な弓が押し開かれ、矢束やつかいっぱいに引かれた。


陰陽インヨウ!」


 せながら鋭く低く矢声やごうをかける。目の前の死にかけが吹き飛んだ。


「陰陽陰陽! 陰陽陰陽陰陽!」


 徐々に高くなる声に続いて、二の矢は死にかけの頬を吹き飛ばして倒し、最後の矢が目玉を串刺しにした。即座にサラ姉が弓を馬の腹にひっかけた。


「腰に手を回して! わたくしが声を出したら鐙に体重をかけて立ち、尻を鞍から離しなさい! 落馬は即死と心得なさい!」


 大きくキャンパスに円を描いてまわり、門へ馬の頭を向けた。逃げようとする二体を蹄が蹴散らした。その前にうず高く重なる屍の山へ踏み込む直前。


「立って!」


 サラ姉が手綱を握りしめ、腰を浮かせた。あわてて鐙に立ち上がった。


「はあぁっ!!」


 跳んだ。地面がはるか下に見える。ずんと重い衝撃を受けて前に。


「ほーらほーらァ! ほゥほゥほーうッ!」


 声をかけるとまるで手足のように、真っ黒な馬が大きく体を傾けて国道を曲がった。


生食いけずきーっ!」


 張り上げた大声に応じてもう一頭の馬が駆けてきた。鞍に大量の水と食べ物と矢が積んである。


「このまま北のゴルフ場へ下がりますわ! そこで計画を練りましょう!」


 なにもかも突然すぎて頭が回らない。一つだけ浮かんだのは、サラ姉もゴルフなんて言葉を知ってるんだという、完全に場違いな驚きだった。

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