第5話 蹄が死にかけを蹴散らす

 自動車の中で荷物をひと通り見ておいた。たくさん積んであるジュースやカロリーメイトは当然いるけど、災害用のリュックは微妙な感じだった。三角巾やホイッスル、懐中電灯は使えそうだし、印鑑とか通帳も一応とっておくけど、おくすり手帳は意味なさそうだ。朱肉なんて論外だ。どこかで捨てようと、そこらへんをズボンのポケットに入れた。


「昨日の話、ひっくり返して悪いけどな、剣道やめんのは当分先だぞ」


 車を動かしながらじいちゃんが言った。


「うん……でも、僕の剣道なんて」

「いや、そこよ。最初は驚いたかもしんねえけど、あいつらそこまで強くねえ。狂暴になるって聞いてたからゴリラみたいなのを想像してたんだけどな。邦彦の剣道で十分いける」


 少し考えた。人を取り囲んで食い散らかしていく奴らだ。弱くはないだろう。ただ、学校で木刀を振ったとき。相手はのけぞっていた。それに足が速いわけでもなさそうだ。でも、もし戦うなら……やっぱり不安だ。


 車は路地を縫いながら走った。でもどの道もかなり多くが歩いて車道の真ん中をふさいでいる。こちらを見ると、よろよろと土色の顔がこちらを向いた。


「なんでこっちに向かってくるんだろう。噛みついてくるんだろう」

「今は考えられねえな……仕方ねえ、ハネるか……」


 言うと、じいちゃんがアクセルを踏み込んだ。急加速して三体くらいを跳ねて飛ばして止まり、前のスペースが空いたら進む。轢いて車の下へ入れてしまうと動けなくなるから、乗り上げたらバックで戻る。とろとろと死にかけと死体をよけながら車を進めた。


「思ってたより厄介だ。なかなか進まねえ」


 代々木公園まではなんとか到着したけれど、どの道も渋滞というか、止まった車だらけで抜けられそうになかった。遠回りどころか遠ざかってる。


「参ったな」


 じいちゃんがハンドルをコツコツとたたきながら背もたれに体重を預けた。周りから死にかけがわらわらと集まっては窓を叩く。やぶる力はないみたいだけど、気持ちが悪くて仕方なかった。


 ユミから、何通かラインが来てる。目を通したけど、返事は今はできそうにない。


   (移動してる)

   (今日の8時にまた連絡する)


 書いて電源を切った。スマホを見てたらその間に殺されるかもしれない。気になるけど、そうするしかなかった。


 じいちゃんは車を進めるのを完全にあきらめて座席で日本刀を抜くと、丁寧に血を拭いて油を塗っていた。降りて移動するってことだろうか。


「兼定、本当に斬れるんだね」

「斬れるようにしておけばな。でも人様を本当に斬るなんてな……」


「ねえ、僕の剣道で本当に戦えるかな」

「戦える。前後左右にフェイントを入れて、間合いを巧妙こうみょうに詰めてくる相手より全然楽さ。そのうえ体のどこでも力まかせに打っていいんだぞ。ただ、連続になったり囲まれたりするのがまずい。試合と違うことは考えなきゃな。あと食い物や人づきあいもな……」


 骨がのぞく崩れた灰色に包まれていく。じいちゃんが刀をしまうと、ふと、自分のガラケーを見てボタンを押し始めた。


「どうしたの?」

「なんか着信が入ってる」


 じいちゃんがボタンを押して耳に当てる。


「上町ですが、どちら」


 それを切り裂くように、堂々とした声が受話器からあふれてきた。


「じいさま、ご無事でしたか!」

「じいさま? あんた誰だ?」

「孫の声をお忘れとは! 耄碌もうろくにはまだ早いですわよ!」

「は?」


 聞き覚えがあるというか、このしゃべり方を忘れるわけがなかった。従姉妹いとこ更紗さらさ姉さんだ。弓と馬が人生の全てみたいな変人の。じいちゃんが驚いて耳に携帯を押しあてた。


「なんだ、お前サラか?」


「左様わたくしただいま吉祥寺を出まして南進しているところ。そちらへ参りますゆえ、しばしお待ちを!」


 サラ姉の音はハンズフリーにしなくてもこっちまで聞こえてきた。


「誰に聞いた?」

「叔父上ですわ。今際の際のメールで知りました!」

「おめえ、自転車か? オートバイか?」

「じいさま、侍は馬に決まっております!」

「なに言ってんだ、お前?」


 風の音、続く高い笑い声。


「どなたといらっしゃいますか?」

「今、隣に邦彦がいる」

「代わっていただけますかしら」


 じいちゃんから携帯を受け取る。


「サラ姉? 生きてるの? 来てくれるの?」


「スマホの『友達を探す』というアプリにて、わたくしと位置情報を共有、周囲の建物といまいる場所をお言いなさい」

「メアドは?」

「SMSでじいさまへ送りますわ。見ながら打ちこみあそばせ」

「わかった。右手に、えーと、昭和女子大学。今、白いレガシーに乗ってるよ」

合点承知がってんしょうち!」


 何が何だかわからないまま、言われた設定を終えた。車を細かく前後に動かしながら死にかけを追い払い、カロリーメイトをコーラで流し込みながらスマホを見る。サラ姉を示す点が、みるみる三軒茶屋に近づいてきた。


「バカに速えぞ」


 点はあっという間にレガシーに重なった。ほとんど同時に蹄の音が響いた。道路の向こうにやけに大きな馬が何頭もいる。やがて死にかけが一斉に一方へ顔を向けた。


「じいさま! 邦彦! いずこにありや!」


 その声に合わせて死にかけが蹴散らされていった。


「異形ども貴様らに用はない退けえ!」


 フロントガラスにへばりついていた奴がサラ姉の声へ振りかえった。騎乗して左右の馬の手綱を口にくわえている。その左手には巨大な弓が握られていた。


 サラ姉がなめらかに弓を引いた。直後、ボンネットにおおいかぶさろうとしていた一体が脳天を貫かれて崩れ落ちた。馬から飛び降りるなり、背負ったえびらから、今度は二本の矢を引き抜く。


「選べ、ぬるか死か!」


 車の周りには二体しか残っていない。そいつらがサラ姉へ視線を移して襲いかかる。直後、一射目が喉を貫き、二射目はもう一体の目玉に命中した。バタバタと倒れた死にかけの頭を、サラ姉を追う馬が踏みつぶしていった。


 コンコンと、姉さんが窓をノックする。


「サラ姉」

「三年ぶりですわね」


 変わらない強気な笑顔。亜麻色の短い髪。三つ上のサラ姉は十八歳、高校三年だ。僕よりもはるかに大人に見えた。


「サラ、お前どっから来た?」

「避難所になっている駒澤大学からですわ。この馬は日曜に大感染があった府中から。馬の輸送ができなかったらしく、ほかに乗れる方もいなかったようなので失敬しっけいしてまいりました」


 車のそばにかつかつとたくさんの足音がやってきた。僕よりも背の高い動物が四頭。


「よくこんなに連れてこられたな」

「馬を恐れるようで異形が近づこうとしませんの。車よりはるかに安全でしたわ」

雅子まさこ浩二こうじさんとはどうした」

身罷みまかりました」


 表情を崩さずにサラ姉が答える。思わずサラ姉の目を見かえした。


「死んだの。雅子おばさん」

「ええ。立派な最期でしたわ」

「そんな……」


 サラ姉は巧みに手綱を引いて馬を反転させながら、大きな声で言った。


「何ですその女々しい声は! 上町家はここに三人も生きておりますわ! これを僥倖ぎょうこうと言わずに何といいましょう!」


 それを聞いて、じいちゃんが肩を広げてみせた。


「……そうだな。俺たちは生きてる」


 じいちゃんは雅子おばさんのことは何も言わなかった。車を降りて、食べ物やリュックサックを馬に積んだ。サラ姉が手を差し出してくる。ほっそりした手に見えたけれど、握ると強い芯が感じられた。


「サラ、洋弓は手に入れられねえか。アーチェリーの方がずっとあたるぞ」 

「わたくしは侍がすえ。この修善弓しゅぜんきゅうこそが、今は亡き先生にいただいたわたくしの誇り。この一張ひとはりをおいて、なにを武器に持てましょう」


 言い終わると腰につけた珍しい形の水筒に口をつける。


「相変わらず変な孫娘だな。なんでえ、そのひょうたんみてえなの」

「みたいなではありませんわ。ひょうたんです。麦茶によく合う香りがしますわよ」

「どこまで大時代的なやっちゃ。うちは幕臣のすえだぞ。そんなもん敵方だろうが。縁起でもねえ」

「あら、そんな昔のことをひっくり返すなんて、大時代的なのはじいさまですわね」


 サラ姉がおかしそうに笑った。ひょうたんは豊臣秀吉のシンボル。僕の家のでっちあげ家系図によると、上町家は徳川家康の家来の子孫だ(ってことになっている)。そこまでを、二人から説明してもらってようやくわかった。


 冗談が難しすぎるよと言うと、二人ともうなずいてから笑った。世界が死にかけに包まれてから初めての笑顔だ。日常が壊れても、まだ笑えることが嬉しかった。



 外で軽く体を動かしてから、初めて一人で馬に乗った。高い。地面がはるか下に見える。鞍にしがみついて、サラ姉が前の馬から手綱をつかんでもらった。じいちゃんは一人で乗れるみたいだ。


「お高い競走馬ですから聞き分けは最高ですけれど、馬は何年ぶりですかしら」

「何年? 車が何年ぶり、馬なんて何十年ぶりだ。蹄鉄ていてつでアスファルトなんか歩いて大丈夫なのか?」

「長くは歩けないでしょうね。生きられる限り共にというところですわ」


「これからどうするの」

「駒澤大学には今数百人が避難していて、組織的ではありませんけど、消防官も自衛官もいますわ。まずはそこへ向かいます」


 数百人。ホッとする数字だ。それだけ生きているなら、なんとかなりそうに思えた。


「水や食い物はどうしてる」

「水道がまだ生きてますから、出せるだけ出してプールに張ってますわ。あとはコンビニから調達です。シャワーが出てるから体も洗えますわ。邦彦の背中も流しましょうか? 子供のころみたいに」


 サラ姉が僕を見て笑う。ちょっと顔が赤くなった気がして横を向いた。


「サラ、もうその年になって、付き合ってねえ奴に体を見せちゃいけねえよ」

「あら、承知しました。大和撫子やまとなでしこらしくいたしますわね」


 馬の足音を聞きながら、事故った自動車をすり抜けていった。少し気持ちは落ち着いていたけれど、夕日を見ているうちにユミのことが気になった。そんなにのんびりできる状況じゃないんだ。これから、どうすればいいんだろう。

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