第4話 いちばん大切なものを知る
剣道は実戦では使えない。居合なんかもっと使えない。いろんな人にそんな話をされた。たしかに、それはそうかもしれない。鉄砲や戦車に勝てるわけがないし、そもそも真剣を持って歩いてる人なんてまずいない。木刀だっていない。実戦とは関係ないスポーツ。伝統文化。それが剣道だと思っていた。
じいちゃんが剣禅一致と書いた手ぬぐいで死にかけの血を拭きとり、静かに納刀する。使えるか使えないかなんて議論は、もう必要なかった。
じいちゃんが死にかけたちを突きとばしながら、僕を連れて外へ出た。校門の前に白いレガシーが止まっている。近づくと、父さんが周囲に目をくばりながら出てきた。
「邦彦」
足取りが重い。それに顔がすごく赤かった。
「父さん……どうしたの? 大丈夫?」
「近づくな」
父さんが左手をボンネットについて、もう片方の手を前にだした。大きなリュックサックをつかんでいる。中で水の音がした。受け取ると、今度はトランクから黒檀の木刀を三本取り出した。古くて塗装が完全にはげたのと、そこそこ年季が入ってるのと、新しいのと。じいちゃんと、父さんと、僕の木刀だ。水道橋の武道具屋さんで買った。
「邦彦。父さん今な、かなり熱が出てるんだ。もうすぐ、あいつらと一緒になるみたいなんだよ。そうなる前に家に帰って、母ちゃんと一緒に寝ることにしたよ。でも邦彦、お前はじいちゃんと逃げてくれ。いいな」
「どういうこと? どうして? 母さんは?」
「母さんな。死んだんだ」
口が一瞬、凍りついたみたいに固まった。
「死んだんだよ」
父さんが繰り返した。
「はあ? なにそれ意味わかんないよ!」
「邦彦。人は死ぬ。みんな死ぬんだ。でもお前はじいちゃんと頑張って、一日でも二日でも生きてくれ」
二度聞いても意味がわからない。父さんは僕の頭をなでると、優しく見つめるだけでそれ以上なにも話さなかった。
「父さん? 母さん死んだの? 父さんこれからどうなるの?」
父さんが頭を近づけて、僕の二の腕に両手をそえる。ごつごつとした手の平がふるえていた。
「いい子だな。世界一の息子だ」
そう言って、父さんが僕に向けた笑顔にはあふれそうなくらいの涙が浮かんでいた。父さんがつぶやいて背中を向ける。左脇に、べったりと血がついていた。
「なにそれ? 父さん、どうしたの?」
それには答えなかった。振り返らずに、じいちゃんに一言だけ告げた。
「親父、頼むぞ」
「任しとけ」
言いながらレガシーを置いて、道路の向こうへ。
「父さんどうやって帰るの? 父さん本当に死ぬの? 母さん本当に死んだの? 別の病気じゃないの。まだ生きてるんじゃないの?」
次々に質問を浴びせかけた。昨日まで、昨日までは、毎日同じようなことをしているし、これからもそうだと思ってたのに。
「全部本当だ。瑞穂さんは、おまえの母ちゃんは」
じいちゃんは、ぐっと唾を飲んでからまっすぐに僕を見つめた。僕にそれを伝えることを明らかにためらっている。詰め寄った。早く聞きたかった。それを見てじいちゃんは、これまで聞いた中でも一番低い声で言った。
「じいちゃんが、斬った」
持っていた三本の木刀がするりと落ちて、乾いた音をたてる。
庭がない僕の家では、ときどき屋上で練習することがあった。カンカン何時間もやるもんだから、ついに近所から苦情が来て、母さんに三人で怒られた。木刀はそのとき床に置いたのとおなじ配置で、三本並んで転がっていた。
刃物みたいに言葉がざっくりと胸を刻んだ。父さんだけじゃなくじいちゃんまでそう言ってる。ウソじゃないんだとわかってきた。同時に、ぐったりと力が抜けた。
*
一時間くらい泣いた。泣いて泣いて、泣きまくった。最後はもう何を泣いてるのか、なんで泣いてるのかも分からなかった。わけがわからない後悔や愚痴をくり返して、最後に、喉を引きつらせながら叫んだ。
「母さんに何もしてやらなかった」
「そんなことねえよ」
僕の隣で縁石に座っていたじいちゃんが、周りを見渡しながら答えた。
「親不孝だった」
「あたりまえだ」
顔を上げてじいちゃんを見る。よく分からなくて、不思議そうな目を向けた。じいちゃんがぼそぼそと続けた。
「邦彦。子供ってのはな、どんなやつでも大人になるときに、何度も何度も母ちゃんを裏切らなけりゃならねえんだ。そうしなきゃ大人にならねえようにできてるんだ。悲しいけど、仕方ねえことなんだよ」
ぐっと、それでも喉を詰まらせた。それはそうかもしれない。でもこうなるって知っていれば、もっと別の毎日があったはずだ。
「それよりそろそろ泣き終わってくれ。来やがったぞ」
じいちゃんが縁石からゆっくり立ちあがった。歩道の向こうから灰色がきた。僕もびくっと縁石から腰を浮かした。じいちゃんが木刀を拾って、スパンと面を打つ。あおむけに倒れた。
「行こう邦彦。まだ生きてる」
じいちゃんが木刀を車に入れて僕を乗せた。息が落ち着いてきて、考えることができ始めている。このまま泣いてたら死ぬ。行かないと。
「じいちゃん。車運転は?」
「最近やってねえけど、できる。それより邦彦、まず生きてる奴を探さねえと。スマートフォンは生きてるか。友達とかはどうした」
じいちゃんが車を運転しながら話題を変える。言われて携帯を取り出した。ネットとかは大丈夫なんだろうか? 画面を出して、ラインを開く。
息を飲んだ。
今日、三度目の鳥肌が背すじを這いあがってきた。
(誰でもだれか生きてるとか人た助けておやろめろで逃げた)
(きたざと大学病院の上のレストラン)
(神奈川県相模原市南区西里xx-xx)
(多分ずっといる食べものある日だれもいなち)
誤字だらけのメッセージが並んでる。それとは別に、僕だけにあてたメッセージがあった。時間が少しずれていた。
(病院から出られない)
(しにたくない)
(邦彦どこ?)
心臓の音が耳に届く。抜け落ちていた気持ちが戻っていた。生きてる人がいる。それも身近な人が。
「相模原の病院にいる。生きてる」
「本当か?」
じいちゃんにスマホを渡した。受け取って、遠ざけながら目を細める。
「読みにくいな。わかるの住所だけだ……いや、北里大学病院か。前の現場だな……」
相模原。どうなってるだろう。学校まであんな感じなんだ。どうなってるか想像はできた。行っても途中で死ぬかもしれない。ユミもいつ死ぬかもしれない。
けれどじいちゃんは、スマホを返しながら鋭くつぶやいた。
「相模原なら行けないってことはねえ」
じいちゃんが車を止めた。降りて、二人で公園の水のみ場へ。二人で顔を洗って、口に含みながら飲む。トイレから出ると、じいちゃんはベンチに座っていた。隣を叩くと、座れってささやいた。
「邦彦。ユミちゃんと昨日いっしょに帰ったって言ってたな。ユミちゃんのこと、どう思ってる」
「ええ?」
思わず、ぼっと顔が赤くなった。
「つきあってんのか」
「え、あるわけないよ。昨日は偶然。話したけどそれだけだし」
「好きなのか」
「だから考えたことないよ!」
じいちゃんは何かに憑かれたみたいに、もう一度繰り返した。それを答えなければ、この先はないと思えって顔だ。
「邦彦。じいちゃん真面目に聞いてるんだ。いいか。ユミちゃんが好きじゃねえなら、残念だけど助けるわけにいけねえ。でも好きならどうしたって相模原まで行かなきゃならねえ。邦彦、もう中三だろ。十五歳だ。もう子供じゃねえんだよ」
「それとユミと何も関係ないよ!」
それを聞くと、じいちゃんはぐっと僕の肩をつかんだ。握力がくいこんで痛い。けれどじいちゃんは、僕が体をねじっても離さなかった。
「……邦彦。世の中で一番大事なもの、なんだか知ってるか」
「え……じいちゃんは剣道でしょ?」
「そんなわけねえだろ。何言ってんだ」
眉に大きなしわを寄せて、心の底からあきれたような声を出された。そこまで言わなくてもいいのに。
「世界平和とかそういう事?」
「違う違う違う。好きな女の子だ。それより大事なもんは一つもねえ」
「ええ?」
声を荒くして叫んだ。突然なんの冗談を言ってきたのかと思った。けれど、じいちゃんは本気のようだ。
「いいか、邦彦。人は好きな人を大事にするために生きてんだ。十五を超えたならな。女の子を好きになるのをやめちゃなんねえんだよ」
「いや、そんな事ないでしょ? 世の中には男の人が好きな男の人だって、その逆だっているんだよ?」
「じいちゃんには難しいことはわかんねえ」
理屈も何もないめちゃくちゃな返しだ。もうこっちからしゃべろうって気にならなかった。
「そういう人がいるのは知ってるさ。LGなんとかだけじゃねえ。好きになるのに、いろいろ難しいことがある。それはわかる。でもこの話は難しくねえ。じいちゃんが聞いてんのは、邦彦がユミちゃん好きかだけだ」
「そりゃ嫌いじゃないさ!」
「好きかって聞いてんだ! 好きか、好きじゃねえかよ!」
じいちゃんが厳しい声で聞いてくる。ううっと黙り込んだ。好きか、嫌いか。嫌いじゃない。好き。好きかもしれない。他の女子よりは。でも……
「もし好きだってなら、じいちゃんも助けてやる。一緒に行く」
「どうして? じいちゃん関係ないじゃない」
「ユミちゃん泣かした時、じいちゃん邦彦のことぶん殴っちまったからな。その借りを返したいんだ」
覚えてたのは意外だったし、それを出してくるなんて予想してなかった。小学生のころ、ユミを泣かせた時。ユミに足をかけたこと。じいちゃんに殴られたこと。それはずっと、僕の中だけの話だと思っていた。
「邦彦。決めちまえ。今ここで」
「わかんないよそんなこと……でも、じゃあそれなら、僕も借りがある。あの時、足ひっかけたこと、まだユミに謝ってない。僕も借りを返したい。助けに行きたい」
じいちゃんが僕の顔をのぞきこむ。その言葉に嘘がないかを確かめているように思えた。うんと小さくうなずいてから、両手を僕から離した。
「それでもいい。とにかく行こう」
立ち上がり、車に戻る。走ってその背中に追いつく。座席についてラインを開いた。好きってどういうことかなんてわからない。でも、想像の中のユミの顔が頭から離れない。フリックでメッセージを打ち込んだ。
(渋谷にいる。必ず助けに行く。待ってろ)
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