第29話 希望を迎えに行く

 何度ももう無理だと思った。ここまで来るなんてできないと思っていた。予想なんてなんの意味もなかった。ただ、現実がここにある。最上階にうごめく姿は、もう敵でもなんでもない。うずたかく積もっていく遺体を背に、僕は廊下を進んでいった。


 六階から完全に音が消えた。いくつ斬ったかもう覚えていない。食堂についた。懐紙で血を拭って刀を納め、震える手でノックした。何も反応はない。鍵もかかってない。ゆっくり開けたけれど誰もいなかった。音も臭いもない。中に入った。


 食堂はベランダに出られるようになっていた。でも窓が開いていない。誰もいない。誰も。どこかに逃げたんだろうか。外のトイレに行った? いやまさか。隠れているんだろうか? ドアの内側から鍵を閉めて、慎重にくまなく部屋を調べる。


 いない。どうして? ここにいないだけか?


 最上階の食堂って言ってたのに。ここから動かないって言っていたのに。もう僕が来ないと思って出たんだろうか。もう一度、窓からベランダを覗き込んだけれど外には誰もいない。生きてる人も、死にかけも。


 食堂の中央で机の上に座った。どっと疲れがあふれ出てきた。このままだと暗くなる。電気がないのに外へ出るのは無理だ。とにかくいない。いないということは、ここにいても意味がないってことだ。


 僕一人で逃げられるか。逃げられる。逃げられるだけの体力を残しながらここまで来た。外へ出ることはできる。でも行くのか。ユミなしで?


 もう少しこの部屋を探してみるか。なんだかわけがわからなくなってきた。もともとユミを助けるためにここに来たんだ。死んでたらどうしようとも、いなかったらどうしようとも考えていなかった。


 僕がユミならどうする。ラインにメッセージを入れるとして、嘘を入れるだろうか。そんなことはしないだろう。


 やっぱりスマホの電池がなくなったから、イチかバチか、外へでるために突破しようとしたのかも。いや、そんなはずはない。考えを繰り返す。絶対にここから動かないって話だ。


 他の人が助けてくれたなら、あるかもしれない。でも外があんな状態なのに、わざわざここへ? 来るにしたって薬を取って終わりだろう。警官や自衛隊が動いているなら気がついたはずだし、殺された死にかけがもっとたくさんいるはずだ。


 駄目だ、どうしてもわからない。いや、わかるはずだ。疲れるな。休みながら考え続けろ。


 ゆっくりとドアを開けた。のたうち回る上半身や首を踏みつけながら、周囲を見渡す。この中にもしユミがいたら……いや、考えても仕方がない。真っ黒になっているこいつらは見分けはつかない。髪型もあいつもあいつもユミにも見えるし、違う気もする……


 遅すぎた。


 心の中のつぶやき声をかき消した。


 お前が殺した。


 もう一度その声を押し殺した。流れる汗が冷たくなっていく。


 そこで、ふと振り返った。


 職員用食堂と書いてある。気が付かなかった。二つに分かれてる。ドアは鍵がかかっている。軽くノックした。


「ユミ」


 大きな声は出さないようにした。そのせいで変な声になった。ユミがいるかもって緊張で、さらに変な声になった。


「ユミ」


 がさっと奥から音が聞こえた。続く、ずるりと足を引きずるような音。兼定を握り直した。最悪のことを考えたけれど、心は意外なほどに落ちついていた。音は近づいてくる。ドアを挟んで、目の前に人の気配があった。


「ユミ」


 さっきよりも整った声が出せた。鍵の音。ゆっくりとドアがきしむ。


 ぼろぼろに崩れそうな真っ黒な体。続いて強い生ごみの臭いがドアから漏れてきた。くぼんだ目に黒ずんだ頬。それは骨になったような細い指を伸ばしてきた。


「ユミ」


 ゆっくりと、その手が僕の頬に触れた。


「邦彦だ」


 紫色の口が、かすれた言葉を作った。


「邦彦だ」


 言うとユミは真っ黒な顔を拭って、きゅっと目を細めた。笑った。笑顔だ。さがしていた僕の笑顔だ。


 めちゃくちゃな順序で頭の中から言葉があふれそうになった。体の調子はとか、頑張ったねとか、辛かったねとか、何を食べてたとか、どうして時間がかかったかとか、誰に助けられたかとか。でも、口の中が渋滞して何も出てこない。


「邦彦だ! あたしの邦彦だ! あたしの邦彦だ! もう大丈夫だ!」


 飛びついてくる。抱きしめられながら後ろ手でドアを閉めた。ユミが手を重ねながら鍵をかけて、ぎゅっと僕の体にしがみついた。


『女子は臭いに敏感だから』

『汚れてるんだから、いきなりくっついたりしちゃダメよ』

『浮かれすぎないで、昨日あったように自然にしたほうが』


「ユミ。たすけに……」


 言い終わる前に唇がふさがれた。今まであったことがなにもかも頭から滑り落ちていった。ぎゅっと力強く体を抱きしめた。細い体だ。こんなに細かったんだ。


 リュックサックを下ろして机の上に置く。話したいことがあったけど、聞きたいことがあったけど、なにもかも忘れてきつくきつく抱きしめた。これまでのことも、これから先のことも関係なかった。


 世界なんてどうだっていい。


 ユミといられればいい。


 ユミだけが好きな人だ。

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