第12話 永遠には生きられない

 夕方になって、日が当たらなくなってきた。薄暗い照明をつけて、メモをノートに清書し終わった時に、じいちゃんが何度目かの深い息をついた。


「来やがったな」


 じいちゃんが薬箱から体温計を取り出して脇にはさむ。暗くてもわかるくらい顔は赤く、せきもふえていた。


「四〇度三分か。家族全員でインフルエンザになった時も出なかったのにな」


 じいちゃんは体温計をおいて隣のコップから水を飲みほすと、静かにテーブルの上においた。リュックを開けて、短い紙の筒を取りだす。


「邦彦とユミちゃんへだ。会ってから開けてくれ。本当は俺から渡すつもりだったんだけどな」

「なにこれ?」

「まあお守りさ。途中では開けるなよ」


 受け取ると、じいちゃんはベッドにごろりと横になった。


「結局、何にもわかんねえまま死ぬんだな」

「じいちゃん、なんでもわかってるじゃない」

「そんなことねえよ。三界の狂人はきょうせるを知らず。四生の盲者はめしいなるをらずさ。空海の言葉だ。生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりにくらし。バカは死んでも治らねえってことだな。でもいいんだ。もういいんだ。最後に邦彦と、一緒にいい時間を過ごせたからな」


 言いながら、じいちゃんが顔だけ起こして窓の外へ目をやった。星が出ていた。街灯が消えて、空が広くなったように見える。じいちゃんが僕の両肩に手を置いて、それからじっと同じ方角を見て言った。


「北里大学、ちょっと前の勤め先でな。病院と大学の巡回の仕事してたんだ」

「前に言ってたよね」


 目をじいちゃんに戻した。顔はまだ赤かったけど、目は落ちついていた。


「校歌まで覚えてるよ。できたてでな。『生命の北辰』っていうんだ。大学なんか縁のなかったじいちゃんにも、いい歌だなって思った。こころざしを感じる歌だってな」


「ほくしん……ってなに?」

「北極星のことさ。北辰一刀流って知らねえか。剣道のもとになった剣術の一つよ。北辰は天の中心とか不動の強さとかの意味があって、剣道にも深くつながってる言葉だ。いつだって北にあって、俺達の進む道を示してくれる道しるべだ。そうだな。今の邦彦にとってのユミちゃんだ。ちょうど北里大学にいるのは運命かもしれねえよ」


 ユミのいるところが僕の進むところ。僕の北極星。僕の生きる理由。じいちゃんのいうことを、一つも体からこぼしたくなかった。何もかもを自分の中へ残しておきたかった。


「考えてみたら、北極星をまわってるのは死を司る北斗七星だ。だったら、それはあの亡者になっちまった奴らのことだ。その死を乗り越えて北極星を目指せ。北里にユミちゃんがいるのはそういうことだな、きっと」


「できすぎだよ」


 目に涙が浮かんできた。それが答える声をめちゃめちゃにした。最後の最後まで僕のことばっかりだ。どんな理屈でもいいから、僕に生きる意志を持てるようにしているんだ。でもそれがたまらなく僕の心をゆさぶった。


「できすぎじゃねえ。じいちゃんのいう事にまちがいはねえよ。がんばれよ。じいちゃん邦彦のこと、草葉の陰から見てるからな。まなこを開いて、かしらを起こして、下腹に力を込めて、いつもその兼定を自分の北極星へ向けてろよ。サボったら承知しねえぞ」


 うんと言おうとしたけれど、なにも答えられなかった。下をむいた。目にいっぱいためた涙が落ちる。膝の上においた手をぬらした。


「さて、長話もおしまいだ。出刃包丁出してくれ。ハラキリ、サムライと言いてえとこだけど、じいちゃん根性ねえから切腹はできねえや。頸動脈斬るわ」


 じいちゃんが濡れタオルで包丁を拭いた。


「その荷物もって出ろ。戸を閉めたら、じいちゃん逝くからな」


「嫌だ!」


 慌てて顔をあげた。


「嫌ってなんだよ。万一死にそびれて邦彦に向いたらどうするんだよ。じいちゃん強ええぞ」


 目を細くして、子供みたいな笑顔を向けた。


「じいちゃん、嫌だ。ここに最期までいるよ」


 震える声を押し殺していった。


「しょうがねえなあ。だったらじいちゃん死ななかったら、もう一本の出刃包丁あったろ。それで首突いてくれ。介錯かいしゃくだ。兼定はもったいねえから使うなよ」


 最後まで笑顔のじいちゃんへ、ついに僕は聞いた。今じいちゃんが思ってること、感じてることをどうしても聞いておきたかった。


「怖くない? 辛くない?」


 そう聞いても、じいちゃんは赤い顔をゆがめたりしない。出刃包丁を一度おいて、静かに答えた。


「辛いことなんかあるかよ」

「どうしてさ! どうしてそんなに簡単に言えるの? これからもう、考えることも感じることもできないのに!」


「そんなことねえよ。嬉しいさ」

「なんでだよ!」


「光枝に会えるもの」


 思わず口を閉じた。じいちゃんの口から、初めてその名前を聞いたかもしれない。小学校のころに亡くなった、僕のばあちゃんの名前だ。


「さ、血が飛ぶから後ろに回ってくれ」


 じいちゃんがベッドの上に座ると、包丁をふいたタオルを丸めて口にくわえた。


「斬ったらじいちゃんの首からパッと血が出る。そしたらすーっと気が遠くなって終わるはずなんだけど、もし声とか出してたらな、そしたら首の後ろ、ここ突き刺してくれ。固い骨と骨の間な」


 じいちゃんが真っ赤な顔をこちらに向け、最期にもう一度、僕の頭を撫でた。


「じいちゃん。ありがとう。大好きだよ」

「ああ。ユミちゃんと仲良くして、大事にするんだぞ」


 言って、じいちゃんが振り向いた。そこから先は一瞬だった。タオルを噛むと首を上げて、包丁を首に当ててすっと引いた。スパッという音から遅れて血が飛んだ。心臓に合わせて、二度、三度。


「ぐむっ……」


 じいちゃんが出した声なのか、偶然出た音なのかはわからなかった。


 一言も声を出さずに、涙をこぼしながら夢中で首を突き刺した。真っ赤な部屋の中で、じいちゃんの首を後ろから突いた。床はあっというまに血まみれになった。包丁を投げ捨てて、じいちゃんの首にタオルを当てて、仰向けに寝かせる。目は閉じていた。歯を食いしばって、ベッドの上にじいちゃんを寝かせた。布団をかける。


 ぴくっとまぶたが震え、その目が開いた。どきっとして、鳥肌を感じながら後ろに跳んだ。起き上がって襲い掛かってくるのかと思ったけれど、それ以上は動かない。親指でぎゅっと二回、目を閉じた。今度こそじいちゃんは眠った。


 離れて、真っ赤になった遺体を見る。頭の中で何かのドアが閉じたみたいな感覚があった。体が重くなって、水の中にいるみたいに思えた。


 やたら静かだった。目の前のじいちゃんへ布団をかけた。外は夕焼けでやたら赤い。カーテンを閉めてベッドに横になった。自分でもびっくりするくらい、何も考えられなかった。泣いたり叫んだり、全然そんな気分にならない。なぜかスマホをいじり始めた。ソシャゲのサーバー落ちてるなとか、もうクラスの奴らとパーティくめないなとか、わけがわからないことを考え始めた。それが終わると、道着、家の物干しに干してたけどもう乾いてるかなとか、そんなことが頭に入ってきた。そして最後に、僕は静かな部屋の中で、目を閉じて寝た。何時間も。


 *


 起きた時には、かなり夜が深くなっていた。


 何やってたんだっけ。と思って、周りを見る。ものすごい臭いに気がついた。部屋がめちゃくちゃに赤い。となりに血まみれのじいちゃんが寝ている。


 突然、現実が戻ってきた。そして、自分のやっていることを理解できてきた。落ちていたパソコンが再起動するみたいに頭が動いてきた。人間の頭って、こういうことが起きるものなんだ。


 そして直後。


 突然、絶望が押し寄せてきた。


 ユミのところへ行かないと。


 ユミのところへ?


 多摩川を渡って相模原へ?


 一人で? 冗談じゃない! そんなこと、できるわけがない!


 リュックのひもをつかんだときに、両足がガタガタ震え始めた。強く強く歯を食いしばって、歩こうとした。けれどそれまで動いていた手足が固まったようだ。無理だ。無理だ。無理だ。頭を振っても両肩を動かしても、血まみれになった部屋にうずくまったまま、何もできそうになかった。


 どうすればいい?


 どうすれば?


 頭を使う? 知恵? 知識? そんなものどこにある? 中学生の僕のどこに?


 あわててさっき書いたノートを手に取った。血しぶきが飛んでいるのをティッシュでこすった。一番大事なもの。ユミの事。知識の次は仲間。誰か。ユミ。違う、ユミのところへ行くんだから、他の人じゃないと。それにまだ六時過ぎだ。他にかけた電話やメッセージは。だれかいないか、だれか。


 片っ端から知ってる奴らに電話をした。出ない。ラインもツイッターもメールも誰からも帰ってこない。ユミに連絡しようか。でもなんて? もう無理だって? 行けないって? 冗談じゃない。それじゃめちゃくちゃだ。行くんだ。行けなくても。でもどうやって?


 呆然と血だまりの中で座り込んだ。抜き身の兼定を見て、いっそ死んでしまおうかと思い、じいちゃんとユミの記憶を戻しては思いとどまった。そしてしばらくして。


 ふと、電子音に気がついた。


 震えは少しずつおさまっていた。音はじいちゃんのバッグからだ。開けると点滅する光。妙な安心感があった。息を殺して手にとった。ガラケーの窓に二宮と書いてある。何人か知ってる。ボタンを押した。ジジッ、となんかのノイズの音が耳をかすめて、そしてちょっと遠い声が聞こえた。


「なんか出たっぽい」


 女の子の声だ。じいちゃんの生徒だろうか。


「本当に先生か?」


 受話器の向こうで声が聞こえる。今度は男の声だった。二人とも若いみたいだ。二度、深呼吸してからおずおずと言った。


「あの?」


 今度の返事は早かった。血まみれの部屋で、僕は新しい声を聞いた。


「うわあ、通じたぞ兄貴!」

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