1.飛び立つ想いに誘《いざな》われ
△Ⅰ
早朝の森。
深緑の合間から射す木漏れ日に照らされて、その真っ白な姿が浮かび上がる。
神々しいまでの純白。
緑に囲まれた広場に鎮座する玉座の如き石の上――そこだけ、その者だけ光を放つように、輪郭すらも曖昧で。
白兎だ。
真っ白な兎が、茂みに隠れた俺の数m先に一羽、居る。
この完璧とも言える自然の造形美をいまから汚さねばならないのは大変心苦しいが……こちらも生きるためだ。
割り切って考えよう。
手に持った細めの小枝。
真っ直ぐ尖っている方を目標に向けて振りかぶり、【加速】しながら放つ。
ヒュン、と風を切る音。
直線上に在った草木の葉を僅かに揺らせたときには、すでに目標を背後の木の幹に縫い止めていた。
首元に刺さった小枝から、白い毛が朱に染まっていく。
貫通した小枝から幹へ、血が伝い落ちる。
それでもまだ息のある兎は、手足を跳ねさせ、生き延びようと藻掻いていて。
すでに手が届く距離まで来ていた俺は、黒刀を顕現させ、一太刀でその首を刎ねた。
安らかに、一瞬で逝けるように。
……命を奪うことにお詫びを。
……命を頂くことに感謝を、その瞬間に祈る。
幹から小枝ごと外し、すぐに血抜きの作業を開始。
下腹部から喉元までを掻っ捌いて内臓を引き出し、なるべく土がつかないよう葉を地面に重ねて、その上に切開部を押し付けて血を絞り出す。
ある程度絞り終えたら、兎の足を纏めて持ち上げ、その場を後に。
手に伝わるのは、未だ残る体温の残滓。
コイツが生きていた、証。
その事実に思いを馳せれば、本来は片手で持てるくらい軽いはずの兎だが、やけに重く感じられて……。
命を奪わずに済むのなら、そうできればいいのだが。
現状、この原生林においては、菜食だけで十分な栄養素を補えそうもない。
というか、何が食べられて何がダメなのか、見分ける知識も乏しいのだ。
下手に口に入れて毒だったら……。
父さんが言っていた通り、もっとサバイバルに関して勉強すべきだったな。
草木生い茂る緑の道を、揺れる木漏れ日に目を細めながら歩く。
朝の少しひんやりとした空気が、昂ぶった身体と心の熱を奪い去ってくれる。
今朝の狩りはこのくらいにしておこう。
道の途中に置いといた皮袋を回収。
これには山菜や木の実などの採集品が詰めこんである。
それを肩に担いで、上下に緩やかな起伏を繰り返す整備されていない山道をまた歩く。
歩きながら、周りの景色にも注意を払う。
明日の食材に使えそうな木の実や山菜を見つけたら、その近くの木の高い位置に目印を刻んでおくためだ。
毎日自分で食材から確保するのは結構難儀である。
……いや、俺はすでに在る物を頂いているだけだ。
食材を作り育てることの方が大変か。
まだそちらには着手していない。
難度について更に言うならば、最初の種――原初の一つを無から創造することこそが最難関と言える。
無から有の創造は、人類の科学では未だ成し得ぬ偉業だ。
いつか、そこに手が届く日が来るのだろうか?
オリジナルを創り出す、神の領域に?
もしその日が来ないなら、有から無へと帰するばかりのこんな世界では、やがて全ての色が失われるかも知れない。
どうせ全てが終わるなら、頑張って生き抜く意味など、無いのかもな……。
けれどまぁ、何の因果かまだ生かされているのだから、せっかくだしやりたいことは全てやっておこうか。
自分を鍛えつつ色んな身体の使い方で遊び、新しい知識を得ながら世界を広げ、味わったことの無い経験から刺激をもらう。
そして――もっと人と関われば、喜怒哀楽だけじゃなく、俺の中で知らない感情を見つけ出せるかも知れない。
そう考えると、まだ死ぬには、少し惜しいと思える。
……遠く、水の流れる音が聞こえてきた。
目的地が近づいてきたらしい。
背の高い草木を掻き分けて進んでいくと、やがて視界が開けてくる。
そこに広がるのは、いつか見た光景。
大きな川と、その横にはちょっとした広場みたいな河原。
川のせせらぎに、和気藹々とはしゃぐ鈴色の声。
……コイツら、俺が狩りに勤しんでいる間に、二人で川遊びしてやがったのか。
諦め混じりの嘆息が、盛大に零れ落ちた。
「あ、ルフィアス! お帰り~」
「むぅ……」
朗らかに手を振ってくるアルミナとは対照的に、渋面で口をへの字に結んでるセレスティア。
歓迎と敵視、か。
先日泣かされた記憶がまだ抜けないようだな。
あれからこの河原に移動してもう三日は経ったと言うのに、なかなか執念深い奴だ。
「……ただいま」
半分居心地の悪い視線を浴びながら、今日の収穫物を荷物置き場にしている大きめの平らな石へと下ろす。
その横には、土を掘って周りを石で組んだ竈がある。
中はすでに木の枝が組み編まれていて、いつでも火を起こせるようになっていた。
ここ数日で、彼女らも手慣れてきたらしい。
「もう帰ってきたのか、きさま」
その不満気な声に顔を上げれば、これまた不満気なむくれっ面と出くわした。
どうやらセレスティアの中で俺は【貴様】扱いされることになったらしく、事あるごとにこうして喧嘩腰に絡んできなさる。
「セレス……まだ怒ってるの? もう許してあげたら?」
「ふん……せっかく楽しく遊んでいたのに」
アルミナもこうしてフォローしてくれるのだが、あまり効果は無い。
不貞腐れてブツクサと文句を垂れ流すだけだ。
コイツ……あまり人の話を聞かないタイプだな。
まぁガキだし、ムキになるのはやめよう。
初日と同じ轍を踏んでしまったら、反省した意味が無いから。
「……何でも良いけど、とりあえずメシにしない?」
「ええ、手伝うわ」
というわけで話題の方向転換。
そもそもこっちはそんなことより、この抑え切れぬ空腹感をどうにかしたい。
アルミナと共にテキパキと作業を開始していると、手持ち無沙汰になったセレスティアが恨めしそうにこちらを見ている。
……その不躾な視線には、「よくもわたしの遊び相手を取ったな!」みたいな成分が混じっているようだ。
一人になって暇になったが、毒づいた手前、手伝いにも入り辛くなっている状況か。
面倒なので放置し、俺は兎を持って川に向かうことにした。
これでセレスティアはアルミナを手伝うことが出来るだろう。
作業が効率的に終わるなら、それでいい。
川面には、きらびやかな陽光と何層にも折り重なる木陰の化粧が施されていた。
木々の葉の隙間から波打つ水面へ零れ落ち、乱反射する宝石のような輝き。
その清らかな川の流れに死した兎を突っこみ、血を洗い流す。
流れに沿って左から右へと、赤い煙みたいになって、水中へと溶けていく。
後ろ足を持って近くの木に吊し上げ、足首から切れこみを入れて皮を剥ぐ。
全身の皮を繋げたまま剥がし終えたら、皮は何かに使えるだろうから捨てずに干しておき、肉を持って竈の方へ戻ることに。
戻れば、丁度アルミナが火を起こしていた。
すでに薄く白煙が上がっている。
学習能力の高い奴だ。
数回見ただけで覚えてしまったらしい。
その脇には、案の定セレスティアが居る。
何やら手伝った痕跡が、その鼻頭に黒ずみの一本線となって残っていた。
……何を触って手を汚し、何故その手で鼻を掻いたのだろうな。
コイツには注意力が大幅に欠けている。
こっち見て「わたしも手伝ったのよ、ふふん」みたいな顔してるけどさ……。
「……セレス、顔、汚れてるぞ」
「えっ……!?」
「あら、ほんとだわ。川の水で洗って来た方が良いわね」
作業中だったアルミナにも見られて、頬を紅潮させて足早に川へと向かう。
足取りが危なっかしい……というか前見てない?
転ぶなよーって声掛けたら本当に転びそうだから止めとくか。
そんなことより朝食の支度が優先だ。
黒刀を出して兎を切り分け、水で洗った葉の上に置いていく。
それをアルミナが、慣れた手つきで串状に尖らせた木の枝に刺し始める。
枝の半分ほどが埋まるように貫通したら、竈に翳すように地面に突き立てて、焼き上がりを待つ。
これを流れ作業で繰り返していく。
切り分けた兎の肉をアルミナに手渡す時、ふと見えたその表情に、一瞬瞳を奪われた。
――笑って、いる?
何かとても楽しそうに、微笑みを浮かべていて。
ただ調理をするだけなのに、何が楽しいんだろう?
なんてことを考えていたら、目が合った。
「ん? 何で笑ってるのかって?」
表情に出ていただろうか?
そんなに不思議そうな顔していたのか自覚は無いが、俺の心は読まれたらしい。
「ああ、よく分かったね」
「ふふ、だって顔に書いてあるもの」
あ、やっぱり?
ポーカーフェイス練習しようかな……。
「あのね……私、こうやって、誰かと一緒に料理したこととか、無くてさ」
「え? ……そうなんだ」
孤独、だった?
アルミナにはどうやら、何かしらの家庭的な事情があるようだ。
……いや、在った、と言うべきか。
もうその家族は、この世に居ないかも知れない。
「うん。だから、いまのこの生活は大変だけど、前よりも楽しいのよ。私にとってはね」
「そ……っか。何か、凄いな」
「そう? まぁ、特殊な家庭に育ったからね」
……どんだけドン底に居たんだこの人。
こんな着の身着のままのサバイバル生活を楽しめるなんて、それよりシンドイ状況に居たってことだよな?
俺も学校でいじめを受けていた時期は、父さんの修行の方がマシに思えたものだが……。
人を傷つけて、仕返しに傷つけられて、人付き合いが面倒になって、孤独へと逃げた。
けどそんな状況を父さんが見過ごすはずも無く、結局は立ち向かうことに。
――いまでも、そのときの教えは耳に残っている。
いいかルフィアス……人は一人では生きられねぇ。
そもそも単独では産まれて来ることさえ不可能だ。
オマエ、自分の身体をゼロから造れるか?
無理だろ?
この世界に産まれてきた時点で誰かの世話になっていて、生きているだけで誰かに迷惑を掛けている。
だからオマエも、ちゃんと人様に恩返ししろよ?
誰かが困ってるなら、オマエが出来ることなら助けてやれ。
そうやって周りを助けることが出来る奴は、周りからも助けてもらえる……かも知れねぇからな。
――かもって何だよ。
うるせぇ。そんなん他の奴らの気分次第なんだから、俺が分かるわけねぇだろ。
てか見返りを期待すんじゃねぇよ浅ましい奴だな。
やったらやりっ放しで良いんだよ。
助けてやりたいと思ったなら、助けっ放しで良いんだ。
オマエがやりたくてやったことなら、見返りなんか要求する方が間違ってんだろ?
逆に助けたくないなら仕方ねぇ。
ほっとけ。
――相変わらず、自分勝手なオッサンらしい意見だな。
んだよ、何か文句あんのか?
――いいや……。
言いたいことあんなら言えよ?
黙ってられる方が面倒くせぇ。
……とか、あの父さんは真面目くさって言ってたな。
父さんには、あの言葉の続きは言わなかった。
照れくさくて、言えなかったんだ。
それ、気に入ったぜ――って、言えたら良かったかな。
まぁ……何も語らない俺の異変に気づいた父さんだから、俺の表情見て分かってたかも知れないけど。
不器用な言い回しだったが、結局のところ、父さんの意図はちゃんと俺に伝わった。
嫌な奴とは関係を切っても良い。
けど、助けたい奴は助けろ。
どんな形でも良いから、自分だって誰かに助けてもらってるんだから、その恩を他の誰かを助けることで返していけ。
まとめると、こんな感じだろう。
俺の場合は確かに、助けることで、助けられているような気がするな。
「どういう意味?」
「……俺はアルミナとセレスティアの二人を助けているようで、本当は逆なんだよ。二人が居るから、自ら死を選ばずに済んでいる。二人が居るから、生きていられる」
自分一人なら、きっとどうでも良くなってしまうから。
生きるのは辛くて苦しいのに、一人で頑張るのなんて、きっと面倒で嫌になる。
二人が俺を必要としてくれるなら、まだ生きていても良いのかなって、そう思えて。
「だから、二人には感謝してるんだ。ここに居てくれて、ありがとうな」
……って俺は何を言っているんだ?
作業しながら、何故か自分の想いを赤裸々に語ってしまっているぞ?
しかも、いまアルミナは、俺が喋りだす前に……俺の思考に対して質問をしてこなかったか?
俺は自分の考えを独り言で垂れ流すようなタイプではないし、いまも喋っていなかったはず……。
どういうわけか問い質そうとアルミナの方を見てみると――泣いていた。
「え……?」
思わず間抜けな声が漏れる。
アルミナは何に驚いたのか目を見開いてこちらを見ながら、口元を抑えてボロボロと涙を溢し続けているのだ。
「なん、で、泣いてる?」
「わか……分からない、私にも、分からないの……」
本人も困惑しているらしい。
首を左右に振って理由の所在が不明であることを示してくる。
「あー! きさま、アル姉を泣かしたな!」
「いや、違う! ……と思うんだが」
そこへ間が悪く帰ってくるセレスティア。
さっきは二人のお陰でとか言っといてなんだが、この展開は面倒くせぇ……。
独りになって良いですか。
「ごめん、ごめんね……違うの、違うから……」
アルミナはセレスティアを執り成しながらも涙が止まらず、嗚咽にまで発展していく。
やはりちょっと落ち着くまで原因っぽい俺はここを去るべきか?
離れようと立ち上がる俺だが、アルミナにジーンズの裾を掴まれて立ち止まることに。
行かないで、という意志表示?
俯き両手で顔を覆っているというのに、まるで俺の行動が見えているような、俺の思考が読めているみたいな的確さだな。
……いや、まさか?
「アル姉」
ふわっと、セレスティアがアルミナを頭から抱きしめた。
いつも自分がされているみたいに、優しく包みこむように。
俺の立ち去る意志が無くなったからか、アルミナはジーンズから手を離し、また自分の顔を覆う。
……色々と聞きたいことはあるが、それはこの状態が落ち着いてからだな。
アルミナのことはセレスティアに任せて、俺は食事の支度に戻ろう。
きっと泣き終わったら、腹が減ってるだろうから。
泣くにも多少体力は必要である。
……黙々と作業を続ける中思案するのは、さて何から尋ねるべきかについて。
まずは泣いた理由か。
けどそれは、分からないと言っていた。
これ以上掘り下げたところで理由は出てこないかもな。
では、どういう感情が沸いたのかを聞いてみようか。
悲しみの涙なのか、喜びなのか……感極まって泣くとしたら、そのどちらかだろう。
そのどちらかの感情が沸いた切っ掛けは、直前の俺の言葉、なのだろうな……疑いようもなく。
『ここに居てくれて、ありがとう』――何故その言葉に反応したのかについては、アルミナのバックボーンについて聞かなければ分からないだろう。
バックボーン……彼女の背景にあるもの、これまで育ってきた環境と、それにより形成されたであろう価値観。
特殊な家庭で生まれ育ったと、彼女はそう言っていた。
プライベートな内容だから、無理に聞くわけにもいかないか。
……となると、手詰まり?
本人が話してくれるのを待つしかない?
いや、聞き出す側としては、話しやすい雰囲気を作ることは出来るな。
……それをどうすれば良いかについては、皆目見当もつかないが。
とにかく落ち着いてもらうのが一番かも知れない。
早く聞かせろと急かすのは間違いなく逆効果だろうし、むしろこちらからは何も聞かない方が良いか?
話したくなったら自ずと喋り始めるだろうという希望的観測をして、自然体で接することにしようかな。
……自然体を意識すると、逆に不自然になりそうではあるが。
気がつけば、少しずつ嗚咽は治まってきている。
俺の手元の作業も後わずか。
「おちついた?」
「……ええ、ありがとう、セレス」
やんわりとセレスティアから離れたアルミナは、涙で濡れた目元を拭いながら笑ってみせた。
「急にどうしちゃったの? お腹、いたいの?」
ストレートに聞き出そうとするセレスティア。
……俺があれこれ悩むだけ無駄だった。
俺がどんな行動を取ったところで、どうせコイツが聞いていただろう。
「ううん、痛くないわ。大丈夫、気にしないで」
そしてそれに対するアルミナの応答。
あまり話す気は無いらしい。
心配を掛けないようにとの配慮か。
けれど、いきなりあれだけ泣かれて、気にするなというのも無理があるぞ。
誰だって気になるし、力になれるのならなりたいと思うのが自然だ。
「むり、気になる」
セレスティアも俺と同意見らしい。
ここは俺も加勢しておくか。
「……アルミナ、さっきは涙の理由について分からないと言っていたけど、思い当たる節があるなら聞かせてよ」
「む……」
いや加勢したのになんで睨むんだよセレスティア……。
二人の世界に入ってくるな、とでも?
いつまでも根に持つのは疲れないか?
「……そう、ね。少しずつ、整理しながらになるから、要領を得ないかも知れないけど、良いかしら?」
「構わないよ。対話しながらの方が整理し易い場合もあるし」
喋ってる内に自分の中で勝手にまとまるんだよな。
あの感覚は不思議だ。
デジタルなCPUは同時平行で複数の動作をさせると負担が大きくなるが、アナログの脳みその場合は、ある程度なら動作を連動させることで相乗効果を狙えるようだ。
無論、許容限界を超える同時運用はどちらにしても故障の元だろうけど。
「私は――」
アルミナが、思考を巡らせながらぽつぽつと語り始める。
「私は、思えば……いままで誰からも必要とされてこなかった」
「誰からも……?」
「そう……誰からも。近所の人、学校の同じクラスの人、先生、道行く他人……そして、親からも」
「……どう、して?」
セレスティアが、胸元を抑えながら悲痛な問いかけを発した。
まるで、自らの胸が痛いとでも言わんばかりに、その表情を曇らせて。
「どうして、かしらね? 多分、私が望まれて産まれてきた子じゃないから、かな」
困ったような顔で、虚しい笑みを浮かべるアルミナ。
その自身の境遇に、諦め切った表情か。
「私の、母はね……私を身籠ってすぐに離婚しているの。父は他に女の人を作って逃げてしまったらしいわ。だから、その父が残した私を、ずっと憎んできたみたい」
居なくなった人間に対する悪意を、残された罪なき子に向けたのか。
そんなことを……笑顔で話すなよ。
作られた笑みなんて、わざわざ顔に貼り付けなくていいってのに。
「何度も、私を堕ろそうとしたみたい。けれどもう産まれる間近で、周りに止められてそれも出来なくて。で、結局産まれたけど、母は最初から、育児放棄してたらしいわ。私はほとんど祖母に育てられたもの。その祖母も、世間体を気にして仕方なく、という風だったけれど」
だんだんと、身の上を語る声が冷えていく。
乗せられている感情が、あまりにも冷たいのだろう。
「そんな祖母も私が学校に上がる頃には死んでしまって、母と二人暮らしになって。一緒にいる時間が増えて母から言われた言葉といえば、事あるごとに『居なくればいいのに』とか、『さっさと消えればいいのに』とか、そんな存在を否定されるような言葉ばかり」
アルミナの顔から、表情が消えた。
薄ら寒い仮面の笑みすら、もう作れないのだ。
「家事はほとんど私がやっていたわ。母は男をころころ変えて、遂には身売りまでし始めて。幼い私が居ても構わず部屋に男を連れこむのよ。その男にも、邪魔にされた」
何一つ、愛の無い生活だな。
むしろ、その逆の悪意に満ちた、この世の生き地獄だ。
「学校に行っても、何故か皆私の家の事情を知っていて。……親から言われたんでしょうね、あの子とは関わるなって。先生ですら、私と目を合わせようともしなかったわ」
何故?
何故、周りの人間は救いの手を差し伸べない?
「事情を知っているくせに、誰もアルミナを助けようと動かなかったの?」
思わず、口を挟んでしまう。
「そうね、何故かしら? 多分、面倒事に首を突っこんで、自分の時間と労力を使うのが嫌だったんじゃない? 私一人を助けるのに、そこまでする価値を感じなかったのね」
皆自分が大事だから?
腫れ物には触らず、臭い物には蓋をして、目を背けて、自分が汚れなければいいのか?
見てくれだけの――表面だけの綺麗さを求めたって、心が汚れているなら意味がない。
詰めこまれた汚れはいつか【内】から滲み出て、【外】を醜く様変わりさせるから。
それに……その立場にもし自分がなっていたら、助けてもらえないのが当たり前だからって、簡単に諦めがつくのかよ?
周りが皆そうしてるからとか、助けたら自分もいじめられるとか、そういう怖さに怯えて自分の意志を曲げてしまうのだとしたら、そんなものはただの臆病者だ。
そういう臆病者はきっと、自分の人生を左右するような大事な選択肢でさえも、その選択を他人に流されて、流されたことすら自覚せずに後悔するのだろう。
「……価値云々の問題じゃない。そいつらが臆病だっただけだ」
「ありがとう。貴方は……ルフィアスとセレスティアは、勇敢よね」
少し、アルミナに笑顔が戻った。
「……ん? そう?」
セレスティアは言われている内容の半分も分かっていないのか、さっきから小鳥のように首を傾げている。
お嬢様育ちの功罪か……世間知らずな面がありそうだ。
まぁ、あまり九歳の子が聞くような話でもないから、逆にいまはその方が良いか。
「そうよ。だって、見ず知らずの私のために、身体を張って助けに来てくれたじゃない?」
「あんなひきょう者たち、おそるるに足りないわ」
えっへん、と小さな胸を逸して誇らしげである。
結果として助かっただけで、君はもう少し思慮深さを養った方が良いと思う。
それに……あのとき助けようと思ったのは、結局自分を助けたかっただけだ。
「いま思えば……助けたのはきっと、自分のためだよ。俺は……自分の存在理由が欲しかったんだ」
「存在理由?」
「さっき価値の話をしていたけど、それにも通じるかな。存在価値――俺は、自分に価値を見出だせていなかった」
無力だった。
大切な人は誰一人救えず、逆に自分だけ助けられて。
こんな何も出来ない自分に生きている価値なんてあるのかって、そんなことばかり考えてた。
「だから俺は、君たち二人を助けることで、存在することを許されたかったんだ。誰に許可を求めるようなことでもないけれど、多分、自分が納得するために」
生きている実感。
生きていても良いんだという実感を得るために、他者を助け――他者へ貢献し、それを存在理由――自分の価値としたかった。
そうでもしないと、自分で自分を殺してしまいそうだったから。
だから結局は、俺の人助けなんて自分のためでしかない。
「……それでも、嬉しかった。私も自分の存在価値なんて無いと思っているから。助けてもらえたこと、そして、『ここに居てくれて、ありがとう』って、さっき貴方がくれた言葉。私にとっては……初めて存在を認められたようなものよ」
存在そのものに対する感謝の言葉。
それが、いままで存在することすら否定され続けてきたアルミナに、響いたのか。
「……だから、初めてだったから、分からなかったのでしょうね。いま貴方の説明を聞いて、自分の中でも整理ができたみたい」
「それは、何よりだ」
「……てことは、うれしくて泣いたの?」
「そうなるわね。心配掛けてごめんね? 抱きしめてくれて、ありがとう」
「う、うん……」
そう言いながらセレスティアを抱きしめ返すアルミナ。
セレスティアは嬉しいのか頬が紅潮している。
気持ちの整理が出来たいま、俺もこの娘に、ちゃんと言うべきか。
「改めて……セレスティア」
「な、なに……!?」
「俺は君が居たから、いま生きていられる。ここに居てくれて……この世界に産まれてきてくれて、ありがとう」
「な、う……いきなり、なに言ってんのよぅ……」
ちょっとかしこまった俺の態度にセレスティアが警戒してしまったが、目を伏せて少し照れた様子なのを見ると、まぁ気持ちは伝わったかな。
「……こっちこそ、ありがと」
「……え?」
「な、なんでもないわよ!!」
「あ、いや……聞こえた、聞こえたけど。ごめん、ちょっと予想外だったから」
ボソッと呟くように発せられた言葉。
ちゃんと拾えて良かった。
セレスティアとの間には最初に浅からぬ溝を作ってしまったが、これから少しずつ埋めていけるといいな。
彼女は俺を避けたいのかも知れないけれど、少なくともどこかの街に避難できるまでは、共に生活せざるを得ないだろう。
その短い間だとしても、いがみ合うのはお互い精神的に疲れるだけだ。
俺が広げてしまった溝だから、俺の方から埋めていく努力をしなければ。
「……私のせいで待たせてしまったわね。食事にしましょう?」
「うん、食べよう!」
お腹が空いていたらしいセレスティアは、アルミナの提案に元気に頷いた。
「……そうだね。そろそろ、焼け具合も良いんじゃないかな?」
焼けていそうな串を何本か、二人に手渡す。
「ありがとう、頂くわ」
「いただきます!」
「うん、頂きます」
口に物を入れれば、しばしの無言の時間が訪れる。
野生そのままの肉は、家庭で食卓に並ぶ物に比べれば当然生臭いし食べ辛い。
ただ焼いただけだから仕方ないが、本当はもっと美味しく食べる知恵があるのだろう。
俺はそこまでは、まだ知識も技術も習得できていない。
今後の課題だな……まぁ、人里に帰れたら、の話になるわけだが。
……しかし、救助は来るのだろうか?
あれから三日経つが、救助船はおろか商船一つ見かけない。
都市間の通信は途絶しているのだから、何か異変があったことはすでに他都市にも伝わっているはずだ。
もしかして、もう実は災害発生直後に救助部隊は来ていて、救助活動も終わっていて、ここは捜索範囲外だった、のでは?
嫌な予感に身が竦む。
あり得る話だ。
ここは災害発生地点たるアキノスが在った座標からは、それなりに離れている。
体力が回復したら、移動した方が良いのかも知れない。
いや、まずは移動するにしても、どの方角に行くかで明暗が分かれるな。
人里に近づくか、救助部隊の捜索網に引っかかる方向に行ければ良し。
逆に人里から離れる方向に行ってしまったり、捜索網から外れるルートを選択してしまったら目も当てられない。
この場が捜索範囲内ならば、そもそも動いたらダメだ。
どうすべきか?
移動するとしてどの方角に進むかは、俺の翼を以てすれば上空からある程度先を見通せるのだから、それを材料に判断すればいいだろう。
……というか移動するか否かについては俺一人で決められるものでも無いし、議題として出した方が良さそうだ。
「ねぇ、二人とも」
早速話を振るべく声を掛ける。
「ん? どうしたの?」
アルミナはすぐに手を止めて応答してくれた。
セレスティアは視線だけこちらに向けている。
「あれから三日経つけど、救援はまだ来ないよね? もしかするとここは、捜索範囲の外かも知れない。だから、そろそろ移動すべきか否かを話し合った方が良くないかな?」
このままここで生活していくのは、幾分無理がある。
いまはまだ初夏だから気温も過ごしやすいくらいだし、天然の食糧も豊富だ。
けれどそれでも夜は寒くなるし、食べ物がなかなか見つからないときだって当然あった。
これが夏を越えて秋になり、冬まで来ると致命的なのは言うまでもない。
文明の利器無しで冬を越える知識も技術も、俺は持ち合わせていないのだから。
だからなるべく早い段階で、都市部とは言わないまでも人の住む地域に避難できた方が安心だ。
「そうね……移動するにしても、闇雲に動くわけにはいかないでしょう?」
「周辺の探索は、俺が空からやるよ。まずは進行方向を決めて、ここみたいに野営に適した場所を経由する形で進めば、移動できるとは思うんだ」
「うんうん。一番の問題点と言えば、その進行方向の決定かしら? 空から見ても、近くに街は見えなかったのよね?」
その通りだ。
二日前くらいにやった周辺の探索飛行中に見えた景色と言えば、地平線の先まで広がる大自然だけだった。
「そうだね。一昨日くらいに試した際は、樹上から下を見るのが関の山だったのもあるけど。今日は体調も少し良さそうだし、もっと高度を上げて、上空から遠くを見通せないかやってみるつもり」
蟻の目線、犬の目線、人の目線、象の目線、鳥の目線。
【高い位置】に居る方が【遠くまで見通せる】ように、この世界は出来ている。
それは知能にしても同じ。
知能レベルも高い方が、先の結果を予測しやすくなる。
経験レベルにしてもそう。
――そして、霊的な勘においても。
「なるほどね。体調、少し戻ったみたいで何よりだわ。でも、無理はしないでね?」
「うん、出来る範囲でやるよ」
そして、互いに食事へと戻る。
これで大体の話がアルミナと俺との間で付いたな。
セレスティアは黙して食事に集中しているようだが、一応聞き耳は立てているようだ。
俺たちの決定に従い、どうせ付いてくるのだから良いと言うことか。
進路の決定……これは俺一人の問題ではなく、いまや一蓮托生となったこの三人全員の死活問題である。
もし、上空からでも地平線まで街一つ見えなかったら……。
俺たちはこの狭くなっていく世界で、迷子のまま、生を終えることになる。
……やめよう。
負のイメージはあまり持つべきではない。
想ったことは、現実に多大な影響を及ぼすものだ。
良いイメージを持って、なるべく事に当たるとしよう。
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