第24話 誰もいなくなる

 飛んできたドアは縦に回転しながらネコの左腕に迫った。ドンと低い音が聞こえた。遅れて、ネコの手首がくるくると空を飛んでばたっと落ちた。


 鋭い悲鳴が空気を切り裂いた。


 あわてて車の陰へネコを引っ張り込んだ。ショウさんがダクトテープで力任せに左腕を縛ったけれど、それがどれだけ意味があるかは全くわからなかった。ネコの心臓に合わせてどくどくと血が流れだし、二の腕がみるみる紫に腫れていく。


「ちっくしょう……バカしちまった……」

「しゃべるな」


 ショウさんがダクトテープで切り口を閉じたけれど、地面はもう鮮やかな赤で染まっている。どうすればいいかわからず、ただネコの手を握って、名前を何度も繰り返した。


「ネコ、大丈夫だ。しっかりしろ。しっかりしろよ。絶対に大丈夫だからな」

「えっ、この状態からでも入れる保険があるんですか?」


「冗談はいいから!」

「いいや邦彦、いいよ。もういいよ。ありがとうな」


 ネコがつぶやく。何も答えられない。顔を見ることもできなかった。


「邦彦」

「ああ」


「あたし様の、横にチャックついたナイスなデザインのリュック開けてくれ」


 言われた通りにした。中からタバコが出てきた。


「なんでこんなもの持ってんだ、おまえ」


 ショウさんが言った。


「一度吸ってみたくてだよ。校則もなくなったんだしさ」

「何バカ言ってんだ。それよりここで縫うぞ。邦彦、周りを見張ってくれ。近づいてきたらできるだけ一人で殺してくれ」


 ネコが固く閉じた目を開いて、何度も息を継いでから話し始めた。


「無理無理。血が足りねえよ。どこかに戻って輸血なんかありえねえ。それに手足が飛んだら傷を焼いて骨けずって肉を縫わなきゃならねえって、なんかのマンガで読んだぜ。そんなのバカ兄貴にできるわけねえよ。もういいからピースくれよ」


 ネコが繰り返す。どんなにきつく締めても血は止まらなかった。クソ、と怒鳴ってからショウさんがピースを開け一本ぎこちなく取り出し、残りをつぶして投げすてた。


「たしか吸いながら火つけんだよな」


 ネコがタバコをしげしげと眺めてから、シュッと右手でライターをつけた。軽く吸って、細く煙を吐く。


「へへっ、美味くもなんともねぇな。吸うんじゃなかった」


 僕もショウさんも何も言わなかった。何度もなにか言おうとしたけれど、声にならなかった。ふーっと煙をふいて、それからネコが僕の隣へ顔を向けた。


「終わりか。まあいいや。もう少し粘りたかったけどな」

「ネコ……」


 冷汗を滝のように流しながら、ネコがにやっと犬歯を見せる。それから道の先へ目をやった。お前が見るのはこっちじゃないって、その目が語っていた。何か言いたかった。ネコが僕のことを応援してくれたのは、自分たちの恋愛にものすごい苦しさがあったからだ。お礼をいいたかった。そして、二人のことも素敵だよっていいたかった。二人がいたからここまで来られたって叫びたかった。でも遅すぎる。もう、ネコは助からない。


「おうバカ兄貴」

「ああ」


「なんか言ってくれよ。優しい言葉でもさ」

「お前は何もないのか」


「兄貴に言いてえことは全部言ったよ」

「タバコなんか吸うな」


「なんでよ」

「体に毒だ」


 くくっとネコが声を出した。


「いい冥途の土産だ。初めて兄貴の冗談で笑ったぜ」


 ネコがふらつきながら立ち上がった。刀を右手に、タバコを口にくわえたまま。


「ネコ?」

「下がってろ。この火でもう一発食らわせてくるから、こっから先はてめェでなんとかしな」


 ネコが歩きだす。立ち上がろうとしたところで、ショウさんに肩をつかまれた。逆らいたかったけれど、それまで見せたこともないショウさんの表情を見て、ネコを追うことはできないってわかった。ネコが腰に下げた刀を叩いた。何度も聞いたシィンという金属が、三人だけの街に響いた。


「なあ、邦彦。人によっちゃ悪夢だろうけどな。あたし様にはすげェ楽しい一週間だったぜ。思う存分、こいつを振れたしよ」


 ネコがこっちを振りむいて、細い目の笑顔と、タバコをくわえた犬歯を僕に見せた。


「ユミに伝えてくれ。もう一度。もう一度会いたかったってな」


 違う、ネコが言いたいのはそれじゃない。叫ぼうとしたけれど、その前にショウさんが僕の視界をさえぎるように腕で包み、トラックの陰へひきずりこんだ。直後、ドンと強い風が道路を走り、続いて火が一瞬だけ車の横を通りすぎた。


 何度か閃光と轟音が繰り返した。爆発する車は片っ端から死にかけを葬っていく。


 少し時間が過ぎて、静けさが戻ってきた。立ちあがる。街路は低く広く火が踊っていて、真っ黒な煙がそれを上から包んでいる。のたうちまわる死にかけがいくつかはいずっている。中国刀を腰にした姿はそこにはなかった。


「邦彦、こいつをもらってくれ」


 僕の方を見ずに何かを投げてくる。銀色のネイルを塗った、紫色の指だ。ショウさんが僕に目で頼んでいる。


「遺骨だ。持っててくれ」


 言って、長い木刀を引き抜いた。続いて逆手に小さいほうの木刀を抜き、手のひらでそれを半回転させる。ショウさんが瓦礫へ踏み出した。


「俺には親父が二人いたんだ」


 後ろからついていく。ショウさんがじっとたちのぼる煙を見つめていた。


「俺のお袋は離婚していて、ネコは二人目の親父との間の子供なんだ。俺を作った親父が死んでから、俺はネコと一緒に住むことになった。付き合いの浅い妹だ。でも、俺には大事な家族だった」


 車の連続的な炎上と爆発で、道路は真っ黒になっていた。風が強いせいか、火は一方に偏って、端の方は道ができている。爆発で吹き飛んだ死にかけが壁にたたきつけられていた。それは泥のように道路の左右へうずたかく重なり合い、まだわずかに動いているものもあった。


「何もしてやれなかった」


 瓦礫の彼方に、死にかけはまだ数が残っていた。


「邦彦、俺の後ろを歩き続けろ。速度をあげずに、ゆっくりだ」


 正面からの熱風を感じながらショウさんの後ろを歩いた。集団と二〇メートルくらいの距離になって、徐々に死にかけがこちらへ目を向けてくる。前に養運寺のそばで街路にいた集団に突っ込み、痛い目を見たことを思い出した。


「ショウさん。あの人数は無理です。前に僕が突っこんだ時よりずっと多い」

「二天一流が通してくれる」


 ひゅんと二本の刀で正面の空気を挟むように薙ぎ、それから両手に持った二刀を左右へ広く脇に下げる。はたから見るとその眼は虚ろで定まっていない。剣道の対戦相手がこんな顔だったら、楽勝だって思うかもしれない。でも僕は知っていた。その眼は今、この前に並ぶ誰とも質が違うことを。


「これだけはやらせてくれ。妹に頼まれた、俺にできるたった一つだ」


 一体がひゅっと手を出した。その腕を小刀で横へ払い、両方の刀を縦に回転させるように振り下ろした。ショウさんが発した掛け声が風の中に消えた。直後、二本の刀が消えて、肉塊が舞った。木刀が人体を両断している。二体、バラバラになって血肉の雨が飛び散った。


 動作の中、歩く速度は変わらない。一撃、一撃。自然な動作を組み合わせ、静かな打撃がつぎつぎに死にかけを葬っていく。大刀を喉に突き立てて小刀で抑えながら抜き、ハサミのように切りさき、振り回して壊していく。血しぶきと手足が散らばったジグソーパズルみたいに広がっていく。


 四方から死にかけが集まってくるけれど、ショウさんはそれを見ると、今度は相手を一方へ追い回す戦法をとった。相手の位置を見分けて足が速い奴を誘導して、全体に目をつけて左右の木刀を一度に振りちがえて打つ。押し崩して集団を集めていく。するといつの間にか正面に隙間ができている。


 なんて知的な戦い方なんだろう。打って倒す技術じゃない。生き残るための抵抗じゃない。一人の人間が多数を圧倒して無傷のまま切り抜ける方法。ゲームでいうなら戦略勝ちだ。もしこれがこれが二天一流の実力だっていうなら、呆然とするような完成度だ。待ち剣はせず、緩やかに動きながら集団を一方向へ追い詰めていく。じいちゃんに教えられた方法の通りだけど、初めてそれが形になっているのを見た。


 ペースを落とさずに県道を進み、ついに町田駅に到着し、横浜線を越えて境川を超えた。このペースならあっという間に病院だ。ショウさんは全然疲れているように見えない。


 けれど、階段を下りたところで状況は変わった。


「なにっ?」


 集団の中から棒みたいなものが突き出された。ショウさんの木刀をバンと鋭い音が叩き返す。


 ぐしゅう、という声のような呼吸のような音と同時に、もう一度、棒がショウさんの頭へ迫る。剣道の動きだった。ショウさんが慌てて木刀を十字に組もうとする。けれど棒の方が速い。


「くっ……」


 まさか。あんな攻撃、僕でも受けられるのに。


 けれどそう思ってから気がついた。ショウさんがやっているのは剣道じゃない。ばかりか、本来の二天一流でもない。ショウさんの技術は『死にかけ退治のために作り替えた独自の二刀流』だ。なんて皮肉なんだろう。それが本来の動作へもどす前に小手を許してしまっていた。大刀の動きが止まると同時に、死にかけが群がった。


「ショウさん!」


 返事はない。いつか見たときのように、ぼりぼりと骨の音が響いた。走り込んでスコップで一体の首を後ろから突き刺す。それで奴らは散った。


 アスファルトの上に、白いバスケットシューズ。靴の中には足が残っていた。白樫の大小が転がっていく。変わり果てた頭と胴体。その向こうには、棒を持った姿がいた。


 吸い込む息が喉で止まった。その棒は枇杷の木刀だ。


「シキ……?」


 正眼に構えているけれど、それを挟むように並ぶ二つの目は僕を見ていなかった。何も見てはいなかった。白く濁ったビー玉のように。


 地区で無敗だった四天王寺神泉のエースは、そまつなにじり足で僕へ向かってきた。しゅう、ぶふう、しゅう、ぶふうという呼吸音が、腐った喉から直接外へ漏れていた。


「お前……なんで……」


 シキは答えることもなく、言葉を理解することもなかった。ショウさんの剣を見て、一瞬だけ無意識に構えたんだろうか。目の前には死にかけとしてのシキしかいなかった。


「嫌いじゃなかったのに。ユミを取り合ってても」


 兼定を抜いた。叩きのめしたくない。一撃で終わらせたかった。


「こんな。こんな決着」


 シキは答えない。


「ごめんね、シキ。僕は死ねないよ。まだ死ねない」


 兼定を構えて、継ぎ足で左足を進める。


「だってさ。だって、こんなにだれもかれも途中で挫折するんじゃ、あんまりみじめじゃないか」


 踏み込んだ。シキの首筋をさっと切り裂く。血液がぱっと花火のように噴いた。枇杷の木刀が力なく地面に落ちた。二刀目で首へもう一度斬りこんだ。刀を当ててぐっと手前に引く。首が地面の上に、どさっと粘土のような音を立てて落ち、それはくるっと転がって僕の足元で、顔を上にして止まった。


 二つの目が瞬きをしている。少したって、それが両方ともゆっくりと閉じると、穏やかな笑顔を見せてシキは天国へ行った。


 兼定を拭いて納刀した。他の死にかけはめいめい勝手に動いている。ペンチを取りだして、ショウさんとシキの小指を切り取って、リュックサックに入れた。


「何かと役に立つ、か……」


 ペンチをあふれそうなゴミ箱に叩きつけた。


 病院まではもうわずかだ。


 でももう誰もいない。


 僕だけしかいない。


 ユミ。

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