8.心を結び開くモノ
▼Α
何か、遠い日の思い出を夢に見ていたような気がする。
けれどもう、忘れてしまった。
脳の覚醒に合わせて、夢の記憶が霧散していく。
頭がハッキリしていくほど、ボヤけていた視界がクリアになって行くほど、夢の内容は遠ざかっていくものだな。
どれだけ思い出そうとしても、歯痒いほどに。
諦めて重たい瞼を開けば、視界一面を黒いレースの布が覆っている。
左右まで薄い黒に覆われた、見慣れた景色。
――アルミナのベッドだ。
そう言えば、アルミナの前で倒れたんだったか。
この塔は全一〇階層で構成されているが、俺は八階外縁部の発着場から入って書斎で倒れ、気を失っている間に運ばれたのか。
いまは八階中央の主寝室で寝かされていたようだ。
あれから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう?
室内灯の淡い橙色しか見えないこの部屋では、時刻の判定は難しい。
ふと右横に、何か動く気配を感じた。
少し首を動かして見てみると、淡い紫色したシルクの掛布団に包まれて、アルミナが寝ている。
その紫には絹糸に似た黒髪が、肩や胸元の曲線に合わせて這うように広がっていて、すぅすぅと小さな寝息を立てる小さな顔を覆い隠す。
俺は右手を動かそうとして、それが叶わぬことに気づく。
柔らかな束縛――俺の右腕は、アルミナの抱きまくらにされていた。
圧迫されて血が止まっているのか、感覚が無い。
完全に麻痺している。
……いつもながら仕方ないな。
起こすわけにもいかないので、左手を伸ばしその顔を覆う髪を持ち上げ耳にかけると、長い睫毛を伏せて小さく口を開けた寝顔が見えた。
愛おしさに思わずキスしてしまいそうだが、止めとこう。
布団の隙間から僅かだが、俺の腕に絡まる細く白い二の腕が見える。
その奥には、薄い乳白色のネグリジェだけを纏った妖艶な肢体が――
俺は慌てて目を逸す。
……ヤバイヤバイ、理性が飛ぶって。
その合間――豊かな双丘が織りなす深い溝を目にして、本能が牙を向きそうになった。
相変わらず核融合並の破壊力だ。
宇宙開闢にすら匹敵すると思う。
一瞬で高圧血流が下半身の一点に……あれ、あんまり集中してないぞ。
連日の激務で疲れすぎてんのかな。
と、そこで一つ違和感に気づく。
何やら、全身が物凄くすべすべしやがるのだ。
え、何この感触?
少し身を捩ってみると、ああ、分かった。
これはシルクの肌触りか。
要はこのベッド上の布団に、肌が直接触れているわけだ……全身の肌が。
てことは俺、いま、全裸か。
脱がしたのは紛れもなく、横にいるコイツだろう。
えーやだーなにそれ~。
さては寝てる間に悪戯したなコイツー。
みたいな展開がご希望なのだろうか。
室内は快適な温度に保たれているから健康管理上は問題ないかも知れないが、しかし服を着て寝る習慣しかない俺としては、起き抜けの違和感が半端なく気持ち悪いので精神衛生的によろしくない。
右腕の痺れ具合もなかなか酷い有様だし、ここは服を探しに起きるとするか。
頭部方向に身体を引き上げて、感覚の無い右腕を引っ張り出す作業を開始。
勿論、寝ているアルミナを揺り起こさぬよう、ゆっくりと。
感覚がないなりにも、するっと指先がアルミナの太腿の間から抜けたのは分かり、次いで三頭筋から肘にかけてを救出すべく、稜線が死ぬほど柔らかい双丘の谷間をなぞりあげていく。
「ん……うぅん……」
悩ましげな寝言に一瞬硬直するも、すぐに作業再開。
まだ起きたわけではない。
このまま続けても問題ないはずだ。
「んん…………起きたの?」
と、寝言をかけられた。
いや、声をかけられた、のか?
その可能性に気づき、アルミナの顔を見ると、まだ眠そうな半眼状態ながら、瞼が開いていた。
くっ……起こしてしまうとは。
起きる気配に気づいていながら、俺は無意識に作業を強行してしまったと言うのか?
腕の感覚などほとんどないと言うのに、肘に押されて歪に弯曲するその白く巨大な双丘に視線を奪われていたと?
やはりコレの誘惑には抗えぬ……。
「どうしたの?」
「あ、ああ、いや……おはよう」
「おはよう。もう夕方だけどね」
さらっと告げられた一言に衝撃を受ける。
「……え? ゆう、がた?」
「うん。良く寝れた?」
「良く寝れた……と言うか、寝すぎた、か?」
しっかり寝たお陰か、頭はすっきりしているようだ。
ぼーっとする感じはない。
けれど、眠っていた間に色々と忘れてしまったような気もする。
実際に、寝る前に考えていたこととか、起きたらしようと思っていた今後の予定とか、ごっそり頭の中から抜け落ちていて……。
あれ?
今日って、このまま寝てて良いんだっけ?
「ところで、今日はゆっくり出来るの? こんな時間まで寝ちゃってたわけだけど」
「え、えーと……」
お、思い出せ。
次の出勤はいつだった?
確か、レヴァリウスが何か言ってたような……。
確か休暇をやるとか……次の出勤は、明後日の夕方、と言っていたはずだ。
なら、あと一日は時間があるのか?
「……思い出した。今日は流石に休み貰えたよ。次は明日の夕方出勤だ」
そう言った途端アルミナは――
「そっか」
言葉は少ないけれど、それでも凄く嬉しそうに、目を細めて笑みを浮かべた。
見ているこちらまで暖かくなるような、ひだまりに咲く花のような笑みを。
「あ、ところで……」
「ん?」
その笑顔に水を差すのも悪い気がしたが、一つ思い出したことがある。
起き抜けの混乱によって忘れ去られていた程度のことだけど、これだけは聞いておかねばなるまい。
「なんで俺、裸なの?」
「え……?」
予想外の反応。
まさか、口を半開きに目を見開いて顔全体が縦に引き伸ばされたような、【なんでそんなことも分からないのオマエ】みたいな顔されるとは。
「……忘れたの?」
「え? あ、ああ、うん。倒れた後の記憶は無い。『忘れたの?』って言葉が出るなら、俺は裸になるときに意識があった、ということだよな?」
「う、うん。だって、自分で脱いでたし」
「…………は? 自分で?」
ヤバいマジで何も憶えてないぞ。
健忘症か?
あるいは夢遊病?
自分の知らぬ間に、勝手に自分の身体が動いている恐怖。
これはもう少し詳しく聞いた方がいいかも知れない。
「……どういう経緯でそうなった? 一から説明して貰えるか?」
「どういうって……まず、家に来た時点で凄くボロボロだったでしょ?」
「ああ。少し会話して、そのまま倒れたな」
「意識のない貴方をアンドロイドに運ばせて、整体カプセルで身体組成を修復したわ。まさか、遺伝子レベルで損傷しているとは思わなかったわよ」
「ん……すまない、迷惑かけた」
「組成修復に八時間もかかったわ。もっと身体は大切に使って欲しいものね」
「……留意する」
引き抜こうとしていた腕を引っ張り戻されて、逸らそうとしていた視線が至近距離でぶつかる。
「いいえ、改善なさい。あと、感謝も」
有無を言わさぬ口調と強い眼光にたじろぎながらも――
「……分かった。いつもありがとう」
と絞り出すと、またぱぁっと笑顔の花が咲く。
「よろしい」
そう満足気に言ったアルミナは、実際に満足したらしくまた目を閉じて眠りに入り……。
あれ?
何か話が脱線したまま終わったぞ。
俺が全裸で寝てた理由を聞いていた筈だが、自己愛が足りぬと説教されて終わったのは何故か。
「ってオイ、寝るなよ。まだ話の途中だろ」
「……んー?」
もう半分意識が溶けかけているらしきアルミナは、瞼も開かずに返事をする。
「俺が全裸に至る、その経緯を教えてくれよ」
って言葉にすると酷く滑稽だな……。
整体カプセルには着衣のまま入れるし、そもそも俺が自分で脱いだと言うが気絶状態では脱衣不可能である以上矛盾が生じるわけで。
いつどこでどのように脱いだのか、全然分からないので説明して欲しいのだが。
「ほんっとに憶えてないの?」
「憶えてない」
「ふ~ん」
何か汚物を見るようなジト目を向けられている。
記憶が失われている間、一体どんな醜態を晒していたのだろう。
聞くのが怖くなってきたかも知れない。
「カプセルには着衣のまま放りこんだんだろ?」
「そうよ」
しかしそれこそ夢遊病とか発症していたら対応しなきゃならないし、聞かねば。
「んで八時間後、カプセルから出した後は?」
「その後はこのベッドに運ばせて、そのまま寝かせたわ」
「寝かせて?」
「寝かせて~……私も疲れたから添い寝して~」
アルミナは記憶を辿るように斜め上を見ながら、絡ませた腕から人差し指を伸ばし顎に当てている。
「で~横に寝ていたら当然むらむらしてくるから~」
「……ん?」
何やら、雲行きが怪しくなってきたような?
「添い寝しながらルフィアスの股間を弄り始めるわよね~」
「いやいや、それが常識ですみたいな言い方されても。寝てるヤツ相手に何してんだって話だよ」
むしろ気絶してたんですよね?
わたくし?
「そしたら~ルフィアスがパッと目を覚ましちゃって」
「そら起きるよな」
「発情してしまったらしく、そのまま襲われたわ」
「……なん、だと?」
あれ……。
「激しかったなぁ。それこそ野獣みたいに」
そう言われてみれば……。
「あ、服は、私に襲いかかりながら適当に脱ぎ散らかしていたわよ。ベッドの外に落ちてない?」
そのときのイメージが、少しずつ呼び起こされる。
一つ思い出せば、芋づる式に次の場面へと繋がって。
「そう、か。そうだった。思い出してきた……」
「あんなに激しく求めあったのにもう忘れているとか、あの『愛してる』は嘘だったのかしら? 有り余る性欲を隠すための、上辺だけの言葉だったのかなぁ~?」
「うっ……そんな、ことは」
そう責められると、返す言葉がない。
事実忘れてしまっていただけに……。
天を仰ぎ助けを求めるが如く、漆黒の天蓋を眺めてみても意味はなく……。
「ルフィアス」
「ん?」
呼ばれて振り向くと――
「ウソ、よ」
と言われ、唇を重ねられて。
「……何が、嘘?」
「貴方の『愛してる』を、疑ってなんかいないわ」
「……見事にからかわれたってことか」
してやったりの満面の笑みがまた……眩しいな。
「ねぇ、でもさぁ、最近少し、物忘れが多いんじゃない?」
「ん~言われてみれば、そうかも知れん」
「恐らくだけど、脳神経の【加速】が影響していると思うの。だから……」
ガタが、きている?
いや、そうだよな。
あんまりにもこの身体を、酷使し過ぎてきたのだから。
「……分かった。なるべく【加速】に頼らないようにするよ」
「うん」
それで満足したのか、目を細めて俺の腕に更に強くしがみつく。
「なぁ、ところで……」
「なぁに?」
「そろそろ腕の痺れが限界なのだが」
「……え~、仕方ないわね」
離してくれた……むくれながら。
解放された腕に、滞っていた血流が否応なしに流れこむ。
ぐ……正直、この瞬間が一番気持ち悪い。
痒いような、こそばゆいような、痛いような、この気持ち悪さ。
死んでいた右腕の神経系統が、血に運ばれた酸素と栄養で急激に息を吹き替えし、血が止まっていた間に起きた細胞の損傷、異常をこと細かに伝え始める。
いや、いらん。
そこまでの情報量はいらないって。
と心は思っていても、身体は勝手に送りつけてくる。
自分の身と言えど、ままならないものだ。
「よいしょっと」
とか考えていたら、俺の上を柔らかいモノが通り過ぎていった。
「何してんの」
「ん? 右がダメなら、左かな~って」
ドヤ顔で左腕を勝手に腕枕にしたアルミナは、本当に楽しそう。
「ってまだ寝る気か!」
その笑顔にこちらまで、心を揺り動かされるようで。
「まだ寝足りない~。誰のせいで疲れたと思ってるの~? いや、むしろ誰に突かれたと」
「はいすみません、ワタシのせいです……というか上手いこと言わんでいいって」
「あはははは」
すぐに笑って誤魔化そうとする。
ふと気づけば、そんな他愛ないやり取りに、この上なく癒やされている俺が居て。
この至福のときが長く続けば良いな……って、そう思っている。
だから世の多くの恋人たちは、永遠を望むのだろうか。
在りもしない永遠を求めてしまうのは、弱さ、なのかな。
辛い日常に、面倒な世界に戻りたくなくて。
幸せなこの時間に留まっていたい。
でも結局は、この時間も、この部屋も、面倒で辛い世界の中にあるのだ。
この世の理から外れることなど出来はしない。
どれだけ逃げようとも、世界からは逃げられないから。
それは、例え死んでも同じこと。
死でさえも、この世界の一部なのだから、死んでも世界から外れるということは無い。
ただ、肉体という殻を脱ぎ捨てるだけ。
何事においても逃げるという行為には一時凌ぎの効果は有るけれど、根本的な解決には至らないものだ。
「何を、考えているの?」
「ん? いつもながら、良く俺が考えごとしてるって分かるよな」
なればこそ――
「うふふ。何年一緒に居ると思ってるのよ。こんなの、テレパシーに頼らなくても余裕よ」
「君には敵わないなぁ、お手上げだよ~」
「あ~はぐらかしてるでしょ~? 説明するの面倒だからってはぐらかしてる~」
「アハハハハ。一体何のことか分からないぜ」
「急におバカキャラになってもダメよ。白状するまで離さないし」
なればこそ、いまを精一杯生きよう。
これから何一つ、後悔しないように。
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