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 信じられないモノを見た。

 いまでもまだ、夢か現実かを疑っている私がいる。

 それほどに、目の前で起こったことが衝撃的で……。

 少なくとも私が生きてきた世界では、想像もできなかったことだ。

 どこからか現れた翼を持つ少年が、ギャング六人を瞬く間に倒してしまうなんて。

 それで私が、救われてしまうなんてことは……。


 とすん、と近くでそんな軽い音がしたので目をやると、すぐ目の前に尻もちをつく金髪の少女が――あぁ、最初に私を助けに来てくれた子だ。

 そんなことを改めて認識しなければならないほど、この頭は混乱しているらしい。

 無理もないか……いまもなお眼前に横たわる惨状は、とても、直視できるような代物ではないのだから。

 私よりもずっと幼いこの少女の方が、この光景に精神を乱されているかも知れない。

 早く、ここを離れた方が良いわね。


「……あ、あの、大丈夫?」


 近づきながら声をかけるも……応答はない。

 放心したように前を見ているだけ。

 前に回って顔を覗いてみると……いけない、目が虚ろだわ。

 焦点が合わないまま、それでも惨憺たる景色から目を逸らせずに、それに、そのことだけに思考を支配されている。

 血を、肉を、死を見つめて、その強烈さに、それしか見えなくなっているようだ。

 私は、少女の視界をこの身体で塞ぐようにして、その白い頬を両手で優しく包みこむ。


「こっちを見て。私を見て」


 力強くそう言いながら、膝立ちになって目線を合わせ、笑みを作る。

 少しでも、この子が安心できるように。


「もう、終わったよ。もう大丈夫……大丈夫だから。助けてくれて、ありがとうね」

「あ、う……うぁ」


 少女のつぶらな瞳に、色が戻った。

 元々の色――綺麗な藍色が。

 途端に溢れ出す感情は、恐怖、安堵、困惑、不安……。

 この小さな身体では抱えきれないほどの感情の奔流に、泣き出してしまうのは当たり前だろう。

 小さな声でしゃくりあげる少女を抱きしめて、その震えが止まるまで、このままでいることにした。


 鼓膜を震わせるのは、さやぐ風の音。

……周りを見れば、夕焼けの朱が辺りを染め始めていることに気づく。

 ちょっとマズいわね……暗くなる前に、せめて移動しないと。

 このままここで寝るわけにはいかない。


「少しは落ち着いた?」


 その問いかけに、小さく泣きながらも頷いてくれて。


「歩ける?」

「……うん」


 か細い返事だけれど、きちんと意思も返してくれた。

 それに満足し、私は抱きしめていた少女を離して、再度目を合わせる。


「強い子ね、偉い偉い。私はアルミナ。貴女のお名前は?」

「セレス、ティア……ひっく」

「セレスティアって言うの? 可愛いお名前ね。ところでセレスティア……」


 泣きながらでも応えてくれているセレスティアに、移動する前にもう一つ確認しなければならないことがあった。

 私は後ろに顔を向けて、彼の方へ視線を誘導する。

 私たちを助けてくれた――のだろうか、あの金髪の少年は?


「あの子、知り合い?」

「……ううん、知らない」

「そっか……」


 セレスティアと容姿が似ているから兄妹かな、とも思ったけれど、知り合いですらないんだ……。

 じゃあどうして助けてくれたのだろう?

 いや、そもそも助けてくれたのか?

 あの最後に見せた、どす黒い殺意……。

 ただ、目についたモノを殺したかっただけ、だとしたら?

 もしかしたら私たちも、殺されていたのかも知れない。


……それはない、か。

 冷静に思い返してみれば、最初、彼の心の中は恐怖が大きかったものね。

 それでも【自分が助けなきゃならない】というような責任感でその恐怖を捩じ伏せて、戦ってくれたように感じられた。

 せめてその生死を確認して、死んでしまったのなら弔いをすべきだろう。

 私はそう結論づけると、セレスティアに向き直り笑顔を見せて告げる。


「ちょっと待ってて。すぐに戻るから」


 きょとんとしながらも頷いてくれた。

 それに頷き返して、私は彼の下へと向かう。

 振り返り歩を進めれば、一歩進むごとに血臭が増していく。

 はみ出した腸からは腐卵臭のような嗅覚を刺激する臭いも混ざり、思わず鼻と口を手で覆ってしまう。

 死体はなるべく見ないようにしているが、この臭いだけでも吐きそうだ。


 こみ上げる嘔吐感に耐えながらも早足で歩いて、うつ伏せで倒れている少年までなんとか辿り着く。

 吐瀉物と血の海に顔から突っこんでいて、このままでは呼吸の有無も分からない。

 何より彼自身が吐いた物で気道が塞がっているかも知れないわね。

 まずは、気道を確保しないと。


 投げ出されていた左手を真っ直ぐ身体に添うように位置をずらして、右肩を引っ張り起こし仰向けにすると、人相の判別が難しいほどに顔中が真っ赤で。

 口元に耳を傾けてみると……ひゅぅ、ひゅぅ、と微かに呼吸音が聞こえた。

 体温もあるし、まだ生きているようだ。


 あれだけの銃撃を受けていて何故?

 と思ったが、傷を確認してみると不思議なことに、どれも表面が少し抉れたくらいで、一発も致命傷には至ってなかった。

 信じられない……【物質穿孔弾マテリアル・ボーリング・バレット】を受けて、生身で無事でいられるなんて。

 あの光の翼といい、化物地味た戦闘能力といい、この子は一体何者なの?


「……と、ぅさん……かぁ、さ、ん……」


 苦しそうな寝顔のまま、少年が小さく言葉を発した。

 その瞬間、それまで無意識だった少年から様々な感情が湧くのが【見えて】、私は驚愕に目を見開く。

 少年の瞼から、朱を押しのけて溢れる涙。

 その胸中を締め付けるのは、悔恨、悲哀、郷愁、感謝……。


 この子は、人間だ。

 そう確信した私は、場違いだと思うのだけれど、自然と笑みを浮かべてしまって。

……薄っすらと、目を開け始めた彼に、そのまま声を掛けることにした。


「目が覚めた? 話せる?」

「……う……んん…………」


 返答は、すぐには無かった。

 目が覚めた彼は、緩慢な動作ながらも上体を起こし、周囲を注意深く観察したあと、私に視線を戻してようやく口を開く。


「……他に敵はいない?」


 彼はどうやら、更なる脅威の可能性――言うなれば伏兵や援軍の可能性を警戒していたらしい。

 起き抜けの第一声がそれとは……およそ少年らしからぬ問いかけに虚を突かれながらも言葉を返す。


「え、ええ。私が知る限りはいないわ」

「そう……」


 彼はそこでため息をつき、ようやく気を弛めたらしい。


「あの、ありがとうね。助けてくれて」

「……いや、むしろ助けに入るのが遅くて、ごめん」

「え?」


 俯きがちに、そう彼は言う。


「……少し、迷ったから」


 あ、最初の恐怖は、そういうことか。

 戦うことの怖さ。

 殺すこと、殺されることに恐怖を感じて、迷ったのね。


「全然、そんなの気にしないで。大人六人相手だもの、大の男だって逃げて当たり前でしょ? ましてや貴方はまだ私より小さいのに、来てくれた。助けてくれた。胸を張って、誇っていいことなんじゃない?」

「そう、かな」

「うん。だから、ありがとうね」


 彼が少し顔を上げて、目が合った。

 微笑みかけると、そのくすんでいた瞳に、少し光が戻ったように見えて。


「どう、いたしまして」


 照れくさそうに頬を人さし指で掻く少年に、可愛らしさを覚えてしまう。

 私は立ち上がり、手を差し伸べた。


「私はアルミナ。これからよろしくね」


 手を取った少年は立ち上がりながら――


「俺はルフィアス……うっ」

「大丈夫……!?」


 途中でよろめき倒れかけて、慌てて支える。


「あ、ありがとう」

「どういたしまして。歩けそう?」

「……なんとか」


 戦闘による消耗が激しいのだろう。

 確かに立ってはいるが、ふらふらと危なっかしい様子だ。

 すぐにでも横にして休ませた方が良さそうね。


「どこか休める場所に移動しましょう」

「……それなら、近くに心当たりがある」

「そう? じゃあ案内頼めるかしら」

「分かった」

「それと、もう一人いるから、一緒に連れていってね」

「……あの子だろ?」


 ルフィアスの視線の先にはセレスティア――こちらを見て険しい顔をしている。

 かなり警戒しているようだ。


「……敵意はないと、伝えてもらっていいか」

「え、ええ。そうね……」


 血まみれで暴れまわった姿を見たのだから、怖がるのも無理はない。

 まずはセレスティアの不安と恐怖を和らげることが先決か。


「セレスティア」


 安心できるように、声をかけながらゆっくり歩いて行く。


「彼は敵じゃないわ……大丈夫よ」


 ルフィアスはこれ以上刺激しないようにと気を使ってか、黙してその場で待機している。

 いまも出血が続く傷を庇う姿が痛々しい。


「彼は、私たちを助けてくれたの。だから、ほら、お礼を言わなきゃ、ね?」

「……そう、なの?」

「うん。だから一緒に、ね?」

「……わかった」


 渋々頷くセレスティアの肩に優しく手を添えて、ルフィアスのところに戻……らない方がいいわね。

 あっちには死体が沢山転がっている。


「ルフィアス! こっちまで来てもらえる?」


 そう声をかけるとルフィアスは一つ頷いて、こちらへとすぐに来てくれた。

 足取りは軽く問題なさそうに見えるけれど……痛みを我慢している。

 動きも自然に見えるように、顔にも出さないように、気をつけているみたいだ。

 何故そこまで平静を装うのかまでは、分からないけれど。


「セレスティアって言うのか……俺はルフィアス。よろしくな」


 ルフィアスはそう言って笑みを浮かべた。

 血だらけの笑みを。

 ちょっと凄惨過ぎるわね……。


「……よ、よろしく」


 セレスティアは、私の陰に隠れながらそう応えた。

 まだ少し警戒している。


「じゃあ、さっそく移動しよう。喉乾いてないか? あっちに湧き水があるんだ」


 ルフィアスが指し示した先に見えるのは、私の身長一六五cmよりも高い鬱蒼と茂る草木。

 あそこに分け入るの?


「大丈夫、道は俺が作る」


 不安そうな私の顔を見て取ったのかルフィアスはそう言うと、その草の壁に向かいつつ右手から【黒い刀】を出して――


「ひっ……」


 セレスティアが後ろで息を飲んだ。


「大丈夫……私たちを攻撃するためじゃないから」


 怯える少女を宥めつつ視線を前に戻すと、彼は【黒刀】で横に薙ぎ払い、草葉を刈って宣言通り道を作り始めていた。

 右に左に【黒刀】を振り、どんどん進んでいってしまう。


 ふと脇のセレスティアを再度見れば、やはり若干怯えた様子で両手をぎゅっと握り締め、先を進むルフィアスを注視している。

 私はそのか細い手を取って、なんとも頼りない笑みを浮かべながら――


「いこっか」


 と声をかけるとこちらを見上げ、少しは安心してくれたのか手を握り返してくれた。

 棒きれみたいに軽々と【黒刀】を振り回しながら歩くルフィアスに、セレスティアの手を引きながらついていく。


 少し進むと、藪が開けて獣道のようなところに出た。

 片側の地面が盛り上がり、黒い土の壁になっている。

 その土壁に沿っていくルフィアスは、それほど歩かずに足を止めた。

 どうやら目的地に着いたらしい。


 ルフィアスの脇では、土壁から伸びる草葉の間から小さな滝が流れでている。

 空中に放りだされて曲線を描く水と、それが下に作る水たまり。

 透明ながらどちらも西日を浴びて、朱に染められていて。


「……喉、渇いてるだろ? 先に飲むといいよ」


 そう言ってルフィアスは湧き水から少し離れた小岩に腰掛け、所々破れた黒いシャツのボタンを外して脱ぎ始めた。

 元は白であったと思われるジーンズも所々破け、血でほとんど紅に染まっている。

 弱っている君こそ先に……と言いかけたけれど、ルフィアスは先に傷の様子を見たいのね。


「わかったわ」


 なので、素直にその好意に甘えておく。

 セレスティアと共に流れでる湧き水に両手を差しいれ洗って、水をためて口元に運ぶ。

 逃走と緊張で渇ききっていた喉が、少しずつ潤されていく。

 水分補給を終えて振り返ると、ルフィアスはシャツを細長く破っていた。

 包帯の代わりにでもするのかな?

 と思っていると、案の定そのまま傷に巻き始める。


「あ、待って、ルフィアス」

「ん?」

「そのまま巻くのは良くないわ。まずは、水で汚れを落としましょう」

「……そうなのか」

「さあ、立って?」


 手を差しだし、掴んだのを確認して引き上げる。

 そのまま湧き水のところまで連れてきた。


「ちょっと染みるけど、我慢してね」

「うん……ぐっ!」


 泥と一緒に固まり始めた血を洗い流すため、まず木枝に引っかけて所々裂けていた自分のブラウスの袖を小さく千切り、水を含ませてガーゼにして、傷周りをこする。

 白い生地に段々と朱や茶が滲んでいき、汚れがほぼ落ちると傷口は綺麗な赤色になった。


「ごめんね、痛いけど我慢して……しっかり汚れを落としておいた方が、傷の治りも早いから」

「く……うん。わかった」


 痛みをこらえながらも、素直に応じてくれる。

 我慢強い子だ。

 傷口に直接触れているのだから、かなり痛覚への刺激があるだろうに。

 それでもルフィアスは、ほとんど身じろぎ一つせずに耐えている。

 そのお陰で、応急処置は意外と手早く済んだ。

 傷を洗い、ルフィアスのシャツで作った包帯も水洗いで汚れを落とし、私のシャツを細かく千切ってガーゼ代わりに当てて、包帯で縛って完了。


「これでいいかな。巻き方キツくない?」

「ああ、大丈夫。ありがとう」

「このくらいなんでもないわ。貴方は命の恩人だもの。私に出来ることがあれば、何でも言ってね?」

「え? いや、う、うん……」


 何か言いたげに、でも言葉を飲みこんで、俯きがちに頷いた。

 遠慮?

 いや、憂い?

 彼は何を憂いているのか?

 むしろこの、あらゆる災難に嘆いているのかな。

 悲しみが、心を支配しているような、そんな印象を受けた。

 だから私は――


「あ、でも……」

「ん?」


 少し悪戯な笑みを浮かべて――


「えっちなお願いは、ほどほどにしてね?」

「――は? へ?」


 前かがみになって上目遣いにそう言ってみたら、面白い反応を返してくれて。

 一瞬パッと顔を上げて目が合ったのに、また直ぐに俯いてしまった。

 それは、先ほどまでの憂鬱な俯きとはまた違う。

 ルフィアスは、こそばゆい羞恥心に顔を赤く染めている。


 私の言葉を聞いて、何か想像したのかな?

 ほどほどにってことは【ある程度は願いに応える】と聞こえるから、照れるような反応を示したということは、何か叶えて欲しい願いがあるのかも知れない。


「べ、別に、願いなんてないよ」

「そう? じゃあもし何か思いついたら、遠慮なくどうぞ?」

「あ、ああ……いや、いいって」


 からかうような真似をしてしまったけれど、結果として、ルフィアスの中に【悲しみ】以外の感情が生まれた。

 それだけでも、下手な芝居を打った甲斐があったというものね。

 いつまでも悲しみに沈んでいたら……なかなか帰って来られなくなるから。


「……日も暮れてきたし、野営の準備をしよう」


 ルフィアスはそう言いながら立ち上がって、辺りを見回し始めた。

 野営に使えそうな物を探しているのだろう。


「いいけど、その前に少し、顔を洗ったほうが良いわよ?」

「え? ……あ」


 最初怪訝そうな表情を浮かべたが、水面に映る自分の顔を見て納得したらしい。

 血、土、草、色々なもので汚れている。

 ルフィアスは湧き水の滝壺に貯まった水を掬い上げ、顔を洗った。

 水滴に朱や茶が混じり、水面を濁らせていく。

 汚れの膜が剥がされて現れたのは、綺麗な白い顔。


……やはり、どことなく似ている。

 ルフィアスとセレスティアは、まるで兄妹のように容姿が似通っていた。

 けれど……他人、なのよね。

 お互いによそよそしい感じだし、何より名前も知らなかったのだし。


「……これで良いか?」

「うん、だいぶマシ」


 水をぽたぽたと滴らせながら、それには全く無頓着に真顔で真っ直ぐに見据えてくる。

 なんというか、狼に育てられた野生児みたい。


「でも、そのままだと風邪ひくわよ?」

「大丈夫だ。それより、日暮れ前に野営の準備をしないと」

「だーめ」


 余ったシャツの切れ端で、強引に顔を拭きにかかる。


「うわっぷっ、……やめっ」

「はい、大人しくしましょうね~」


 あらかた拭き終わって目が合うと、キッと上目遣いで睨まれた。

 でも、そんな顔も可愛く見えてしまう。

 弟ができたみたい。


「これでよし。それじゃ、野営の準備をしましょうか。まず何からすればいいの?」


 そう笑顔で言うと、ルフィアスは憮然としながらも、説明を始めてくれた。


「……まずはそこらに落ちてる乾いた木の枝や、枯れ草を拾う。大小関係なく出来る限り集めて、火を起こす」

「うんうん」

「これを日が沈む前にやらないと。暗くなったら身動きが取れないから」

「なるほど、なるほど」


 確かにすでに薄暗くなり始めていて、このまま唯一の光源である太陽が沈んでしまえば、辺りは真っ暗闇になってお互いの表情すら見えなくなるだろう。


「なら急ぎましょう! ……セレスティアも、頼める?」

「……うん」


 私の傍らで話を聞いていたセレスティアは、素直に頷いてくれた。

 それを見たルフィアスも頷き、早速手分けして収拾開始。

 大小関係なく、と言っていたから、目についた燃えやすそうな枯れ草や木々の枝を片っ端から拾い集めていく。

 ある程度たまったら、湧き水があった場所の近くに拠点として確保した小さな広場に置き、また集めに戻る。

 そんなサイクルを数回繰り返し、両手に木切れを抱えて拠点地に戻ってくると、ルフィアスが集めた物の近くで屈みこみ何やら作業をしていた。


「何をしているの?」

「道具作り」

「道具?」


 見ると、弓のようにしならせた木の棒に弦代わりにシャツを解いて糸状にしたものを巻きつけた物や、両端を尖らせた太めの棒などが作られている。

【黒刀】を使って加工しているらしい。


「これは弓と、槍? 狩りの道具?」

「いや、火起こしに使う」


 火起こし?

 これらの武器っぽい物を使って、火を起こすと?

 どうやるんだろう。

 興味深く見つめていると、まずは弓の弦を、両端を尖らせた長さ三〇cmくらいの太い棒の真ん中くらいに一巻きさせ、地面に置いた加工済みの板上にそのまま垂直に立てると、太い棒の上端も小さな板で抑えて固定し、弓を前後に押し引きさせ始めた。


「おお、凄い。面白いねぇ」


 思わず感嘆の声が漏れてしまう。

 弓の動きに合わせて弦も平行移動すると、太い棒は巻きつく弦により回転し、下端で摩擦力に変換されている。

 両手で細い木の棒を回転させ、摩擦熱を高めて発火させる方法ならよく見聞きするが、あれはかなり手が疲れるらしい。

 でもいま目の前で行われている弓を使った方法ならば、押し引きするだけなので手にかかる負担は大いに軽減されていることだろう。


「あ、けむり」


 ぼそっと、横のセレスティアが呟いた。

 数十秒ほどでもう煙が出ている。

 火種としてはこれで十分役割を果たしそうだ。

 弓と棒の火起こし道具を脇にどけると、燻る板を持ち上げ、石を積み重ねていつの間にか作られていた【かまど】に運び入れた。


 風上に口を開けてコの字に整形されたかまどの中には、すでに拾い集めた枝や枯れ草が整然と並べられている。

 直径が太い順から下に並べ敷かれ、細い枝や枯葉などの燃えやすい小さく薄い物は上に置かれていて、そこに火種が投入された。

 灰色に燻る煙はやがて弾けるような音を立て始め、緋色の炎に変わっていく。

 夕闇が落ちた世界に、小さな光が灯る。


「火、ついたね」

「……あったかい」

「…………座れば?」


 セレスティアと一緒にしゃがみこんで火にあたっていると、ルフィアスが地面を指し示した。

 その指の先には、座るのに丁度良さそうな大きさの石が、等間隔で置いてある。

 椅子代わりに用意してくれていたのね。


「あら、ありがとう」

「それと、食べられそうな物も集めておいたから、つまんでて良いよ」

「え?」


 さらに方向の変わった指先を目で追うと、等間隔で並んだ石の一つに大きな緑の葉が乗せられていて、その上には、木の実や山葡萄がたくさん置かれていた。


「わぁ、いっぱいだね。いつの間にこんなに集めたの?」

「……焚き木集めのときだけど?」


 それがどうしたの?

 と言わんばかりの不思議そうな顔で見つめ返された。

 焚き木を集めながらついでに食糧も確保していたというのか。

 どうやってこんなに運んだのか疑問になるくらいの量だけど、入れ物も何もないのに不思議だなぁ……。


「いただきます」

「どうぞ」


 などと思案していたら、セレスティアが食べ始めていた。

 その姿を見ていたら、そう言えば朝から何も食べていないことを思い出す。


「……私も、頂きます」

「うん」


 瑞々しく張りのある球体。

 紫色の山葡萄を一つ摘んで、口元に運び入れる。

 噛むと、口の中いっぱいに果汁が広がった。

 甘いんだけど、酸味の方が少し強い。


「すっぱい……でも美味しい」

「うぅぅ……すっぱい」


 口をすぼめるセレスティアが可愛い。

 少しずつしか食べられないけれど、長い空腹の後には丁度いいのかも。

 木の実も食べてみた。

 よく市販されているようなナッツみたいな食感だけど、味気ない。

 加工された物は味つけされているのだから当たり前か。

 あ、でも噛んでいるとほんのり甘いわね。

 と、夢中になって味見をしていたけれど、一つ気になって聞いてみた。


「あれ? ルフィアスは食べないの?」


 私たちに食事を勧めてくれたルフィアス自身は、火の向こう側でまだ何かの作業をしていたのだ。


「もう食べたよ。集めながら」

「……ふ~ん。いまはまた、何かの作業中?」

「うん。魚、焼いてるとこ」

「さ、魚?」


 覗きこんで見ればその言葉通り、小振りな魚を片手に持ち、それを鋭く削られた木の枝で串刺しにして地面に突き刺し、焚き火で炙っているところだった。

 ルフィアスの身体の影に隠れて気づかなかったけれど、大きな葉に包まれた獲れたての魚が地面に置いてある。

 そこに手を伸ばし、またもう一つ、黙々と串刺し魚を作り始めた。


「え、いつの間に獲ってきたの?」

「……さっきと同じ質問だね。答えも同じだよ」


 苦笑するルフィアス。


「そうなんだ。仕事早いね……」

「まぁ、俺には【翼】があるから」


 言われて思い出すと、確かにあの戦いのときにも背中に光る翼が現れていて、もの凄い速さで動いていたわね。

 でもあれって、一体どういう原理で?

 いまは背中から何も生えていないし、出し入れ自由自在?

 色々と疑問は尽きないが、さて何から聞こうか。


「ねぇ、聞いてもいい? その翼って、何なの?」


 これが最も単純だけど、一番深い質問かも。

 そんな翼がある人間の話なんて聞いたこともないし。

……いや、待てよ?

 そう言えばお伽噺か何かで、昔聞いたことがあるような気もする。


「さぁ? 俺にも分からないよ。気づいたらいつの間にか備わっていて、使い方も何となく分かってた。便利だけど危ない力だからって、親からは特別な場合を除いて使わないように言われてたな」

「ふぅん。特別な場合って?」

「命の危険があるときとか、誰かを助けたいときとか」

「……どうしてあのとき、助けてくれたの?」


 矢継ぎ早に質問を投げかける。

 年下の子を急かすように。

 いつもならこんな真似しないのに、何故だろう?

 知りたい……そう、知りたいのだ。

 彼を、ルフィアスのことを、もっと。


「どうして? えーと……助けたいと思ったから、だね。暴力を振るわれていたし、そのまま放っておいたら、売り飛ばされそうな会話も聞こえてきたし」

「……もし、その売り飛ばされる理由が、私の側にあったとしたら? それでも助けて良かったと思える?」

「……え?」


 驚いた顔でこちらを見て、ルフィアスは固まる。

 そのまま何か思案するように視線を下げて巡らす。

 嫌な、答えづらい質問よね。

 助けた側が悪だった――私の言葉はそういう可能性を含んでいるのだから。

 もう取り返しのつかない状態になったあとの質問としては、非常に意地の悪いものだ。


 けれど、やがて顔を上げたルフィアスの目には、一目で結論が出たんだと分かるほどの、強い光が宿っていて。


「それでも良かったと思うよ。後悔はしていない」


 きっぱりと、そう言い切った。

 私の瞳を見て、真っ直ぐに。

 後悔はしていない――そうする他なかったから、仕方ない。

 という心理だろうか。


「そう、なんだ……それは、どうして?」

「例え君に何かしらの原因があったとしても――だからと言って、彼らに裁く権限があったとは思えない。まぁ、それは勿論、勝手に死刑を以て彼らを裁いた俺にも言えることだ。俺にもっと力があれば……彼らを生かしたまま制圧するだけの力があれば、殺さずに済んだから。それでも……」

「……それでも?」


 言葉を選ぶように、伝えるための言葉を探すように俯き、ルフィアスはしばし沈黙する。


「……それでもあのとき、俺が君たち二人を助けずに自分だけのうのうと生きのびて、いま頃あの子たちは酷い目にあってるんじゃないか――なんて暗い想像をして、一生後悔を抱えたまま生きていくよりは遥かにマシだ。俺は、彼らを殺めたことに関して罪の意識を持ってはいるが、後悔はしていない」


 最後にこちらを捉えた瞳は、やはり真っ直ぐなままで。


「そっか。ごめんね、試すような質問をして。ちょっと怖かったからさ……もし貴方が、ためらいも無く人を殺せるような人だったら、と思って」

「……いいさ。その恐怖を抱くのは当然だろ」


 そこで、会話が途切れる。

 私は次の言葉を探して、視線を暗い森に彷徨わせた。


「それにしても、ルフィアスは何歳なの? 私より歳下に見えるのに、私より考え方も言葉使いも大人っぽい……」

「十二歳。言葉使いや考え方がマセているのは、たぶん読書が趣味だからだと思う」

「あ、いいね読書! 私も好きだよ~。あ、ちなみに私は十五歳ね。えーと……セレスティアは? いま何歳?」

「んぐ……九才」


 食べながらも聞き耳を立てていたセレスティアは、山葡萄を飲み下して直ぐに返答をくれて――焦って飲みこむ仕草が可愛い。


「九歳かぁ。けっこうバラバラな集まりだね」

「でも、三つずつだから、おぼえやすい」

「三つずつ?」

「年の差が――ってことでしょ?」

「ああ、なるほど」


 ルフィアスに言われて気づく。

 九、十二、十五歳と、三歳ずつ離れている。

 思えば、最年長である私がもっとしっかりしなきゃならないのに、この二人には助けられてばっかりだなぁ。


「私が一番歳上なのに、二人には助けられてばかりだね」

「一番凄いのは、セレスティアだと思う。俺は、一人で飛びこんだその勇気に動かされただけだよ」


 褒められた当の本人は、じーっとルフィアスの方を見ているが――


「……さかな、焼けた?」

「あ、ああ、これは焼けたかな。どうぞ」


 そんな話よりも食い気らしい。

 見ていたのは魚の焼け具合だった。


「ふふ、この子は大物になりそうね」

「確かに。普通こんな状況になったら、もっと泣いて取り乱しそうなものだ」

「それを言うなら、貴方もそうよね。切っかけはセレスティアだったかも知れないけれど、実際に暴力から助けてくれたのは貴方だし、いまもこうして野営の準備までしてくれて」

「自分にできそうなことをやっただけだ。ところで……魚、食べる?」

「ありがとう。こういう野外生活の知識は、本から得たの?」


 差し出された串焼きの魚――良く焼けて表面に焦げ目がつき、脂が滴るそれを受け取りながら、問を投げかけた。


「いや、これは親から教えてもらった。ときおり家族でこういう森にキャンプに来ては、何も道具のない状態で生きる術を叩きこまれてね……」


 そう語るルフィアスは、若干虚ろな、遠い目になっている。

 どんな叩きこまれ方をしたのだろう……?


「そうなんだ。こういう状況を想定していたのかな? じゃあこの暖かさは、親御さんのお陰だね」


 焚き火の暖かさ、食事の温かさ、人との関わりがあるあたたかさ。


「そう、だね。色々と厳しく仕込まれはしたけど、いまは感謝してるよ」


 ルフィアスは困ったような苦笑を浮かべて、そう言った。

 そして、その表情に暗い影を落とす。

 ご両親がいまどうしているのかなんて、とても聞ける雰囲気じゃないな。


 それについてはこの子――セレスティアも同じか。

 ほとんど喋ることはないけれど、それは、その内に渦巻く様々な感情が表に出てこないように押しとどめているから。

 それらが溢れないように、制御できる範囲内で収まるように、必死にとどめているだけ。

 けれどもう、流石に限界を迎えそうに見える。

 どこかで吐き出さないと、器が壊れてしまいそうな、そんな気がした。


「セレスティア」


 なんて考えていたら、ルフィアスがセレスティアに話しかけていた。


「……ん?」


 魚を食べ終わって再度木の実に手を伸ばしていたセレスティアは、呼びかけに応じ、二人の視線が交わる。


「何も聞こうとしないが、知りたくないのか? 何故自分がここに居るのか、とかさ」

「…………」


 セレスティアは俯き、無言になってしまった。

 しかし、どういうことだろう?


「ねぇルフィアス。セレスティアのこと、何か知ってるの? 初対面、じゃなかったの?」


 さっきまで、お互いの名前も知らない仲、だったよね?

 それを考慮すると、先ほどのルフィアスの発言には首を傾げてしまう。


「確かに今日が初対面だが、アルミナと会う前に、少しセレスティアと行動を共にしていたんだ。もっとも、セレスティアは長く昏睡状態だったけどな。目が覚めて俺を見た途端に、何故か逃げられてね」

「……だって、ゆうかいはんだと思ったし」


 ぼそっと、セレスティアがそう呟くように話しはじめた。

 ゆうかいはん……誘拐犯?


「ああ、そう誤解したのか」

「ごかい? ゆうかいはんじゃないのだとしたら、わたしをいくらで買ったの?」

「……は? どういう意味だ」


 セレスティアは俯いていた顔を上げて、キッとルフィアスを睨む。

 その瞳に宿るのは、憎悪か。


「だから、あなたはわたしを、わたしの【親】からいくらで買ったのかと聞いているのよ」


 え、それって人身売買?

 その小さな口から発せられた衝撃的な内容に唖然としていると、それはルフィアスも同じだった。


「……買ってない。というか、何故そうなる? 君は自分の親に売られる予定でもあったのか?」

「そうよ。わたしはいつも商品あつかいされてきたわ。『お前にはこれだけ金をかけているのだから、それに相応しい結果を出してもらわないと困る』というのが父さまの口グセですもの。ゆうかいでもなく、買ったわけでもないなら、やっかいばらいで押しつけられたのかしら?」

「金をかけているからって……それは母親もそう言ってたのか?」

「母さまは……いつも父さまのいいなりだったわ。父さまの言葉に、ただ従うだけの人」


 そう言ってセレスティアは、また表情をなくし、何かを押さえこむように視線を落とす。

 お金をかけているからと言うのは、何に対してだろう?

 衣食住に関して良い環境を与えているから?

 あるいは習いごとなど、教育関連に力を入れているという場合もあるか。

 いずれにしても、【だから結果を出せ】なんてのは、商品あるいは事業への投資家が使う台詞と変わらない。

 それは投資に対して【見返り】を求める行為であり、親からの無償の愛とは言えないわね。


「そうか。なら親の話なんてあまり聴きたくはないだろうが、その最期を見た者としては伝えなきゃならないと思うんだ。良ければ……聞いてくれるか?」

「……さい、ご?」


 セレスティアは【最期】という言葉に動揺を隠しきれない。

 それは言うまでもなく死を意味しているのだから、当たり前か。

 どれだけ憎しみを言葉にしてみても、それは愛の裏返しなのだろう。

 愛しているからこそ、憎い。

 報われない一方通行の愛が、悲しくて。


「……聞かせてよ」


 少しの沈黙の後、意を決したらしいセレスティアは先を促す。

 それに応えて、ルフィアスは一つ頷き、語り始めた。


「今日の昼過ぎ、俺たちがいた街【アキノス】は、黒い魔物に襲われた。あれは恐らく、【黒死魔性フォビュラ】だと思う。それは覚えているか?」

「……うん」


 自分も経験したはずのことなのに、言葉で聞いても、それが本当に現実のことだったのかと疑いたくなる。

 それほどに非現実的で、信じがたい出来事だった。


「俺はそいつらに家族を殺されて、一人空を飛んで逃げていたんだが……」


 あの翼は、見た目通り飛行能力があるのね。


「……途中、緩やかに落ちていく走空機を見つけた。船は巨大な【黒死魔性フォビュラ】に破壊されて側面に大きな穴が開いていた。そこから人影が見えたから寄ってみると、一人の女性が、船から落ちそうな小さな女の子を、必死にその細腕で繋ぎ止めているところだった」

「…………」

「小さな女の子ってのは、君だ、セレスティア。そして女性の方は、セレスティアと良く似ていたから母親だと思うが、どうだ?」

「そう、だと思う。いっしょに走空機に乗ったから」

「そうか……」


 そこで一度、ルフィアスが押し黙る。

 伝える言葉を探すように、選ぶように、目を閉じて考えているようだ。

 そして――


「……君の母親は、全身に傷を負っていた。いまの俺よりも酷いレベルでだ。出血多量で気を失っても可怪しくないくらいに血を流していて、けれど決して君の手を離さなかった。俺が追いついて下から支えたら、安堵したような笑みで『どうかこの子をお願いします』とだけ。他の言葉はなかった。自分を助けて欲しいとさえ、彼女は言わなかった」

「……そう」

「この意味が分かるか?」

「……なにが?」


 ルフィアスの眼光の鋭さが、増す。


「最期の最後で、人の本性ってのは垣間見えるものだ。俺が見た君の母親は、少なくとも、自分の命よりも君を大事にしていた……オマエを愛していた。この意味を、しっかり分かってんのかって聞いてんだよッ!!」

「…………っ」

「どれだけ日常で嫌な思いをしてきたのか知らないが、それはオマエにしか分からないかも知れないけどな……それでもいま、生きていられるのは……生まれて来られたのは、親のお陰だろうがッ!!」

「………………ぅ……」

「その一点だけでも、感謝しといてやれよ……」

「ルフィアス、もういい。もう、伝わっているから」


 私は、すでに悲しみで表情が歪み言葉にならないセレスティアを抱きしめながら、同じく大粒の涙を流すルフィアスに向かってそう言った。

 すると腕の中から、堰を切ったように慟哭が響き渡る。


「……ごめん。言い過ぎた。少し、席を外す」


 震える声でそう言うと、ルフィアスは立ち上がって私たちに背を向けて、こちらの返事も待たずに闇の中へと消えてしまった。

 残された私は、泣いていた少年の残滓と、泣き続ける少女を見て思う。

 親からの愛情を少しでも感じられて、羨ましいなぁ、と。


 私には、そういうものは一切なかったから。

 だから、産んでもらって感謝とか、そんな根本的な想いさえ抱けずにいる。

 こんな人生ならば産まないで欲しかったって、ずっとそう思ってきた。

 少年と少女が泣く理由が、私には――頭では分かっても、根本的な感情の部分で理解できない。

 感情を、【心を読む力】を以てしても、その想いの全てを汲むことは、できなかった。



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