△Ⅲ
翌朝、行軍開始に当たって、まずは偵察係の俺が上空からルートの確保を行う。
出来ることなら、俺がアルミナとセレスティアの二人を抱えて飛べば良いんだろうけど、そこまでの力は、残念ながらいまは無い。
現在の目標は、進行方向の途中で野営できそうな場所、水を確保できそうな場所など、生命維持に必要最低限な要素が揃った中継地点を探すことである。
人の手が及ばぬ豊かな森であることが幸いし、食糧の確保はこれまで通り問題無さそうだが、人の手が入っていないが故に草木は鬱蒼と茂り、野営に適した平坦で開けた場所というものは少ない。
「さて、どうするか……」
眼下に広がる緑の絨毯へと、思わず独り言が落ちる。
空から見ると、本当に隙間のない絨毯みたいなものだ。
樹々の葉でまず地面が見えないし、見えても背の高い草が覆っている場合がほとんど。
これはいっそ、草刈りでもすべきか?
……実際そうするしか無さそうだな。
水分確保ができそうな場所の近くで、平坦な場所を見つけて野営地としよう。
ある程度の方針が定まったところ飛行進路を反転し、野営地へと戻る。
数kmほど引き返し空から降り立つと、二人はすでに出発の準備を終えていた。
「おそーい! どこまで行ってたのよ!」
まずはぶんむくれのお嬢様よりご歓待を受けることに。
自然素材によるお手製のバックパックに水と食糧を詰めこんで背負いこみ、早く行かせろと言わんばかりの前傾姿勢を取っている。
「お帰りなさい」
アルミナは樽ほどの大きさの小岩に腰掛けたまま、その様子を見て苦笑していた。
セレスティアの態度について宥めようとしないけれど、そろそろ手に負えなくなってきたのか?
あるいは、この程度なら放置で良いや、という判断かも知れない。
「どこまで行ってたかと聞かれれば、直線距離にして三km先ってとこかな。歩くと起伏とか迂回する必要もあるから、数字的にはもう少し増えるだろうね」
「そういう答えを聞きたいんじゃなーい!!」
「…………」
自分の意に沿わぬ返答が来て、地団駄を踏むお嬢様。
面倒な奴だ。
いままで貴女の周りは自分の言いなりになってきたのだろうけど、今後は違うということを早く学習して頂きたい。
しかしそんなことを一々指摘したところで火に油を注ぐだけなのはこれまでの生活で分かりきっているから、ここは俺が折れてさっさと先に進むべきだな、
「……お待たせして悪かったな。大体の中継地点は見定めてきたから、出発しよう」
「……ふん! 次はもっと上手くやることね!」
「そうだな、頑張るよ」
……俺はオマエの部下か。
いままで生きてきた中で、他者のほとんどを下に見てきたのだから仕方ない部分もあるだろうが、その人々も仕事で下に付いていただけで、年齢、知識、経験の差で言えば、本来敬うべき相手であったろうに。
基本的に上下関係を求める奴は嫌いだ。
職場や学校など、そこで定められたルールの範囲内による命令ならばある程度従うが、そこから一度逸脱したなら、それは赤の他人からの理不尽な要求に他ならない。
自分が人にやられて嫌なことは、自分も人にするな、と教えられなかったのか?
それは他者を自分と同じ、【同格の人間】だと見做す視点であり、人との関わりにおいては必須事項だと思うのだが。
どんな関係性においても他者を見下すべきじゃないし、下から上に、無駄にへりくだるのも無益だ。
それは、相手が上だと思ってしまったら、本来指摘すべき事柄も言えなくなってしまうことが多々あるから。
自分が属する組織内において相手が上でも、その立場は弁えたままで、言うべきことは言える、という状態が理想だし、逆に自分より相手が立場的に下だからと言って、上から意志や価値観を押し付けるような行為は他者の自由に土足で踏みこむものであり、人として間違っている。
集団社会の中で生きていくならば、そういう上を敬いつつも依存せず、下を指導しながらも尊重するような心構えは必要だろう。
目の前のコイツにもそれをどうにかして伝えたいが、一度に全て喋っても伝わらないだろうし、いまは理解できる時期では無いかも知れない。
今後、少しずつ小出しにしてみるか……。
いまは、とにかく日の高い内に動いておかないと。
「じゃあ、そろそろ出発しようか」
「ええ」
「わたしが先頭だぞ!」
「……お好きに。方角はあっちだ」
意気揚々と明後日の方向へ歩きだすセレスティアへ、正しい方向を指し示す。
「こっちか! よし、いくぞー! ……ん?」
その方向の、鬱蒼とした背の高い草花を見て、セレスティアが止まる。
明らかに、草花の方がセレスティアよりも背が高い。
そのまま突進したら間違いなく埋もれて迷子になるだろう。
「先頭は……ルフィアスの方が良いんじゃない?」
アルミナが苦笑しながら提案すると、セレスティアは押し黙りながら肩をぷるぷると震わせて。
「……わかった」
一言、絞り出すようにそう言った。
どんだけ苦渋の決断なんだよ。
先頭に立ってリーダー的な役割を演じたかったのだろうか。
まぁその気持は分からんでもないけど……。
開けた道に出たら、先頭を譲ってやろう。
「そんなに先頭をやりたいなら、見通しの良い道に出たら交代してよ」
「むむ……たのまれてしまっては、しかたないな」
仕方ないとか言いながら、ニヤけてる……。
抑えきれぬ歓喜が、横にぷいっと目線を逸したその顔に出てますけど。
「ふふ。良かったわね」
「な、べ、別によろこんでない!」
出会って間もない頃のお嬢様言葉はどこへやら。
段々と余所行きの皮が剥がれ、口調が雑になってきたな、コイツ。
まぁ……いまの方が、年相応で自然か。
いつまでもここで無駄話をしていても日が暮れてしまうだけなので、俺も荷物を担ぎ、先陣を切って歩き出すことに。
「んじゃ改めて、行こうか」
「ええ」
「うむ!」
二人の返事を聞き、俺は進行方向へと向き直る。
茂みに近づきながら、白と黒の双刀を顕現させ、背の高い雑草の壁を左右から同時に薙ぎ払う。
左右から挟むハサミの効果は、柔らかい物を切るときにこそ発揮される。
風が吹けば倒れてしまうような薄くて柔らかい物――例えば紙のような物は、片側から切りつけただけではそれこそ風圧で曲がってしまい、刃の進入角度に対して紙が曲面になり、切れないこともあるだろう。
綺麗に切るには、何か力を逃さぬ工夫が必要だ。
固定するか、いま俺がやったように、左右から挟むか。
腕が交差したあと、ほとんど抵抗無く切れた大量の雑草が、地に倒れ伏す。
その上を一歩、二歩と進みながら左右の腕を切り返す方向に振り、次の雑草群も挟むように薙ぎ払う。
スパッと爽快に切れて、またその上を進み、切る。
歩きながら息をするようにその作業を繰り返し、道を造りながら歩いて行く。
「あ、バッタ!」
時折後ろから、はしゃぐ声が聞こえる。
次いで脱線し、寄り道する気配。
「ほらセレスティア、あそこにカブト虫も居るわよ」
「おお! でかいぞ!」
意気揚々と白いワンピースで木登りなんぞをし始めるガキ大将は意に介さず、俺は黙々と草を刈り続ける。
初夏ということもあり、様々な昆虫が発生しているようだな。
刈れば刈るだけ、その下で蠢く無数の何かが駆け回る。
虻や蚊など、鬱陶しい羽虫も多い。
ふと視線を自分の腕に落とせば、白い肌に浮かぶ複数の赤い腫れ……気づけばいつの間にか食われているんだよなぁ。
どうにかしたいものだが、ここには殺虫剤などあるわけも無し。
……あ、そう言えば、燃やすと害虫除けに効果的な煙を発生させる木があったな。
道中、見つけたら試すことにしよう。
草刈り作業を続けながら、脳裏で対象となる木々の特徴を思い出そうと、記憶を辿る作業も平行して開始。
考え事をしながらでも、脊髄反射の如く腕は規則的に動き続けていた。
まぁ切って切り返しての、たった二段階の単純動作だしな。
簡単で当たり前か。
進みながら見渡せば、周囲は相変わらず背の高い木々が多い。
この辺は広葉樹が多いようだ。
気候が温暖な証だな。
植物の分布は気温に影響される。
この地球上で温暖になる条件としては、『緯度が低く赤道に近いこと』か『標高が低く地表に近いこと』の二つが主に挙げられるだろう。
現在地で言えば、いまは見えない地表から、標高二〇〇〇~三〇〇〇ほどでこの浮遊群島は滞空している。
高度を上げた分気温は下がっているので、動植物の生存条件は地表に在った時よりも厳しくなってしまう。
その対抗策として、緯度を下げて気温を維持することにより、元の状態に近づける工夫が試されてきた。
その甲斐あってこの辺には、元々の生息域が低地の植物も、高地の植物もある。
なら大抵の物は揃うはずだ。
思い出せ、虫除けに有効な植物を……。
確か、幅は細めだが皮みたいに分厚い感じの瑞々しい葉を付ける高木だったはず。
もしくは木以外にも、色々あったな。
ハーブ類とか、花でも効果的な物があった。
どれか一つでも現物を見られれば、思い出せそうな気はするんだが……。
辺りを見渡してみても、俺の記憶を呼び覚ましてくれる物は無い。
……まぁ、そのうち思い出すか。
一旦諦めて、少し使いすぎたらしく過熱気味の頭の中を空にする。
ぼーっと自然を眺めながら、歩いて行く。
黙々と草を刈り取っていると、たまに変な物が出てきたりする。
ひょろ長い得たいの知れない奇妙な生き物が素早く逃げ去ったり、高く飛び跳ねる虫が眼前を横切ったり、そしていままた、背の高い草を切り落としたその先には、黒く大きな毛だらけの獣が出てきたり……。
「ひっ……!」
一つ後ろで、息を飲む気配。
「あ、危ない! ルフィアス!」
アルミナからの警告が届く頃には、鈍らせていた思考も急激にその集中力を取り戻しつつあった。
ソイツは立ち上がっている。
俺の目の前で、見上げるほどに高く。
鋭い牙と爪を有し、分厚い筋肉の鎧を纏う、森林の主とでも言うべき存在。
「く、くまさん……!?」
セレスティアが、へたりながらヘタレ声を漏らした。
瞬間、巨大な威嚇の声を発しながら飛び掛かってくる猛獣――もとい熊さん。
咄嗟のことでどう動いて良いのか迷い、足を止めてしまって。
爪が俺の顔を抉る前に、思考回路を【加速】する。
――そう思った途端、それこそスローモーション映像のように、目の前の熊の動きが遅くなった。
熊は飛びかかる姿勢のまま、長く滞空している。
双刀を握り締め、一歩踏み出すべく身体を前に倒そうとするが、重い。
あのとき……狼たちと戦ったときと同じだ。
これは、思考速度に身体操作速度が付いていけてないだけ。
なら、身体も【加速】すれば……?
案の定、枷が外れたように思い通りに四肢が動き出す。
一足飛びに間合いを詰めて、刃の軌跡を下方からX型に斬り付ける。
両の脇腹から刀身を食いこませ、ほぼ抵抗なくするりと斬り抜けて切っ先が天に血飛沫を巻き上げる頃には、斬撃の風圧で熊の巨体がバラバラになって吹き飛んでいった。
辺りに撒き散らされる血と臓物の雨。
舞う黒毛と、四肢の残骸。
荒く乱れた呼吸と、高鳴る鼓動の音がやけに耳障りだ。
草むらに横たわるように落ちた熊の身体……いや、もう肉塊と言うべきか。
数個の部位に断裁された肉塊が草むらに転がった、という表現の方が適切に思える。
……恐ろしい。
何か分からないけど、本能的に怖いと感じてしまう。
刃を持つ手が震えて、汗ばんで、遂に双刀を取り落としてしまった。
俺の手から離れた双刀は、重力に引かれるまま地に落ちて行く。
……落ちてから少し経つと、端から徐々に細かく分裂し始めて、空気に溶けるみたいに霧散していった。
「……どうしたの? 大丈夫?」
俺の異変に気づいたらしいアルミナが、背後から声を掛けてくれて。
それで少し、浮いていた思考回路が……地に足を着けられたような気がする。
「いや、何でもない」
「……本当に?」
と言われても、答えようが無いんだよな。
俺にも分からないんだ、この恐怖の正体が。
何故、自分の内から出てきた双刀が、怖いのかなんて。
これまで散々コレで命を奪ってきたくせに、笑い話にもなりゃしない。
「ちょっと、びっくりしただけさ」
敢えて軽く笑みを浮かべながら、茶化すようにそう言った。
「なら、良いんだけど……」
アルミナの顔に浮かぶのは、不安げな表情。
僅かな
「しかし、思わぬ収穫だね……熊の肉は食糧になるから。ちょっと待ってて」
独り言のように一方的に喋って、俺は逃げるように後ろの二人から離れた。
少し先で横たわる大きな死体に、歩み寄る。
俺が最後に切った草の壁で、背の高い草の群生は終わりだったらしい。
熊が居たのは、獣道だった。
俺たちの進行方向と十字に交差するように、細い道が伸びている。
熊の死体の奥は、背の低い草が覆うなだらかな下りの傾斜になっていて、その先には小さな沢があるようだ。
その沢に添うように、獣道は続いているらしい。
辺りの地形を確認しつつ、俺は宣言通り熊の死体を処理し始める。
血抜き……はほとんど終わっていた。
バラバラの断面から一瞬で抜けたのだろうその赤い血は、未だ地に染みこむまで至らず雑草をぬらぬらと光らせ染め上げている。
毛皮を剥ぎ取り、肉を分離しなければならないが、そのためには刃物が必要だ。
刃物……またあの双刀を出して、精神を乱さないだろうか?
精神を乱す乱さないに関わらず、現状、刃物はあれしか無い。
生きるためには使わざるを得ないだろう。
ならば俺は、その恐怖と向き合う必要がある。
目を逸らさず直視して、その正体を見極めねばならない。
俺はあの刃の何に、どうして恐れを抱いた?
恐るべきはその切れ味か?
この双刀の刃は、非常に細く見えるのに強靭で、触れたもの全ての合間に潜りこみ斬り裂いてしまう鋭さを持っている。
もしかしたら、この世の如何なる物質でも、一刀の下に両断してしまうのではないだろうか?
……間違って、軽くでも自分だとか、周りの人だとかに触れてしまったら?
身を守る刃は、一瞬で自らの大切なモノを奪う凶刃と化す。
一歩間違えば自分はおろか、守りたいはずの後ろの二人さえも傷つけてしまいそうで。
俺はそれを、恐れたのか?
自分が、自分の手で、何か大切なモノを傷つけてしまうんじゃないかって……。
俺は彼女ら二人を失うのが、怖くなってしまったのと言うのか。
なら恐れたのは、失敗したときのイメージだ。
双刀の切れ味でも、熊でも無く、俺はまだ起きてもいない未来を恐れた。
恐れて動けなくなって、その結果失敗を招いてしまったら意味がない。
なるべく余計な心配はせず、平常心を保つ努力をしなければ……。
俺は恐れと立ち向かうべく、右手に黒刀を出現させた。
やはり未だ嫌なイメージが脳裏にこびりついていて、気を抜けば直ぐに黒刀を投げ捨てたくなる衝動をぐっと抑え、熊の解体作業に入る。
毛皮を剥ぎ取り、残った血を絞り、肉を切り分け、大きめの葉にくるんでいく。
初夏の暖かな気温の中では長持ちはしないだろうから、昼用におよそ一食分程度を持っていくことに。
残りは放置しておけば、野生動物が食べるだろう。
作業を終えて立ち上がり、近くに気配の無い同行者を探すべく周囲を見渡すと……。
「セレスぅ、そろそろ降りましょう?」
「もう少し……あとちょっとだから!」
一〇mほど離れた木陰にアルミナを発見。
頭上を心配そうに見上げている。
その視線の先を辿れば、金毛の猿……いやセレスティアが枝をよじ登っているところで。
やんちゃな子供とそれを見守る母親みたいな構図になっていた。
「……何してんの?」
「あ、ルフィアス。セレスティアが、ね……あはは」
近づきながら声を掛けると、アルミナは困ったように笑った。
いや、実際困っているんだろうけど。
「そっちは終わったの?」
「うん。この通り」
手に持つ収穫物を少し掲げて見せる。
「じゃあセレスティアを呼ばないとね」
アルミナは一呼吸、深く吸いこんでから、それなりに高い位置で木登りに没頭するセレスティアへと再度呼びかけた。
「セレスー! 出発するわよー!」
「え? う、うわっ」
その声に驚いたらしいセレスティアは手元を見失い、枝を掴み損ねて体勢を崩す。
傾いて、枝の上から空中にはみ出し――落ちそうだ。
俺は手荷物を一旦放り捨て、再度【思考加速】を行う。
落ち始めたセレスティア。
俺は更に身体にも【加速】を掛けて下に回りこみ、落下軌道上の一点で待つ。
衝突時の衝撃を軽減すべく、接触直前で上方加速を消し、そのまま重力に身を少し引かせる。
背中から落ちてくるセレスティアを両腕でお姫様抱っこするように受け、そこから再度少しずつ上方向へ【加速】。
一mほど下がりながら、ブレーキを掛けるように静止させることに成功。
【加速】を解く。
「うえ? あ、うぅ……?」
通常の思考速度で体感していたセレスティアは、何が起こったか分からないという顔をしている。
「怪我は無いか?」
体勢の関係上、間近にある呆け面に向かってそう問いかけた。
「あ、だ、だいじょぅぶ……」
俺と目が合って現状の把握ができたらしく返答があったが、顔を赤らめて俯きがちに発したその言葉は、尻すぼみになって空中に吸いこまれていく。
その様を見て、何かふっと力の抜けた俺は、自然と笑みが溢れてしまって。
「……あんまり無茶するなよ?」
柄にもなく、そんなことまで言ってしまうのだった。
「う、うるさいわね! 別にアンタの助けなんか無くったって、ぜんぜん大丈夫だったんだから!」
「……そか。そりゃ余計なことをして、悪かったな」
「そうよ! ……まったく」
そういうことにしておこう。
背伸びしたい年頃なのだろうし、背伸びした方が成長に繋がる場合もある。
無論、事故に繋がりそうな場合は今後も助けていかねばならないだろうが、流石に本人も命の危険があると身を以て思い知ったのだから、二度も三度も同じような失敗はしないだろう……と信じたい。
「ナイスキャッチ」
笑顔で親指を立てたアルミナに出迎えられる。
俺はそれに苦笑を返しつつ――その背後の異変に目を奪われた。
【黒い霧】……俺が残してきた熊の残骸近辺から、どこかで見たような【黒い霧】が、微かに湧き出していて。
何かの見間違いかと目を凝らしてみるが、やはりアレは――
「……どぅしたのよ。早くおろしなさいよ!」
アヒルみたいに唇を尖らせて抗議してくるセレスティアを尻目に、俺は返答に窮する。
「い、いや、アレ……」
辛うじて出た俺の声と視線を辿って、アルミナとセレスティアも、そちらを見た。
途端に、強張る二人の表情。
黒い霧が、【真っ黒な影】が渦を巻きながら一点に集まりだしていて、いままさに像を結ぼうとしている。
実像なのか虚像なのかは曖昧だが、間違いなくそこに【在って】脅威となる、あの黒き化物の姿を――
「ま、まさか。嘘でしょ?」
アルミナが無意識的になのか後退りして、腰が抜けたように座りこんでしまった。
――そこを、アルミナの上半身が在った空間を【真っ黒な腕のようなもの】が雷撃の速度で薙ぎ払う。
「ひっ!」
咄嗟に顔を両手で覆うアルミナ。
幸いにも尻もちをついていたお陰で【黒い腕】はかすりもしなかったが、追撃がくるとまずい。
しかもいまのは草葉の影から出てきた。
熊の死体周辺に湧いた奴とは違う個体か?
……複数同時に湧いている?
とにかく、背の高い草に囲まれたこの場では視界が塞がれていて不利だ。
俺はセレスティアを肩に担ぎ直し――
「うわっ」
アルミナに駆け寄って腕を引っ張り助け起こす。
「あ、ありがと……え、ちょっと!」
「いまは逃げる方が先だ!」
アルミナの荷物を剥ぎ取り捨てたことへの抗議を怒声で弾き返し、アルミナの腹部辺りに肩を押し当て、そのまま担いで飛翔する。
「きゃっ」
真上に飛び上がる俺たちを、直後に地より伸び出た【黒い腕】が追ってきた。
どっからでも出てくるのかよ……節操ねぇな。
その異質な腕に汚されるよりも速く、近くの木の幹に蹴りを入れて、後方宙返りをしながら軌道変更。
移動先にあった太めの枝の上に一旦乗り、状況を確認する。
地面から伸び上がった【黒い腕】は収縮しながら戻り、そこから新たな一体の【
雑草の中にも、黒い何かがウヨウヨとひしめいているのが見て取れる。
きっとどれもお仲間なんだろう。
大勢でご苦労なこった。
この場は逃げの一手が最善か。
複数同時に相手するより、引き離して個別に撃破した方が良い。
……って、撃破だと?
俺は、アレと【戦うつもり】なのか?
心も身体も震えている。
……でもそれは恐怖から、だけではない。
正に、武者震いとでも言うべき高揚感が胸を高鳴らせる。
自然と刮目し、筋肉が爆発に備えて弛められ、手足の先まで神経が鋭く尖っていて。
「……ダメよ。いまは逃げることだけ考えて」
不意に、横から冷水を浴びせられたみたいだった。
肩に担いだアルミナが、その声を発したらしい。
「しっかりしろ、ルフィアス!」
毅然としたセレスティアの声にまた、俺は現実へと引き戻される。
……憎悪の毒気に当てられていたか。
俺はいま、どんな表情をしていた……いや、しているのだろう?
表情筋の強張りが、自分でもなかなかほぐせない。
「……ごめん。飛ぶよ」
「うん!」
「あぁ、速くしろ! くるぞ!」
セレスティアの警告――それを引き起こした主を目視することはせず、即座に飛び立つ。
死角から迫っていた何かの一撃が、直前まで俺たちが居た枝葉を粉砕した。
それに構わず上昇。
樹々の頭を越え、三六〇度、視界が開ける。
重厚な轟音が大気を、大樹すらも震わせた。
大地が……浮遊群島がまた割れている。
「あ、あれ! 地面が……」
アルミナの声に釣られて音のする方向に目をやれば、局所的に樹々の頭が下がり始め、そのまますっぽりと抜け落ちていく途中で。
まるで地面ごと、その空間が抜き取られていくようだ。
そんなことが、周りを見渡せばあちこちで起こり始めている。
……この大気を震わせる轟音は、恐らく大地同士が摩擦により振動している音なのだろう。
大樹は音で揺れているのではなく、その根元たる大地自体が揺れているのだ。
では何故それが起こっているか?
その答えは明白。
さっき遭遇した【
またアイツらが、間髪入れずに攻め入って来たらしい。
三日前にアキノスを落として、今日はこの森か。
かつて、これほど連続して襲来されたことがあっただろうか?
少なくとも聞かされてきた歴史に於いては、その襲来は数十年単位で間が空いていたはず。
それが急に【三日】ともなれば、その異常さについて認識せざるを得ない。
「何か大きな流れが……世界の方向性とも言うべき何かが変わりつつある」
「……なんだって? どういう意味だ?」
聞き慣れない言い回し……アルミナの言葉を、俺の脳は上手く処理できなかった。
問い返した俺に、アルミナは上体を起こして苦笑して。
「私にも分からないわ。何となく、そんな気がしただけ」
本人はそう言うが、何故か気になる発言だな。
「とりあえず、早くおろしなさいってば! いつまで触ってるのよこのへんたい!」
「……安心してくれ。オマエに対して興奮することはない」
「それなら良いけど……ん? それって何かしつれいじゃない?」
「あ、ほら、ルフィアス! あっちに降りられそうな丘があるわよ!」
「ん、ホントだ! ありがとうアルミナ!」
「ねぇちょっと!」
上手く話を逸してくれたアルミナのお陰で、セレスティアの疑問を無視することに成功。
以前に土砂崩れでもあったのか、現在地から少し離れた地点にそこだけ樹々がまばらで雑草も背の低い、小高い丘があった。
休息地としては見通しも聞くし最適と思われるので、まずはそこに向かう。
そろそろ、二人を担いでいるのにも限界が来そうだ。
……しかし、アルミナは本当に先見の明があるな。
俺が何か言う前から休息地の提案をしてくれたわけだが、それはつまり俺の限界を【俺より先に】察知した、ということではないのか?
「降りるぞ」
一声掛けて、衝撃に備えてもらう。
傾いた緑の絨毯に少し乱暴な着陸。
俺が思っている以上に、体力を消耗していたらしい。
二人を降ろしたあとは、その場に座りこんでしまった。
「ありがとう。お蔭で助かったわ」
「……こちらこそ。二人の声に救われた」
アルミナとセレスティアの一言が無かったら、俺はあの樹の上で死んでいた。
肉眼だけではなく、精神的な死角をも埋めてもらった気分だな。
「うわ、どんどんくずれてくよ!」
周囲を見回していたセレスティアが、驚きに満ちた声を上げる。
けれど、俺はそれに応えられなくなっていた。
気づけば脂汗が滲み、呼吸が乱れていて、全身の力が抜けていくようで。
いつもより消耗が激しいな……いや、むしろ基礎体力が落ちているのか?
最近ロクなもの食えてないし、栄養不足気味なのは間違いない。
「まさか、こんな短い間隔でまた災害に遭うなんてね……」
崩れ行く一角を見つめながら、アルミナがそう溢した。
一時的に安全地帯に降りられて気が抜けているのか、その災害がもう終わったみたいな言い方だな。
まだ終わってないぞ。
いま目の前で陥没していく地面――距離にして数百mはあるが、崩落がここまで来る可能性は大いにあるのだ。
急ぎ遠ざかるのが賢明だろう。
「急いでここを離れよう。まだ安全とは言えない」
「そうね……歩ける?」
ゆっくりと立ちがる俺に、アルミナの介助が入る。
傍から見ても、消耗しているように見えるのだろうな。
「ありがとう。大丈夫……少し回復した」
少し目眩は残っているが、歩けるくらいには回復している。
完全回復を待っていたら崩落に飲まれそうだ。
いまは少しでも距離を稼いだ方がいい。
「行こう。あっちだ」
「ええ」
「あ、こら! 置いてくなー!」
昨日当たりをつけた方角を指し示す。
丁度この緩やかな丘を登り越えて、反対側へと降りていく方向になる。
身体を前傾させて傾斜に対応しながら、歩を進めていく。
草木の背が低くて見通しは良いが、奴らは地面から這い出てくるような能力があるから油断は出来ない。
「大丈夫? 肩貸すわ」
俺が何か言葉を返す前にアルミナは手早く俺の腕を取り、それを自身の首の後ろに回していて。
それに抵抗する力も無く、横目に見れば視線がぶつかり、アルミナは笑みを浮かべる。
「……そんなに辛そうに見えた?」
「ええ、そうね。また倒れそうなくらいには」
「そっか……」
あまり自覚は無かったが、いまは緊急時でアドレナリンが出ているせいかも知れない。
興奮時は痛覚とか鈍くなるからな。
ほっと一息ついた瞬間に、疲労感が爆発するのかも。
「やっと頂上についた……はぁ、はぁ~」
いつの間にか一足先に登っていたセレスティアが、丘の頂上にて肩で息をしている。
駆け足でもしたのか?
何にせよアイツは元気のようだ。
「え……!?」
不意に、アルミナが弾かれたように顔を上げた。
その顔は緊張に歪み、周囲を警戒しているらしい。
「……どうした?」
「嫌な気配が……セレスティア! 待って!」
「ん? なによ」
セレスティアが振り向いた途端、その進もうとしていた先から――【黒】が躍り出る。
「……え?」
その気配に振り向こうとするセレスティア。
すでに黒い腕は頭上から――
「クソッ!!」
後先考えてる場合じゃない。
俺はアルミナの肩から腕をするりと抜き、自身を【加速】し、風を切り分けてセレスティアを追い抜かす。
いままさに振り下ろされてくる黒き腕と対峙。
こちらは下方から突進の運動力を乗せて、双刀を振り上げた。
衝突。
硬質な金属でも切りつけたような感覚が手に残る。
弾かれる両者――返す刃で両側から二本同時にその首元へ。
両断。
交差した左右の袈裟斬り。
黒い肢体の首元から脇の下までに掛けて、X型に断線が走る。
「ひっ……」
遅れて届くは、セレスティアの悲鳴。
敵はやはり地面の下――死角から来たな。
どういう方法かは知らないが、奴らは俺たちの位置が分かるらしい。
加えて、俺たちよりも移動速度が速いようだ。
死角からの攻撃か移動速度……どちらかに対処しなければ、詰む。
「気をつけて! まだ気配がある!」
アルミナの緊迫した警告。
複数体居ることは想定していたが、その気配を感じ取れると言うのか。
どういう感覚を持っているんだ?
俺には全く分からんぞ。
「方向は分かるのか!?」
双刀を構えたまま、周囲の足元を警戒しながら大声で問う。
大体の方向と、あとは襲ってくるタイミングさえ分かれば……。
「分からない……でも真下の方から……」
人が等しく備える感覚で何か掴めるというのなら、俺にも何かしら感じるものがあるかも知れない。
ただ視覚だけに頼るのではなく、肉の眼に映らぬ情報を得るにはどうすればいいんだ?
感覚を研ぎ澄まそうとすれば何か掴めるだろうか?
相手が殺気だとか怒りだとか負の感情を放っているとすれば、それはもしかしたら感じ取れるかも知れない。
その根拠と言えば――いまでも思い出せる。
稽古や日常生活において、父さんが無感情でいたときは、次に来る拳骨とか一太刀は、全く読めなかった。
対して、怒りを持って俺と正対していたときは、何か違ったように思う。
肌をびりびりと突き刺すような感覚だとか、身体が恐怖に震えるような嫌悪感もあった。
それらは相手がこちらの死角に居たときにも顕著で――攻撃が来る方向が、そのタイミングが、容易く読めるほどであった気がする。
俺にその五官以外の感覚が備わっているのかは分からないが、いまは他に頼る宛も無い。
一か八か、賭けてみるか?
掛け金は三人分の命だぞ……クソッ……重い。
両肩にのしかかる不可視の重みが、俺の動きを硬くする。
関節が強張り、不意の変化に対応できるような即応体勢とは言い難い状態だ。
重圧に胃の内容物をぶち撒けてしまいそうになる。
いっそのこと、一瞬で息の根を止めてくれたら楽なのに。
……ってどうせ死ぬなら、少しでも可能性の有る方に賭けてみりゃいいじゃねぇか。
何を下らないことで悩んでやがる?
死ぬ気でやれないなら、何も掴めやしない。
それが生存競争だ。
――そんな風に、あの父さんなら言うかな。
「……やってやるよ」
世の中、開き直りも大事だろ。
とりあえず意識を土の中、見えない範囲に傾けて、それを段々と先鋭化、集中していくイメージを持つ。
目に見える草とその下の土の質感。
足裏から伝わる感触、地鳴りを伴う振動。
見える表面から、見えない裏面を想像していくと――
「――なっ!?」
――突き抜けた。
そう表現するほか無い。
俺の見えている景色が地面に向かって拡大し、見えないはずの【内側】へと視点が移動した。
幻覚か?
土の中に埋もれたような光景が、視界を全て覆っていて。
けれど、俺の身体は地面の上に立っている感覚もあって……その認識のズレ、情報のズレ幅の大きさに脳が混乱し、いまにも吐き出しそうだ……。
土の中を這うミミズに、忙しなく蠢く蟻の群れ……埋まっている小石や岩に、水分を多量に含んだ泥。
その全てが、この辺り一体の広範囲に渡る地下の光景が、一挙に俺の脳へと視覚情報として降り掛かってくる!
無理だ!
こんなもの、処理できるわけが無い!
混濁した情報の波に脳内を掻き乱される中、見た。
――黒き、死の権化を。
「――【
気づけば俺は、その名を叫んでいた。
自分でも驚くほどに獰猛な、枯れた声で。
冷静な判断力など、とうに無い。
ただ本能の赴くままに、その地の底から這い上がってくる黒き姿を見た瞬間、俺は――
黒き影が地下を猛スピードで駆け上る。
その収束地点は……アルミナの足元。
地表から飛び出せば手先を鋭利な刃物状に変化させ、その身体を刺し貫こうとして。
「きゃああああ!」
槍のように尖った黒き手腕はアルミナの喉元に突き刺さる直前に、背面方向から強襲した俺によって縫い止められた。
背部から胸部までを白刀で刺し貫かれ、【
視える範囲内に敵影無し。
安心した途端、膝から俺は崩れ落ちて……
「ぐぁ……ぅぼえッ」
――吐く。
その吐瀉物の内容、構成している物質、胃液まで、鮮明に【視えた】。
瞼を閉じても意味がない。
要らない視覚情報がひたすらに雪崩こんで来る。
止めたくても止められない……!
目眩、頭痛……こめかみが硬く強張り、手でおさえてみれば、異常なほど額周辺が発熱していて。
これは……何かまずい扉を開いてしまったか?
「ルフィアス! 大丈夫!?」
アルミナが近づいて……やめろ動くな。
動いた物に反応し、俺の【視覚】が働く。
破れた白いブラウスに、黒いスカート……その構造と中身と、肌に浮かぶ玉の汗。
「……やめろ」
更にその内部には筋繊維に皮下脂肪、骨格や神経組織、腹腔内にひしめく五臓六腑。
「要らない!」
こんなもの、見たくないってのに!
どれだけ拒否しても、止まらずに流れこんでくる情報のうねり。
草土、皮、肉、水汗胃液泥、臓物蟻ミミズ、酸素、窒素ワンピースのほつれた生地、蟻の巣運ばれていく蝶、花崗岩地下水木の根肉、水酸素、泥、臓物草ブラウスのほつれ草草肉肉蟻ああああ蟻蟻ああああああああああああああああ皮あああ蜘蛛の足あああ睫毛ああ手指あ足ああ骨髄ああああああああああ石土あああ石あ砂ああ糸虹彩あああああああ――ッ!?
ぷちん、と、何か切れたような音。
…………真っ暗で。
無音だ。
突然、俺だけ世界と切り離されたみたいに。
上も下も分からなくなって、でも……ぐらりと、身体が傾いでいく感覚。
胸元に軽い衝撃。
抱きとめられた、のかな。
でも、もう、俺は多分動けないから。
――置いていけ。
そう言ったつもりだが、上手く言葉に出来ただろうか。
自分の声も、もはや聞こえない。
意識も薄れ、途絶えていく――
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