0.希望と絶望の境界

▼ヒ



 その視界のに映るは、上下に分かたれし白と黒の対比。

 どこまでも頭上を覆い尽くす白曇と、果てしなく眼下を埋め尽くす――黒き海。

 その視線の先に映るは、白と黒のに浮かぶ島の群れ。

 それが、緩やかに崩れゆく様。


 一つの街を支えていた浮遊群島は、少しずつその身を削り取られるように大小様々な破片へと分断され、その全てが逃れようもなく黒き海へと落ちていく。

 家ほどの岩塊が。

 巨木はそれを支えていた土塊と共に。

 残骸と化した歴史的な建造物と、家畜の死骸と。

 雑多な瓦礫まで。

 そして、夥しい数の人、人、人。

 ありとあらゆるものが崩壊し、崩落し、消失していく。

 落下の終着点で大口を開けて待つ、黒き海へと吸いこまれるように。


――この世界は死にかけている。

 そんなことを言っていたのは、どこの誰であったか。

 いや、いまでは誰もがそう認識しているはずだ。

 なぜならこの世界で生物が生きていけるのは、わずかに残った浮遊する島々だけで。

 それも少しずつではあるが、目前の光景のように明確な滅びへと向かっているのだから。


 いままた一つの浮遊島の淵が剥がれ、小さな土塊がゆっくりと時間をかけ、白と黒の間の長い距離を落ち始めた。

 やがて眼下を埋め尽くす一面の黒へと沈む。

……そうやって減っていくのだ、この世界は。


 あの土塊を構成していたどの成分も、もう二度と返らない。

 黒き海に囚われたものは、なんであれ戻ってくることはないのだ。

 空気も水も大地も、生物も。

 少しずつこの世界は、あれに削り取られている。

 あれは世界に死をもたらすモノとして、大いなる畏怖を以てこう呼ばれていた。


――【黒き死海カラドデニス】と。


黒き死海カラドデニス】はいつも唐突に牙を剥く。

 誰もが平和に胡座をかいているときに、その痛みを忘れた頃に、爪を立ててくる。


 その恐怖の始まりは歴史書によれば、いまから約三百年前。

 初めに黒い霧が発生した。

 あらゆる土中から、小さな綿埃みたいな黒い粒子が湧き出し、大量に大気に解けて霧となり、黒き渦となり……それがやがて、魔物を生む。


 黒から産まれた死をもたらす悪魔は、【黒死魔性フォビュラ】と名付けられた。

 小さなものは羽虫程度だが、大きなものだと樹齢千年を超す神木でさえ霞むほどの巨大さを有する。

 そんな天災地味た【黒死魔性フォビュラ】が暴れて破壊をまき散らすと、地続きだった大地は見る間に分断され、その大地の割れ目の深奥から湧き出す【黒き死海カラドデニス】に――冥き奈落の底へと、急速に削り取られ始めたという。

 山は沈み、平原は穿たれ、海は飲まれた。

 時の権力者たちは残った人民をまとめあげ、大規模な浮遊技術を使って大地を浮かせ、天空へと退避し難を逃れる。


 しかし事はそれで終わらない。

 浮遊島の裏側、完全なる死角から【黒き死海カラドデニス】は除々にその魔手を伸ばして、黒の軍勢を送りこんできた。

 魔手――崩壊中の群島の底部をよく見れば水平線まで黒が埋め尽くしていて、それも同色であるから気付きにくいが、黒き死海から浮遊群島に向かって、【黒い柱】のようなものが屹立している。


 いついかなる理由でそうなるか、全く分からない。

 気づかぬ内に伸ばされていたその柱から、【黒死魔性フォビュラ】が浮遊島に送りこまれる。

 そして奴らが暴れると、一体どういうわけか、浮遊島の【浮遊力が消える】のだ。

 故に、【黒死魔性フォビュラ】が出現した場合は早急に殲滅しなければならないが、前述した大きさの問題に加え、【物理攻撃が全く効かない】ため、その討伐は非常に困難を極めた。

 未だその正体も掴めぬ黒き死を運ぶ軍勢に対して、人類は――いや全ての生物は、なす術もなく蹂躙されていき、すでに世界地図のおよそ六割を、黒く染められている。


……その災禍を遠くから眺めるのは、うつろな蒼玉の瞳を持つ、一二歳の少年。


 崩落を免れた浮遊群島の端の森から突き出た崖の上で、いまにも【黒き死海カラドデニス】に落ちそうな淵で茫洋と佇み、対岸に目を向けている。

 その金髪も白い肌も、黒いシャツと白いジーンズも、泥や煤、血で薄汚れていた。

 瞳に映る世界を見て、彼は何を思うのか?

 憔悴しきった顔で、それでも目に焼きつけようと視線を逸らさずに見ている。

 いままさに沈みゆく惨禍の中心地――彼の故郷の姿を。



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