第11話 最後の授業を受ける
水道で傷口を洗って、オキシドールを一本使いきった。車で二子玉川エクセルホテル東急へ。清掃中だったのか、三階に行くとドアはみんな開いていた。一番近い部屋に入った。それまで、二人とも口をきかなかった。
「なんかそこに細いもの挿してみれ」
じいちゃんが鍵受けを指さした。便箋を折り曲げて蛍光灯をつける。ドアをしめた。
「噛まれてから熱がでるまで三時間くらいらしい。もう一時間半はたった」
額から流れる脂汗が止まらない。服を脱がせる。肩には歯の痕が残っている。
「熱が出たら、そこからおかしくなるまで、もう三時間って話だ。個人差あるだろうけどな」
言葉がなにも出てこなかった。僕のせいだ。うっかり指を切ったからだ。そんな小さなことが、すべてを壊してしまう原因だなんて。
何度目かの消毒をして、じいちゃんはベッドにごろりと横になって天井へ目を見張った。
「邦彦、ノートだせ。今からじいちゃんの言うことを書き留めろ。これからすごく長い話をする。疲れるかもしれねえけど、中三ならできる。頑張ってみろ」
じいちゃんの顔から噴きだす汗をふいてから、自分のリュックを開けた。
「遺言なの」
「ちがう。遺産だ。じいちゃんが知ってることをあらいざらい教えてやる。邦彦の土台を、もう少しだけ固くしておきたいんだよ」
椅子に座ってボールペンを手に取る。じいちゃんが、うん、と首を縦に振った。
「
「う、うん」
『ユミの事を第一に考えること』
ノートにその文字を刻む。でも今はユミの顔を思い出せなかった。恐怖で指先が震え続けていた。
「次だ。生き残るために必要なのは、知識、仲間、道具だ。その中でもまずは知識だ。勉強しろ。丸暗記じゃなく考えながら。もうネットは使えなくなるから、まず本だ。本屋にいって、それぞれのために作られた本を読め。寝るならキャンプの本。食べるなら農業や釣りの本。服がやぶれたら裁縫の本。ケガや病気には薬や医療の本。もめたら人づきあいの本。なんでも本だ。
とにかく野生の勘はダメだ。犬にも猫にも負ける野生の勘なんか捨ててしまえ。目や耳、鼻や舌を使うのは当然にしても、本能は人間の頭には絶対にかなわねえ。野生の勘で信じていいのは一つだけだ。それが好きな子のために生きることだ。これもわかるな」
『勉強する。頭を使う。ユミのために』
そう二行目に書いた。
「知識をつけたら仲間を作って相談しろ。周りと話し合え。本に嘘が書いてあるかもしれないからな。人の善悪を見わけるのは難しい。悪いこと考えてるやつもいる。こんな様子だし、悪い心が芽生える奴も出てくる。そういう奴らから遠ざかるのはもちろんだけど、それでも仲間なしはダメだ。だいたいアフリカから最初の人間が生まれて地球上に広がった時、二五〇人くらいのまとまりで動いたんだそうだ。そうでなければ、怪我の手当や子供の面倒がみられなかったらしい。人は一人じゃ生きられねえからな」
「二五〇人。駒澤大にはいるよね」
「そうだ。ユミちゃん助けたらあそこか、同じくらいの規模がある場所へ行くことを目標にしろ」
三行目に『仲間と相談する』と足していく。
「次。道具。普段から用意すべきものの重要な順番。水、寝る場所、食い物、着るもの、薬。それから武器だ」
「水が最初だね」
四行目に水と大きく書いて丸で手早く囲み、顔を上げた。
「そうだ。特に今は暑い時期だ。水か麦茶をつねに持ち歩け。疲れたら足や頭にかけてもいい。コンビニの水がなくなったら、雨水や川の水をコーヒーフィルタかなんかで
それと栄養は必要だけど腹一杯食うなよ。戦えなくなるからな。早寝早起き、腹八分。そのあたり前ができるようになれ。母ちゃんや先生に言われなくても、自分のためにな。腐ったものは食うなよ。食器使ったら洗剤で洗えよ。腹なんかすぐ壊しちまうからな。もちろん食いおわったら歯もみがけ。医者いねえから虫歯になったら叩き折るしかねえ。麻酔なんかねえからとんでもなく痛えぞ」
歯医者に行った時を思いだして身を縮めた。麻酔をしててもあんなに怖くて痛いのに。世の中がまともに動くっていうのがどんなに大事か、初めて実感した。
「戦い方。死にかけとは可能な限り戦わないこと。逃げられるならそれでよし。ただし行く手をさまたげられたら、必死、必殺の意気で倒すこと。一対一の時は狙って後の先を取らぬこと。生意気に待ち剣なんかするな。そんな人間相手の術はいらねえ。常に先の先。または先々の先」
後の先とは相手の攻撃を受けて打ち返す事。先の先は狙ってくる相手に攻め入って、相手が襲う瞬間を打つこと。先々の先は相手の襲おうという気配をとらえて、技を繰り出すことだ。常に先手を取って打ち勝てっていうことだ。
「細かい技術は後回しだ。心得もう一つ。多数の死にかけに囲まれたとき。体の小さな相手から殺し、転がして他の足どめとすること。大きく強そうな相手には目もくれるな。必ず弱い者から殺す」
書きながらひどいとかむごいとか、そんな言葉が浮かんだけれど、ユミのためと考えて自分を納得させた。
「正対して不利な状況になったらば、開き足を使い相手から見て時計方向へ回り込み、突進をかわすこと」
「時計方向?」
「そうだ。自分から見たら相手の左側。理由は細かく言ってられねえ、まじないと思って書いといて、あとは実戦繰り返して考えろ。水くれ」
じいちゃんはペットボトルの水をがぶがぶと飲むと、残りを頭にかけて話し続けた。ベッドはずぶぬれだけど気にもしない。
「スコップで身を守ることに慣れること。兼定はそれから。ただし、他の武器を手放したら迷わず抜くこと。ぶつけぬよう気をつけること。壁、天井、電柱など。余裕あるなら常に磨き、ふいて血の痕をとどめぬこと。それを守ってサビつかねえようにしとけば、五〇でも百でも行ける。武器なしで近づいたら、平手の手首側、肉厚の部分、掌底というところにて胸元を突く。または体当たりにて吹き飛ばす……」
じいちゃんはしゃべった。しゃべった。しゃべった。こんなにしゃべるなんて驚きだった。ノートに手がしびれるまで書きまくった。一つ、一つ刻み込まれるように頭と胸に入っていく。全身で知識を食べてるみたいな気分だった。
ひとしきり、一時間以上しゃべってから、ふーっとじいちゃんは深く息をついた。
「あとは、なんだ……」
「もういいよじいちゃん。休んでよ」
「もうすぐ十万億土で永遠に休めるさ。まだまだ。邦彦の大好きなユミちゃんのためだからな」
じいちゃんが太い声で言い返した。
「……わかった」
答える声が震えた。わかるわけなんてない。涙がノートに書いた字の上に落ちた。一番好きなのはじいちゃんだ。今、この瞬間なら間違いなくじいちゃんだ。でもじいちゃんはそれを許さない。一番大事にしなければならないのは、これからいなくなるじいちゃんではなくて、この先にいる、たった一人の幼馴染だった。
「あとは何かな。じゃあこれだ。今まで言ったことをよく理解し、そして忘れること」
一瞬、意味がわからなくなって、ボールペンを止めた。じいちゃんの顔はもうかなり赤くなっている。咳ばらいをして、上半身をベッドから起こしてじいちゃんが続けた。
「これからの戦いは試合じゃねえ。あいつらはなにしろ人間じゃねえんだ。剣道もそれ以外の知恵も、そのままは使えねえ。だから、じいちゃんの言ったことをよくわかったら、もう暗記はいらねえ。不安になった時、うまくいかなかった時、本物だの、真実だの、正義だの、そういうのを探すな。腹に納めた自分の武器を使うんだ。そのノートは困った時だけ見返せばいい」
「でも、それじゃ我流だよ。それでいいの……」
「いいんだ。歌舞伎で
言って、ベッドに座る。
「来い。よく顔を見せてくれ」
ノートを置いてじいちゃんのそばに寄る。毛深い手の甲がそっと頬に触れた。節くれだった指があったかかった。
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