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 一人、森の獣道を歩む。

 青き夕闇はすでに漆黒の宵闇へと移り変わり、月明かりさえも枝葉に遮られ、焚き火という唯一の光源から離れると肉眼ではもう何も捉えることはできない。

 確か暗順応は明順応よりも遅く、一〇分から三〇分程度かかるのだったか。

 目が慣れるまでは、あまり速く動けないな。


――さて、何をして時間を潰そうか。

 セレスティアが落ち着くまで、しばらく帰らない方がいいだろう。

 いや、逆だな。

 落ち着くべきは、むしろ俺だ。


 普段なら、あんな責めるような口調は使わなかったはずだろ?

 あの子に説教でもしている風だったが、実際は声を荒らげることで、自分の中の鬱屈した想いを晴らそうとしていただけではないのか?

 冷静でいたつもりだが、ふとしたはずみでその仮面が崩れてしまった。

 俺もかなり、ストレスが蓄積されているらしい。


 なら、一人になってするべきは、ストレスの発散か。

 この暗い森の中でどうやってストレスを発散させるか――ちょっと思いつかないな。

 自然界にあるもの、草木で遊ぶ方法なんかも知っているが、前提条件として昼間の明るいうちにってのがついてくる。

 雲に遮られて星も見えない今夜みたいな状況では、できることも限られるわけだが……。


 そんなことを色々と思案しながら歩いていると、不意に何かに見られているような気配を感じる。

 足を止めて自らが出す音を消し、周囲の物音に耳を傾け、どんな方向からの攻撃でも対応できるよう重心をニュートラルな状態へ――自然体で、立つ。


……聞こえてくるのは、風に奏でられた葉擦れの音ばかり。

 しかし、嫌な視線は感じる。

 暗闇の中に、何者かがいる気配。

 まさか、昼間殺した男共が化けて出たか?

 だとしたら、霊の対処方法なんて持っていないから少々面倒だな。


 冷たい風が通り過ぎる。

 背後から何者かの奇襲。

 首筋を狙って飛び掛かって来たソイツを、俺は膝関節の力を抜き重力に身を引かせることで躱しながら、股関節の開閉を以て振り向きつつ【抜刀】と斬撃を同時に繰り出す。

――筋繊維が悲鳴を上げた。

 昼間の戦闘による負荷が身体各所に響いている。


 手元からは柔らかな肉を絶つ手応え。

 降りかかる水滴は返り血。

 背後で水気を含んだ重たい物が二つ落ちる音。


 振り返り近寄って、改めてよくよく観察すれば、ソイツは狼のようだった。

 最も、すでに正中線で真っ二つになっていて判別は難しいが。


 そしてもう一つ、俺の手に握られた刀――咄嗟に左手を前にして振った刀は、刀身も柄も全て【真っ白】な、父さんから夢で譲り受けた刀で……。

 いや、あれは夢ではなかった、ということか?

 霊夢、というやつだったのかも知れない。

 寝ている間に、霊界あるいは幽界との交流により見る夢だったのかも。


 ついでに右手にも意識を集中させれば、【黒刀】も出てきた。

 とりあえず、今日一日で俺は二本の霊刀を手に入れたらしい。

 左に白、右に黒。

 これでバランスが取れたってところか?

 何故か、【黒刀】に感じていた気味の悪さも、いまはあまり感じない。


 さて刀に関しては一旦置いておくことにして、いまは襲撃してきた狼のことを考えるべきだろう。

 こいつらは基本、群れで生活する。

 一匹みたら十匹は覚悟しないとな。

 次なる襲撃に備えて重心を下げつつ、狼の出てきた方向へと足音を消して移動開始。

 自分の出す音を消すのは、相手に気づかれないためと言うよりは、相手の音を聞き漏らさないためだ。

 あちらはすでに、夜目と鋭い嗅覚でこちらを捕捉していることだろうし。


 案の定、低い唸り声を上げながら、周囲に複数の気配が出現した。

 すぐに飛びかかってくるわけでもなく、様子を見ているらしい。

 仲間が殺られたことを理解しているのか?

 けっこう慎重な性格してんだな。

……でも流石に複数同時はキツイぞ。


 だが、いつまでも膠着状態なんて面白くないし、時間の無駄だ。

 俺は敢えて隙を見せるべく、とくに身構えず自然に歩きだす。

 まるで、狼たちの存在など意にも介さぬ風を装って。

 狼たちはそれでも仕掛けて来ない。

 俺を取り囲んで一定の距離を保ちながらついてくる。


 何故だ?

 どうしてここまで慎重になる?

 ふと、闇に光る双眸が――狼たちの視線の先が、俺のやや下方、両手から力なくだらりとぶら下げた、【双刀】に注がれていることに気づく。

 まさかコレに怯えているとでも?

 試しに一旦引っこめてみる。


 そしてまた、歩み寄っていくと……変わらない。

 俺の武装を解除しても、奴らの態度は変わらなかった。

 特に目的なく進んでみても、わざと背や側面を見せながら歩いてみても、ただ遠巻きに眺めるだけ。


 いや、これは……誘導しているつもりか?

 包囲網の中で一方向だけを開けて、俺がそっちへ進めば何もせず、閉ざされた方位――狼が居る方へ向かうと後退しながらも周りから増員が来て、明らかに進むのを拒んでいる。

 そっちに進むと何がある?

 俺を殺せるだけの罠でもあるってのか?


――面白い。

 こうなったら、この狼たちの思惑に乗って遊んでもらうとしよう。

 殺るか殺られるか。

 この生命の価値を試してやる。


 草木を掻き分け、やがて開けた場所に辿り着く。

 そこは、暗がりでも尚、見覚えのある場所だった。

 雲の隙間から月明かりが差しこみ、その実像を浮かび上がらせる。


――血臭ただよう肉塊置き場。

 地に転がるのは、六つの死体。

 群がり貪るのは、無数の狼たち。

 そこは昼間の、戦闘跡地だった。


「ハッ……ここがオマエらクソ犬共のパーティ会場か? お招きにあずかり光栄だね」


 返答の代わりに、暗闇でもギラつく眼光が一斉に俺を射抜く。

 見える範囲で確認しただけでも、三〇匹は居るな。

 口からしたたる朱い液体と、臓物の断片、引きずり出された腸。

 コイツら、人間の味を覚えちまった。

 例えこの場から逃げ延びたとしても臭いで追ってくるだろうし、残してきた二人も狙われる。

 昼間に撃退しても、暗くなったら寝首を掻きに来るだろうし、この先おちおち寝てられないってことか?

……なら面倒だが、全部殺るしかない。


「チッ……死体の始末くらい、ちゃんと付けとくんだったな」


 死体広場に入った途端、包囲しながら誘導してきた狼たちの陣形が狭まり、一斉に飛びかかってきた。

 前後左右、上下からの挟撃。

 眼前から首筋狙って飛びついてくるのに合わせて、後方からは足首を狙って低く地を這い肉迫してくる。

 速い――最高時速七〇kmを叩き出すその四肢には、こんな近距離の間合いなど無いに等しいか。


 組みつかれ噛みつかれるその刹那、俺は横に体を開きながら身を沈め、狙われている部位を攻撃軌道上から外し、代わりに、【白と黒の刃】をそれぞれの顎の先へと置いておく。

 後は、その突進力に依って自ずと切り裂かれていくだけ。

 俺は全身の関節を固定し、その衝撃を受け止める。

 斬れ味の鋭さ故か、思いの外、衝撃は少ない。

 まるで、良く研いだ包丁で熟れたトマトでも切るような、その程度の感触だ。


 動きの止まった俺に、第二波が強襲する。

 別角度からの更なる挟撃は、切り裂く刀を支えて静止している腕と、両手を広げてガラ空きの腹部。

 どちらか片方でも噛みつかれれば、そのまま引きずり倒されて終わるだろう。

 一回たりとも攻撃を貰うわけにはいかない。


 息を吸い込み溜める。

 各関節の固定を解除し、頭部半ばまで食いこんだ刀身を血飛沫と共に捻り抜き、膝と股関節の螺旋開閉にて独楽のように身体を水平回転させながら、迫り来る二匹の首を刎ね落とす。

 絞りこまれた身体から自然と鋭い呼気が吐き出された。


 そのまま腰を下ろすように重心を倒して後方へと移動。

 第三波が到達する前に間合いを詰め、振り向かず後方へと【白黒の双刀】を突き入れる、

 両腰に鞘が付いていたとしたら、双刀を逆手で納刀するように、口内から後尾までを水平串刺しに。


 その空中に縫いとめられた屍の上から、さらに二匹が飛びかかってくる。

 同時に前方からは三匹が、崩れ落ちる同胞の死体を掻き分けながら突進してきた。

 休む暇も、考える暇もない。

 動きの止まった状態を長く続けてしまったら、それこそ直ぐに死ぬ。

 次の捌きをどうするか、思考が追いつかずに無様に双刀を振り回しながら空いている方向へと飛ぶ。

 身体を加速させ、翼を開いて空へと一時的に避難し、長く飛ぶ力もないので少し離れた場所に身を下ろす。

 気づけば数カ所……牙と爪により出血させられている。


 さて、困ったな。

 この広い場所での乱戦は、確かに奴らに分がある。

 わざわざ誘導するだけのことは、あるってところか。


 多方向からの同時攻撃は、もう躱せない。

 敵の攻撃速度、軌道を計算し、適切な対処方法にて身体を操作して迎撃する必要があるが、現状の能力では難しいな。

 昼間の戦闘での【加速】乱用の結果、筋繊維の大半が損壊している。

 的確な状況判断を瞬時に行うべき脳も、悲鳴を上げていた。

 考える時間が足りない、と。


 もう少し賢い頭を持っていたら、こんな悩みには遭わなかったのだろうけど、いかんせん俺の頭は平均的な能力しかない。

 趣味の読書にて無駄な知識が増えている分、マセているだけだ。

 咄嗟の判断、機転に関しては、これほどの状況になるとパニックを起こし、途端に鈍く、遅くなる。


 判断の早さを上げられれば……思考を加速できれば?

 やったことはないが、試してみる価値はあるか。

 自分の【脳を加速させる】という所業を。


 思い立ったなら即実行。

 瞬間――【世界が遅く】なる。


 一斉にこちらへと向かってくる狼たちの、剥き出しの牙。

 力が入ることで皺が刻まれたアゴ周りの筋肉。

 躍動する四肢の流麗な動き。

 それらを観察できるだけの余裕が、生まれている。


 まるで、スローモーションの世界にでも迷いこんでしまったみたいに、現実感が乏しい。

 俺の身体の反応も、鈍くなった。

 いつもの自分の身体を動かす感覚とは違う。

 水の中にいるみたいな……何かしらの抵抗、あるいは枷があるような動きの鈍さ、反応の遅さを感じる。


 でもコレは、周りが遅くなったのではなく、俺の脳内が物理的に速くなった結果か。

 身体への負担を最小限に抑えて効率的に敵を減らすよう動ければ、このまま戦い抜くことができそうだな。


 試し斬りをしてみよう。

 敢えて何匹か群がっている所へ飛びこみ、その反応を見る。

 先ほどと同様に、一瞬面食らった様子はあったものの、同時に飛びかかってきた。

 遅い――欠伸が出るほどに遅い。

 俺は双刀を水平に構え、その場で一回転した。

 円を描く刀身は、空中で同程度の高さにいた四匹を全て上下に二分していく。

 続く二回転目で刀身を下げ、地を這ってきた三匹の頭部と前足を斜め上から切断。

 舞う血飛沫も、無重力空間を漂うが如くに遅く、一粒一粒までが鮮明に見える。


……いい気分だ。

 コレなら、このバカみたいな数相手でも立ち回れるだろう。

 対応力に余裕が生まれたことで、心にもかなり大きな余裕が生まれた。

 むしろ、圧倒的なまでの万能感に包まれ、高揚していると言っても過言ではない。


 なんだ、案外良い気分転換になりそうだな。

 命のやり取りの中で、一つ失敗すれば死に繋がるような状況下で、むしろ俺は、ソイツを楽しんでいるらしい。

 戦闘狂――明らかに、何か異常な精神状態にあるのかも知れないが、いまは、この享楽に溺れよう。


 殺す。

 警戒して身を竦ませる一匹の側面に回りこみ横っ腹を下から掻っ捌くと、臓物が豪快に舞い上がり血の花を宙に咲かせる。


 殺す。

 飛びかかった直後に目標たる俺が移動し、その姿を見失った愚かで哀れな一匹を斜め後方から断頭。

 身体は地に堕ち、頭だけ血の噴射で飛んでいく。


 殺す。

 振り向き様に地を這う一匹を串刺しに。


 殺す、殺す殺す。

 そのまま駆け出し、すれ違うごとに刀を振るい、乱雑に斬り飛ばしていく。


 殺す殺す、殺す殺す殺す殺す。

 気づけば――俺は嗤っていた。


「あは、あはっははははははは! ははははっはははははははあは、はははは!!」


 迸る血が、千切れる四肢が、肉を裂く感触が、命を絶つ――その刹那が。

 こんなにもこの身を焼き焦がし、震わせるとは!


「なんだ、もう終わりか!?」


 狼たちが攻勢を弱めている。

 飛びかかって来なくなり、それぞれ徐々に後退し始めていた。


「逃がすかよ……!」


 俺は更にその背後に回りこみ、退路を塞ぎつつ灰色の毛が覆う狼の肢体を斬り刻む。

 夜襲の心配は、少しでも減らしておきたい。

 不安要素は残さず刈り取る。

 なんてのは、もう過去の言い訳だ。


――くぅぅん。


 か細く、小さく高い鳴き声。

 それは、血溜まりに沈む狼の亡骸に縋りつく、一回り小さな、若い狼が出した声。

 親と子、だろうか。

 思わず、振り上げた手が止まる。


 全て殺すと決めた――のに、その小さな狼に手を下せない。

 殺るべきか、否か。

 大抵の動物は、野生で生き抜くためにも人と比べると短期間ですぐに大きくなる。

 いまここでコイツを見逃せば、すぐ脅威になって戻ってくるかも知れない。

 この森から、いつ出られるかも分からないのだ。

 後顧の憂いを絶つためにも、ここで全て刈り取るべきだろう。


 けれど……それで本当に良いのか?

 どんな理由を並べ立てようとも、どれも全て俺の、自分の都合でしかない。

 自分の都合次第で相手を、殺す。

 その行為は、あの【黒死魔性フォビュラ】共と何が違う?

 親を殺したあの黒い怪物共といまの俺と、どこが違うってんだ?


 俺はこの狼の親も、その仲間も殺した。

 生きるため、生き残るために他の生命を奪い続けている。

 生きること、生きるために殺したこと、これからしようとしていること、もう取り返しのつかないこと。

 何が正しいのか、どうすれば正解だったのか、どうすべきなのか。

 思考が巡り、収拾がつかなくなったとき――俺の意識の外にいた狼が動き、若い狼を咥えて、走り去った。


「……興醒め、とは、このことか」


 腕を下げて、刀を消す。

 背を向けて、歩き去る。

 この場にいる理由は、もうない。

 俺を止める者もまた、然り。


 あんなに火照っていた頭が、心が、もう冷めていた。

 動き回った身体の熱はまだ残っているが、それだけだ。

 俺が歩き出したことで、金縛りが解けたみたいに散り散りに逃げ出す狼たち。

 その動く気配を感じながら、特に警戒せず宛度もなく歩き続ける。


 暗い夜道を、その先の暗闇を見ながら、想う。

 世界はどうして、こんな形をしているのだろうな?

 闇に問うても、答えなど在りはしないというのに。



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