△伍



 転送先の空は、曇天だった。

 いまにも一雨降りそうな暗く重たい雲が空を覆い尽くしていて、眼下には数十m級の木々が生い茂っている。

【王都グレッシャリア】にほど近い、自然保護区の森林だ。

 転送後の事故を避けるため、敢えて人気のない場所を選んでいるらしい。

 ここから王都まではまだ一〇分ほどかかる。

 正直もう眠気が限界なので、もっと近いとこで休むことにしよう。


「……管制。自分はここで降りる。救援に感謝する」

<了解。ご苦労さん>


 オペレーターの声が【CⅢ――意識接合型コンシャスリィ・コネクテッド通信機・コミュニケーションデバイス】越しに響いた後、壁面全体に投影されていた外部映像が途切れ、前面のハッチが上から下に開きだす。

 開ききるとハッチがそのまま滑走路になり、発着誘導灯が緑色に光るのを確認。

 スロットルを徐々に開放すれば、車体が滑走路に添って滑り降りていく。


 すぐに高所の強烈な風が吹きつけてきた。

 それに目を細めながらディスプレイを操作し、物理斥力場を風向制御モードで起動させて、視界が確保できたらスロットルを全開。

 途端に、堰を切ったように前から後ろへと流れ出す景色。

 眼下で数十m級の木々の頭が全て繋がり、緑の絨毯と化す。


 この世界に僅かに残されている緑。

 そのことに対し特に感慨にふけるでもなく、というかもう何かを考えるような余裕もなく、目的地を目指してひた走っていると、もう前方に見えてきた。

 周りの木々の五倍はあろうか――天を貫く一本の巨大な塔が。


 円柱型のその巨塔は、一階部分は直径にして五〇mほど。

 階を重ねるごとに徐々に細くなっていく設計で、最上階では逆に一般的な一軒家ぐらいの広さもない。


 その最上階付近の空挺発着場に乗りつけ、【レグナス】と塔内部との機器同士による交信で認証を受けると外壁がパカっと上下に開き、中から空挺固定具が伸びてきて【レグナス】を鷲掴みに。

 そのまま中に引きずりこまれ、隔壁を一つ潜って狭い密室へ。


 この部屋はいつものことだが慣れない。

 何故なら……【レグナス】ごと丸洗いされるからだ。

 しゅーっと壁際に生えた噴射口から、白い霧っぽいのが出てくる。

 洗浄剤だ。

 これが細かく更に電離していって、目に見える外装の汚れから衣服の内側の汚れに至るまで、綺麗さっぱり吸収し分解するというのだから驚きである。


 だがハッキリ言って、辛い。

 終わるまで数分間、息を止めねばならない。

 息を深く吸った俺は、限界まで動かないようにして体内全域に【減速】を掛けて、単位時間あたりの酸素消費量を極限まで抑える。

 脳の処理速度まで遅らせることで数分間をぼーっと過ごし、体感時間は数十秒程度にはなるが……苦行だ。

 てか【加減速】能力を持たない他の人間は一切通れないだろこの部屋。

 改良の余地は大いにある。


 風呂に入らずとも同じだけの効果は得られ時間短縮には良いが、湯船に浸かった方が遥かに極楽だな。

 しかしこの塔に入るには、ここから入ることを義務づけられているのだ。

……それも俺だけ。

 何故こんなことになったか?

 思い返せばこの塔の主が、潔癖症であることが大きいだろう。

 この洗浄室も彼女の発明だ。


 彼女曰く、「貴方はいつも泥だらけ血だらけだから、この洗浄室を通らずに私の部屋に入ることを禁じます」ということらしい。

 つまりは汚物扱いか。

 泣けてきた。


 だが彼女の言が当たっていることもまた事実。

 実際に先ほどまでの俺は、泥はついてないが血だらけ煤だらけ砂埃だらけであった。

 諦めてされるがままになっていると、洗浄が終わって換気が始まり、これでようやく呼吸ができる。

 汚れは綺麗さっぱり落ちていた。

 しかし風呂上がりのさっぱり感には遠く及ばないな。


 その違いが何かと問われれば、それは温度だろう。

 風呂では体幹の温度を高め、汗をかくことにより身体内部の老廃物をも排出するので、要は体外だけでなく体内の掃除も行えるわけだが、この洗浄室は、衣服内部の素肌まで洗浄するとは言ってもあくまで体表、体外でしかないのだ。

 設計制作者たるアイツにそのことを言ったら、「じゃあお風呂にも入ってきてね」と返されて終わったのだが。

……墓穴を掘ったな。


 しかし今日は疲れている。

 あまりにも疲れているので、とりあえずもうベッドを借りて寝させて頂く。

 異論は認めない。

 自室に帰るの面倒だからって人ん家に寝に来るなとか言われても知らないね。

 そう固く決意し、俺は【レグナス】から降りて室内へと歩を進めた。


 高度な先進技術を要する外壁の機構とは対照的な、古風な丸ノブ式の木製扉を抜けると、そこは塔の主の書斎。

 左右の壁は右方向にカーブを描いていて、壁際は全て本棚である。

 扉同様アンティーク風味満載の本棚には、いまどき珍しい大小様々な紙媒体の本が並んでいて、合間に水晶球みたいなものとか意味の分からない奇抜なオブジェとか雑多なものが置かれていた。


 ここにある本は全てデータ化されていて、いつでもネットワークから閲覧可能である。

 にも関わらず何故、紙媒体で所有しているのか?

 端的に言えば、どちらにもメリット、デメリットがあり、紙媒体のメリットを評価したからだな。

 そのメリットの中でも最たるものは、記憶効率が良いことが挙げられるだろう。


 脳は複数の刺激を関連づけることで記憶力が上がる。

 文字を視覚的に追うだけではなく、声に出せば聴覚的にも刺激できるし、手に伝わる紙の質感や本自体の重さを感じるだとか、触覚的にも脳を刺激することが可能だ。

 一度読んだ内容を記憶し易いということだな。


 さらに言えば、電子情報のデメリット――長時間閲覧していると、脳細胞に障害を来たす点もあるか。

 電子エネルギーは負のエネルギーだ。

 負のエネルギーは右回転を描き、右回転はネジに代表されるように【締める】働き――言い換えれば【固める】働きを持つ。

 脳細胞が、血管が、血液が固められたらどうなるか?


 無論、大量の情報をコンパクトに集約可能だという点において、電子データ化に勝るものは無いだろう。

 どちらも一長一短あり、使い分けで両方利用する人が多く、俺もその部類に入る。


……などと余計なことを考えながら赤い絨毯の上を歩いて行く。

 本棚の合間やその上に申しわけ程度に嵌められた窓枠からは灰色の空が覗き、外の暗さがもたらす青い影が至るところに鎮座している。

 そして、壁際や家具の上など所々に配置された蝋燭の、僅かでも空気が動けば揺らめく淡い橙色の光。

 その光と影が織り成す深い陰影が、まるで朝焼けの中に見た無限階調を持つ空色に似ていて。

……少しだけ、何故か郷愁の念に囚われた。


「お久しぶりね」


 本棚の曲線の先、死角になっているその影から、艶やかな甘い声が届く。

 彼女は二一歳で俺とそう変わらない歳のくせに、どうしてこうも色っぽい大人の女性的な声が出せるのか。


「そのご様子だと、またお仕事の帰りかしら?」


 まだ互いの姿は視界に入っていないというのに、何故分かる?

 少しずつ歩いてその姿を探すと、彼女はこちらに背を向けていて、外壁側の本棚にて指さし確認しながら背表紙のタイトルを追っているようだった。

 大きな三角帽子、背には黒マント……いつもの魔女のような服装で。


「ああ、悪いが少し休ませてくれ……」


 やっとのことでそう声を絞り出した。

 彼女の指は一冊の本の前で止まり、新緑色の背表紙を引っ張り出そうと少し背伸びをして、その赤みを帯びた長い黒髪が蝋燭に照らされて揺れる。

 同時に俺の視界も、ぐらつく。

 眠気と疲労感による目眩か――視界がブラックアウトしたが、身体が傾く中、転倒を免れるべく足を踏ん張って耐える。


「はぁ……せっかく来てくれても、いつもそんな調子よね、貴方って」


 不意に、柔らかな温もりに抱かれる感覚。

 甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 視界が戻れば、やはり抱きとめられていたらしい。

 彼女の背後で、本が落ちる音が響く。

 いつの間に距離を詰めたんだよ。

 数mの距離があったはずだが、加速魔法でも覚えたのか?


「そう。貴方の翼の力を、少し解明できたの」

「さらっと人の心を読むな」

「いいじゃない。私と貴方の仲でしょう? というわけで、しょうがないから今日はこのままベッドで添い寝してあげようか?」

「い、いや、それは……寝づらいだろ」


 こんな美人にいま添い寝されたら、色んな意味で過労死するって。

 横目で彼女を見やると、悪戯な笑みを浮かべていた。

 黒髪の間から同色の星空を閉じこめたような瞳が……その目尻が下がって何かを懇願するような妖艶な視線が、俺の視線に絡みつく。

 控えめな鼻梁の下にある自己主張の激しい紅い唇は、下弦の月のように綺麗な弧を描いていて。


「どうして? せっかく楽しめると思ったのに」

「腹上死でもさせたいのか」

「うふふ。最高の最後でしょう?」

「……勘弁してくれ」


 平衡感覚が回復したので、自分の足で立つべく彼女の支えから離れる。

 ひとしきり俺をからかって満足した彼女はすんなりと俺を解放し、少し距離が開くと、俺は目が点になった。

 正面で開かれた黒いマントの間から覗く肢体――纏っていたのは、胸元までしか生地がない、黒と紫が彩るハートカットのドレス。

 押しつぶされた白玉みたいに窮屈そうな胸から少し目線を下げれば、それに反して折れそうなほど細くハッキリとした腰のくびれ。

 短く薄いスカートの合間からすっと伸びる素足は酷く滑らかで、黒のガーターベルトがその素肌の白さを際立たせていた。

 挑発するには十分過ぎるほどに扇情的な、その姿に目を奪われて。


「……どこを、見ているのかな?」


 その一言で、ハッと我に帰る。

 上から下まで全部、などと言えるわけがない。


「……そう、【上から下まで全部】眺めていたの? 過労死寸前だと言う割に、まだまだ元気がありそうね」


 さっきから簡単に思考を読まれている。

 俺の精神防壁は現在、全く機能していないようだ。

 悪戯を思いついた子供のように楽しそうに俺を追い詰めてくる彼女。

 我知らず後ずさりを始めた俺は、すでに撤退戦の構えである。


「でも珍しいわね。普段冷静な貴方が、こんなに取り乱すなんて?」


 面白い玩具を見つけた――そう顔に書いてやがるな。

 妖艶な笑みに深みが増してしまった。

 まずい、動悸もヤバイことになってるが、目を離せないのが一番まずい。

 俺はどうしてしまったのか?

 彼女の言うとおり、普段の俺なら、こんな状態には……!?


「ほんとに大丈夫?」


 いつの間にか俺の目前まで移動していた彼女と目が合う。

 一六五cmほどの彼女はこちらを自然と見上げる形になり、その上目遣いがまた……。

 そして紐だけで繋がれたドレスの胸元は谷間が丸見えなわけだが、それを更に前かがみになって見せつけてきて、あまつさえその紐に指をかけて引っぱり……。


「……この紐、解いてもいいよ」


 わざと耳元に顔を寄せてまで囁いてきて。

 その甘く脳髄をくすぐるような響きに、更に心を掻き乱されていく。

 もう、眠気なんてどこかに吹き飛んでしまった。

 てか、一緒に理性も飛びそう。


 ブラックホール並みの強烈な引力を持つ双丘からようやく視線を上げれば、蕩けそうなほど目尻が下がり潤んだ黒瞳。

 熱い吐息が漏れる、薄く開いた艶やかな唇に、淡く上気して桃色に染まる彼女の頬が、ついに俺の理性を吹き飛ばした。


「あっ……」


 彼女の短く驚く声。

 もつれるように彼女との距離を詰める。

 後ずさる彼女は部屋の中央に置かれた書机で止まり、逃げ場を失う。

 勢いを殺せず上体が後ろに反り返り、机に後頭部をぶつける前に俺の左手が抱きとめた。

 彼女のついた肘で机上の書物が崩れ落ちる。

 俺は右手を机上に置き、左手で引き寄せながら、彼女に覆いかぶさっていく。


 そのとき見えた世界は、この先忘れることはないだろう。


 部屋全体が淡い橙の光に照らされ深き青の陰影は踊り、机上に置かれた水晶は光を屈折させ、あるいは他を映し幻想の色を放つ。

 煌めく白銀、眩き黄金、調和の緑、猛き赤、慈しみの紫に、全てを包む黒。

 まるで夢の中の一場面のように、ぼやけ揺らめく色の境界は――霞む視界で全てが混ざり合う。


 それはどこか、豪奢な七色の幻でも見ているようで。

 天界の饗宴の中に、迷いこんだみたいな気分にもなって。

 その中央にいる彼女が、抱きしめても消えてしまいそうな儚げなその姿が……とても綺麗だった。


 こんな想いを言葉で伝えられるだけの言語能力は、残念ながら俺にはない。

 だからそれを汲み取ってくれていたら、その心に触れられる力というものは、何と素晴らしいのだろう。


 だから、自信を持てよ。

 オマエが嫌いなオマエのその能力は、決して短所なんかじゃない。

 短所と長所なんて、表裏一体だ。

 優しさはときに人を堕落させる甘い毒になるし、厳しさはときに卓越した指導力となる。

 要は己の特性を理解し、それを臨機応変に使えれば良いだけの話。


 人の心を読むことに罪悪感を覚え、誰も寄せつけずに独り暮らすオマエに、俺には一体何が出来るだろう?


「ちょ、ちょっと、なに、なにするつもり? 何考えてるの?」


……てか今度は全然読めてないし。

 コイツ、混乱して精神不安定になると、相変わらず【精神感応テレパシー】が機能しないのか?

 仕方ない、照れくさくてあまり言いたくはないんだが、たまには言葉にしよう。

 瞳を見つめて、言の葉を紡ぐ。


「愛してるよ……アルミナ」

「……っ」


 こう言うと、アルミナはいつも言葉を詰まらせる。

 悲しげに、苦しげに。

 まるで、自分にはそんな言葉をもらう資格なんて、無いとでも言わんばかりに。


……その内に秘めた絶望を、全て俺に見せてくれ。

 すっかり縮こまってしまったその肩を抱き寄せ、ゆっくりと顔を近づけ、穏やかな口づけを交わす。


「ん……っ」


 甘く切ない想いがこの胸を締めつけるかのように駆け巡り――けれど、すぐに解放する。

 間近で見つめ合ったその瞳は、薄く涙を湛えていた。

 その涙の代わりに俺は薄く笑みを浮かべ、申しわけない気持ちを表情で示しながら――


「ごめん、後は頼んだ」


 そう言い残すと、先ほどの書物群と同様に、机上から崩れ落ちる。

 どうやら今度こそ本当に――限界のようだ。


「え? やだ、ルフィアス!? ちょっ――!?」


 まあまあ派手な音がして床に広がる書物郡に頭から突っこんだが、痛みはほとんどない。

 感じないと言った方が正しいか。

 視界は再度ブラックアウトし、意識も薄れてゆく――


 死んじゃダメ~とか、いやぁぁぁとか、最後に聞こえたアルミナのそんな悲鳴が、自分のせいだと分かっていても……おかしくて――



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