▼Γ
八階に戻ると完全に日が落ちていて、この部屋にも夕闇が降りてきていた。
キッチンとは円卓を挟んで反対側に、リビングスペースがある。
白い壁に向けて扇状に置かれた弓形の黒いソファに、俺は風呂上がりに熊の毛皮みたいな茶色の部屋着を被せられて座っていた。
というよりもだらけていた、と言った方が正しいか。
トレーニングよりも風呂の方が疲れた気がするのは何故だろう。
リラクゼーションを求めて入ったはずなのに、何故体力を消耗してしまったのか。
しかし過ぎたことを考えていても仕方がない。
ソファの前には楕円形のガラステーブルが置かれていて、そこの中央に描かれたロゴ――何の文字なのか良く分からない先鋭的なデザインのものに、緩慢な動作で手を置く。
各種生体認証システムを通過し、目前の壁面ディスプレイに【
俺はソファに深く腰かけ、指先で空中をタップすると、視線計測センサーと動体センサーがその動作を認識し、内蔵されたAIが判定を下して、即座にニュース一覧のアイコンが選択されたことを視覚的に表現するように淡く光る。
設定された一瞬の遅延を経てニュースウィンドウが開かれ、注目記事一覧が表示された。
踊る文字の羅列は概ねいつも通りだ。
現在地周辺の天気と外気温の推移予想、各国の不安定な情勢、悪化していく経済の数値、どこかの街がまた黒い海に飲まれたこと。
……タイトルと数行表示される概略文を流し読みながら次々とスクロールしていき、そして、一つの記事に目が止まる。
――人身売買グループを逮捕。被害者五〇名救出。
昨日の記事だ。
人差し指でエアータップして内容を表示。
……一人の死者も出なかった、と書いてあった。
ほっと胸を撫で下ろす。
昨日未明……騎士団の活躍により……現在、グレッシャリア騎士団本部にて取調べを……等々、記事の詳細を読み進めて行くと、一つ書かれていないことに気づく。
……【
情報規制が掛かったか。
大方、大衆の不安を煽らぬため、無用な混乱を避けるため、などという名目だろう。
「あれ? この記事って」
髪を乾かし終えたらしいアルミナが隣に座る。
八人掛けくらいの大きなソファなのだが、俺にもたれて押しのけるくらいの勢いで必要以上に密着してくるのは何故か。
俺が着てるのと同種の黒い毛皮を纏っているので余計に暑苦しい。
「騎士団って書いてあるけど、これ、ルフィアスが関わったの?」
言いながら、何やら手に持っていたグラスを二つ、テーブルに置いた。
自分の前と、俺の前に。
「ああ、そうだよ。昨日はこれに掛かりっきりでさ」
「……失礼致します」
その背後から静音モードで気配を消していたリエラが一声発し、その手に持ってきた酒瓶の中身を注ぎ入れる。
薄く赤い液体が細い滝を作って透明な杯へ……これはシャンパンか。
更にトレーがテーブルに置かれ、その上には種酒の肴が盛り合わされた大皿が。
「かんぱ~い♪」
「……乾杯」
無理矢理持たされたグラスを合わせると、小気味の良い硬質な音が響く。
一口飲んでみると、予想以上に甘くて……。
「あまっ。ジュースみたいだな」
「飲みやすくて良いでしょう?」
アルコールをほぼ感じないので飲みやすいだろうけど、裏を返せば酒を飲んでいる気はあまりしない。
「飲みやすいと、飲みすぎるんじゃないか?」
「んふふふ、酔わせてどうするおつもりかしら?」
「いやあの……お酒持って来たのキミなんだけど」
酔わせて、あるいは酔って何するつもりなのか、逆に聞きたい。
さっきエロいことはしたばっかりだが。
というか記憶が薄れているが、朝っぱらにもやったんだったな。
……一日何回するんだ。
「一仕事終わったら晩酌に限る、でしょ?」
「俺は大体風呂入って寝るけど」
一人で酒を飲むことはほぼ無い。
しかもその一仕事って、昨日終えた互いの生業のことだよな?
まさかさっきの子作りのことではあるまい?
「いいから限るの!」
「勝手に限られてもなぁ」
「まぁ良いじゃない。たまには付き合いなさいよ。はい、あーん」
それが何かを確認する前に口に放りこまれていて、口内で広がるカカオの香りと砂糖の甘さに顔しかめる。
「あまっ。チョコか。酒もつまみも甘いんだが、バランス取る気は無いんですか?」
「無いよ。飲みたい物飲んで、食べたい物食べるだけ」
「深くは考えない、と」
「それより何か面白いもの見ようよ。ニュース飽きたー」
「ニュース見たくない、の間違いな。飽きるほどまだ見てないから」
言葉の乱れは心の乱れ。
その使用方法については厳正に対処したい。
「はやくはやくー」
「そう言われましてもね……」
面白いものってなんだよ。
良く分からんがニュース一覧を閉じ、とりあえず世界の最新動画アイコンをタップ。
この御方の面白いと感じる物はなんだろうな。
「スティックゲームしよ」
スティックゲーム?
あのスティック状の菓子を両側から加えて、キス寸前まで顔が接近するのを楽しむゲームのことか?
既に恋人関係なのに、意味あるの?
「……いま、仰せつかった面白いもの探しを」
「良いから早く」
そう言われて横を見れば――
「ぶっ……! ってそれ、あたりめじゃねぇか」
スティックゲームと言いながら物はスティックにあらず。
その口に咥えていたのは、イカの干物を模した大豆加工品で。
思わず吹き出してしまう。
「ほらほら早く~」
「もう酔っ払ってんのか? どーしろってんだよ、そんな硬いもの? ぷっ……ずーっと見つめ合いながら噛み続けるのか?」
「いいれしょ?」
既にもぐもぐされておいでだ。
あまりにもアホらしい状況に腹筋がつりそうになりながらも、こちらに向けられている偽あたりめの末端を口に咥える。
「よーし……れでぃ、ごー!」
先にスタートしてたくせに改めて開始宣言をされて、偽物ながら顎の筋トレに良さそうな噛みごたえのあるあたりめを、ひたすら噛んでいく。
……近い。
アルミナの顔が近すぎる。
気恥ずかしさと滑稽さでお互い笑えてきて。
無言で噛んでいく長い時間さえ、苦にならずに。
少しずつ少しずつ、互いの距離が縮まっていく。
あと一歩で唇が触れ合う近さまで来た。
お互いのかすかな吐息がかかる距離。
擦れ合うように、口づけを交わす。
……偽あたりめで繋がりながら。
アルミナは噛み切る作業を投げ出し、残った偽あたりめを俺の口内へと放りこんできた。
流石の所業である。
「……飽きて丸投げかい」
お互い離れて、元の位置へ。
しょうもないなぁコイツ、という目で見据えてやると――
「なかなか楽しかったけど、予想以上に顎が疲れるわね」
そんなものは意に介さずの評価判定である。
こちとらまだ顎の酷使は続いてんだが。
残りの偽あたりめを咀嚼しながら、何か腑に落ちない思いを抱えながらも面白コンテンツ探しに戻った。
「あ、ショッピングいこう」
「なに? 服でも欲しいの?」
「そだねー」
「……了解」
服屋のサイトを適当に開く。
いつものアルミナ御用達の、ゴシックブランドをまず開いた。
このリビングに、【VRC――
黒くシンプルなデザインだったソファは、アンティークなバラ柄のクッションが敷き詰められた装飾優美なベンチに化けた。
楕円のガラステーブルは庭園でお茶でもするような白い円板と曲がりくねった黒鉄の足が付いたティーテーブルへと変貌を遂げており、何も無かったテーブル横の空間には、いつの間にやらゴシックドレスが所狭しと並んでいて。
VR映像をリビングの表面に投射しているだけなのだが、見た目だけではなく脳に錯覚を起こさせることで触覚的な質感をも再現しているので、VR映像の服を試着してサイズ合わせ、なんてことも可能だ。
いまではこうしてネットショッピングがリアルショッピングと遜色無くなってしまい、街並みから様々な店舗が姿を消している。
「あ、新着のコート……なかなか良いの有るじゃない♪」
俺の隣からいつ移動したのか。
アルミナは楽しそうに、黒い魔女っぽい長外套を試着していた。
布が折り重なっているような、そもそも生地が破れているような……相変わらず奇抜なデザインが好きなんだな。
「ルフィアス! これ、どうかな?」
「……個性的で良いんじゃない?」
「それだけ?」
物足りなさそうな顔をしている。
もっと言葉が必要か。
「……アルミナはもともと綺麗だしセンスも良いから、選んだ物は大体似合うと思うぜ。後は、自分が何を着たいかで決めろよ」
「そう? じゃあこれ買っちゃおうかな~」
実際アルミナは容姿もセンスも良いのは自他共に認めるところだし、俺が吐いた言葉に嘘は無いのだが、にも関わらず毎度のようにこうして意見を求めてくるのはどういう心理が働いているのだろう。
単なる話題作りか?
あるいは、同意を得て後押しが欲しい?
他者からの客観的な意見が、主観の暴走を抑える上で一役買うというのもあるか。
「ルフィアスも何か選んだらー?」
「足りてるから要らない」
「そう?」
あまり増やしても管理が面倒だしな。
大人しく酒とツマミを味わいつつ、俺はまたニュース記事を読み漁ることにした。
VR店舗の展開はそのままに、壁面ディスプレイに再度ニュース一覧を表示させ、色々と情報を集めること、小一時間が経過。
「こうにゅうけってい……っと」
「ん? 選び終えたか」
購入選択をした商品一覧を、キャッシャーにて精算したらしい。
即座に、壁面ディスプレイ脇の転送スペースが青白い立方結界によって確保され、眩い閃光と共に購入した商品が簡易物質転送で届く。
物質再構成による閃光が収まり、次いで結界も解かれて現れたのは――
「結構買ったな」
「一式揃えたからね」
帽子から靴まで、冬物一式か。
届いた品に早速近寄るアルミナ。
黒熊のコスプレを脱ぎ捨て、黒いショーツ一枚になって、届いた商品に袖を通し始めた。
白を基調としたレース付きのミニワンピースに、最初に選んでいた幾重にも黒布が重なったようなコートと、黒のハイロングブーツ。
鍔が大きく先端が折れた柔らか素材の黒い三角帽子には、黒い薔薇と羽の飾りにリボンまで多重についていて。
結果として洒落た魔女が出来上がったが、服としての実用性は無さそうだ。
「良いのよ、着たい物を着るの」
心の声が漏れていたらしい。
不満気な応答があった。
それでも新品の服に袖を通した彼女は、心なしか笑顔で、幸せそうである。
「よぉーし。それじゃあ明日は、これ着て行こうかなぁ」
「……お、外出とは珍しいな。どこに行くんだ?」
「あれ? 言っておいたじゃない。貴方について、街に行くって」
「え? 言われたっけ? いつ?」
「……起きてからも言ったし、食後にも」
「そう、だっけ……?」
「覚えてない? ……監視映像、再生してみましょうか」
そう言うと、アルミナがGCを操作して、該当時刻の屋内監視記録を再生した。
そこには――
『だぁ、もう離せって。空腹で倒れそうなんだって』
起きて間もない頃、ベッド上でのやり取りが映し出されて。
『うぅ……じゃあ、明日も一緒に居てよー?』
『明日は街に戻るって……ああ、なら付いて来ればいい』
『街に?』
『そう。たまには外食しようぜ』
『……うん、分かった』
そこに映っていた姿――それは間違いなく俺なのだけれど、残念ながら全く記憶にない。
やはり、脳に障害が出ているのだろうか。
「……大丈夫?」
「ハァ……どうやら、ホントにボケ始めたみたいだな」
「損傷していた脳細胞は、ほぼ完全に治したのだけれど……」
「何か見えない不具合でも出ているのかもね。まぁ、脳トレでもするさ」
「またそんな簡単に……自分のこととなると、いつも適当になるわね」
楽観視した俺の発言に、心配そうな、悲しそうな顔をする。
「明日、精密検査を受けに行きましょう?」
「精密検査……【アカデミア】か。あそこは良い思い出が全くないから、出来る限り近づきたくねぇんだがな」
「私もよ。でも、ここより詳しく調べるなら、アカデミアしかないわ」
【王立総合学術研究機関】――通称【アカデミア】。
身体検査と称したあの実験の日々は、思い出したくもない。
「……全く気が進まない」
「私が検査技師をやるから。それなら良いでしょ?」
「ふぅ……そうまで言われたら仕方ない。分かったよ」
「ごめんね……心配性だから、私」
「良いさ。むしろ俺が心配しなさ過ぎだから、二人でバランス取れてるんじゃない?」
「ふふ、そうかもね。あ、忘れない内に、検査室の使用許可を申請しておくわ」
「ああ、頼む」
早速、アルミナはGCを操作して通信を開始した。
長時間の検査とか退屈過ぎて苦痛だけど、それでアルミナの心配が少しでも和らぐなら、まぁ良いか。
逆に悪い結果だったら、火に油を注いでしまうわけだが。
まぁどんな結果だろうと、あるがままを受け入れよう。
死を意識して臆病になる必要はない。
死ぬなら死ぬで、後の者に引き継ぐだけだ。
それに、例えどんなに悪い結果だろうと、そこからひっくり返してやればいい。
盤面の九割が黒に染まったオセロでも、最後に四隅を取れば白が勝つ。
その方が、面白いしな。
――思念波が及ぼす影響の検証実験において、【思った方向に事象が傾く】という結果が存在する。
この結果を素直に受け止めて簡潔に言い換えれば、【悪い状態を想像】するとその【悪い事象が起こりやすく】なり、逆に【良い状態を想像】すれば【良い事象が起こりやすい】、という規則性が在るってことだ。
心配すればするほど、想いの強さが引金となり心配した通りになってしまう。
だから、アルミナはさっき謝ったのだろう。
表向きは良さそうな【心配】という想いが、裏返せば毒だと知っているから。
しかし心配しなさ過ぎて無頓着になり、それで病気を見逃すのも良くないから、ある意味やはりバランスは取れているのかもな。
……思考は巡り、宵は深まる。
このまま、間延びした時間の中だけで生きていたいものだ。
けれど明日は来る、必ず。
気持ちだけ逃げていっても、身体は逃げられやしない。
結局は立ち向かうしか無いのだから、どうせなら楽しんでやろう。
それこそ死の間際まで、ずっと。
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