第8話 初めて人を殺す

「どの橋も無理だね」

「本格的にやる準備がいるな。いい靴と手袋と、少し厚手の服を取ってこよう」


 朝日を背中に受けながら自転車を止める。バイク用品店に入った。まだ電気はついている。まっすぐ入って、二人でさっと左右に目を走らせる。テーブルにうずくまる姿が一人だけだ。


「生きてるかな」

「待ってろ」


 じいちゃんがオイルの入った小さな缶を投げつけた。うめきながら、そいつが体を起こした。


「じいちゃん……」

「邦彦、こっち見るな。必ずじいちゃんの見てない方を見ててくれ。じいちゃん、後ろに目ついてないからな」


 死にかけがつぶやき声を出しながら、崩れかけの体をぐらつかせている。じいちゃんは無造作に怪物へ近づくと、ガツンと木刀で胸板を突いてのけぞらせ、脚を打つ。ぐらりと崩れて倒れた。


南無三ナムサン


 横たわった死にかけの首筋に木刀の切っ先を当てて、ゲンコツの小指側で柄頭を殴る。ビクッと何度か痙攣して、そいつは動かなくなった。


「首の骨を折ったから、生きてても立たねえはずだ。こいつ着よう」


 じいちゃんが皮のベストを着て、ライダーのグローブとブーツに替えた。ぜんぜん似合ってないけど、革は確かに丈夫そうだ。僕も手ごろな夏用の長袖を選んだ。


 じいちゃんが死にかけの胸に手を当てた。突然、死んだと思っていた姿が跳ねた。死にかけの魚みたいにバタバタと音を立てている。首がちぎれかけて変な方向を向いていたせいで、まともには立てないみたいだ。


「うん。なるほどな」


 言うと、じいちゃんは右手の木刀をもう一度首にたたきつけた。今度はかなり強い音がして、灰色と紫色の体が完全に動かなくなった。


「このくらいでやっと脈が止まんのか。追っ払うのは楽だけど、殺すにはそこそこ力がいるんだな」


 ごくりと喉を鳴らす。じいちゃんの冷静な声が怖かった。


「邦彦。一つわかった。こいつらの三歩の距離に入るな。たぶんこいつらは目が悪い。だから三歩の距離に入ってから突然手をがばっと開いて噛みつきにくる。その距離より外側から仕掛ければ、倒すのは難しくねえ」


「三歩の距離」

「そうだ。剣道に一足一刀の間合ってあるだろ。あれよりもう少し遠いあたり。その距離に入るといきなり力を出す。そこで打てばひるむ」


「できるかな」

「心配するな。この前の練習試合は見てたけど、邦彦の剣道は、そもそもそんなに悪くねえ」


 えっという顔をした。ずっと僕の剣道を見てないと思ってたのに。


「いいか。たしかに邦彦はリーチがねえし、手足が細くて力もねえ。足も遅い。ただ、打ち込むタイミングや間の取り方、気迫の乗せ方、そういう剣道の一番肝心なところはできている。姿勢や体幹もいい。早いうちからやってた奴の特権だよ。


 中学剣道はな、まっすぐ強く速く竹刀を当てられる奴が強いんだ。だから邦彦は勝てなかった。でも本来の剣道ってのは、中心を攻め合って相手を動かし、機を見て打ち込む高度なもんだ。あいつら相手には、特にそれが大事なんだ。怖がらないで突っ込んでく奴はダメさ。あっという間に食い散らかされちまう」


 言われて、同級生だった奴が食い殺されたのを思い出した。ぞくっと背筋が寒くなったけれど、結局僕は生き残って、あいつは死んだ。だったら、僕が正解なのかもしれない。


「自分にもっと自信を持て。臆病だの、力が弱いの、足が遅いの。それがまずいのは中学剣道。武道は違うんだ」


「武道……」


 武道。その何度も繰り返した言葉に、新しい意味が生まれたように思えた。生き残るように、死なないようにするための道。


「でも臆病で、力が弱くて、足が遅くていいわけじゃないよね?」

「そりゃあな。言ってんのは懸待一致や気剣体一致。そういう本質のほうが大事だって意味だ。いいか、剣道は使え。でも剣道にこだわるな。わかるか。自分の中の剣道を少しずつ作り変えていくんだ。先生に言われた剣道じゃない、自分の剣道を見つけるんだ。それが武道だ。わかるか」


 わかるかと繰り返して聞かれた。懸待一致は常に攻めと守りどちらもできるようにすること。気剣体一致は、打ち込む時に気迫、竹刀、全身が統一していることだ。今からやるのは、剣道じゃないけど剣道は使う。あの死にかけを倒すために。


「さてと、あとはなんか武器ねえかな。バイク屋にはねえか。暴走族屋じゃねえしな」

「でも兼定カネサダがあるよね?」

「いいんだけど、下手に骨や物にぶつけると曲がったり折れたりするからな。錆びるしよ。一本しかねえから集中できるときに使いたいんだ。でも何がいいか……」


 じいちゃんが珍しく考えこんだ。なにか役に立ちたい。アイデアを出したかった。


「おまわりさんのピストルはどうかな」

「あれだけたくさんいるのに五発でおしまいじゃ話にならねえよ」

「じゃあ、棒?」

「いや、棒は力がないと殺すのはきつい。人間の皮膚や肉相手に、刃があるのとないのとじゃ全然違うんだ。駒澤で見たみたいに、デッキブラシに包丁をつなげてもいいけど、ガムテープじゃ強度がな……まあ歩きながら考えよう。邦彦も考えてくれ」


 次に行ったホームセンターは、バイク屋よりも数段厳しかった。死にかけがいたるところをさまよっている。じいちゃんが何体かに木刀を口の中に叩き込み、倒しては喉を踏みつぶす。日用大工の道具がおいてある二階へ向かった。じいちゃんが大柄な相手の息の根を止めたところで、どっかりと床にあぐらをかいた。


「年だ。息が続かねえや……」


 下を向いて息を整えるじいちゃんの背中を支える。たしかにじいちゃんは強かった。打つ時の一瞬の判断は学校の連中なんか比べ物にならない。けれど、マンガやアニメの達人とは決定的に違うところがあった。動ける時間だ。一回に二分。それが終わったら十分以上休まないと体が持たない。駆けまわりながら縦横無尽に何十人もたたきのめす、マンガやラノベのヒーローじゃなかった。これが人間なんだと現実をたたきつけられた。


 じいちゃんがコンビニから持ってきた栄養ドリンクで、漢方薬を流しこんだ。僕には飲むなって言っていた補中益気湯ほちゅうえっきとうってやつだ。


「あとでぐたっと疲れが出るから使いたくねえけど、もう仕方ねえ。寝られるところで寝るしかねえな……」


 もう待ったなしなんだ。いままでは思い切りよくできる自信がなくて腰が引けたけど、もうそんなことは言ってられない。ビンを投げ捨ててえいやっと立ち上がるじいちゃんを見て、ついに言った。


「じいちゃん。次に出たやつ殺すよ」


 落ちこぼれでもいい。自分の剣道でいいなら、それを使う。じいちゃんが僕の目を見上げ、荒い息を継ぎながら言った。


「やれるか」

「うん。じいちゃんにもお墨付きもらえてるし」


「そうか。やるか」

「うん。怖いけど……」


「……いつかはそうすることになるしな。よし、やれ。いいか、誰でもあんな奴ら相手すんのは怖い。じいちゃんだってだ。そういう時はな、まず自分が怖いと思ってるって気がつけ。俺は怖くて震えてるんだなと。その気持ちに気がつければ、まともに力抜いて動けるようになる。やってみろ」


 言って、じいちゃんがかついだ木刀を僕に渡した。作業着をつってある棚の横に一人、背の高い髭が歩いている。


「あいつ、やってみる。大きいけど」

「心配すんな。じいちゃんがさっきやったみてえに、まず胸突け。突きはできるか?」


「やったことない。中学生は禁止だし」

「形はわかるだろ。中段に構えて、そのままほんのちょっと踏み込むだけだ。手をグンと伸ばすんじゃねえぞ。腕と肩の力抜いて、足と腰で当たれ。面を小さく打つつもりで胸のあたり狙ってみろ。崩したら横に振り抜いてこめかみを殴って倒す。できそうか」


「……やってみるよ」


 答えて、一歩、一歩、相手に近づいた。


 髭をたてた大柄な死にかけが、片足をこちらへ踏み込んだ。それに合わせて、木刀を正眼に構えた。


 初めて出た試合を思いだした。怖くて全然動けなくて、一方的に打ちまくられた時のことを。あの時とは違う。これは剣道じゃない。視線が相手とぶつかりあう。片手を上げて僕のほうに向かった時。僕も前に足を踏み出した。


「シッ!」


 静かに息を吐いた。ずん、と木刀の切っ先が胸の真ん中にあたった。抵抗が両手にぐっと伝わってくる。死にかけはたたらを踏んで下がったけど、崩れずに向かってくる。


「もう一度いけ」


 じいちゃんが僕の背中に声をかけた。ガツッと胸の中央に木刀がもう一度めり込み、今度は大きくのけぞった。振りかぶって横から面へ打ち込む。パアンと乾いた音に続いて、大きな死にかけは頭から倒れた。


「うまいぞ。横に回って首を叩き折れ」


 素早く開き足で倒れた男の右へ移動する。床から見あげる目が僕の顔を追っていく。手を伸ばす。その前に木刀を顔に叩き込んだ。首が折れた。ぐっしょりと背中が汗に濡れる。どっと疲れが押し寄せてきた。すぐにしゃがみこんでしまいたい。こんなことをじいちゃんは何度もやってたんだ。


「よし、初勝利だな」

「疲れるね……それにかわいそうだ」


「悪いことしてねえ奴の頭つぶすんだからな。でもな。そんな時、一つだけ自分を救う方法があるんだ。生きてていい理由があるんだ。それがユミちゃんだ。邦彦は人殺しになるんじゃねえ。ユミちゃんを助けようとしたんだ……まだ動いてるな。動かなくなるまでやれ」


 奥歯をかみしめてもう一度木刀を構え、下に振る。何度も、何度も。五回くらい叩いたあたりで首から上はつぶれたまんじゅうみたいになって、もともとの顔は全くわからなくなった。どろっと黒い血が床に広がった。


 今までの考え方は通用しない。頭がおかしくなりそうだ。でも、おかしくなるわけにはいかない。生きなければならない。ユミのために。


「次だ」


 じいちゃんが反対側を指さした。木刀を握りなおす。苦しい気持ちを胸の中に押し戻しながら、黒檀の木刀を正眼に構えなおした。

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