七
午前十時半。リヒテスホールのロビーに桃香が現れる。
いつもと変わらない服装。白いワイシャツの上に濃紺のジャケットを羽織り、下は七分丈の黒いデニム。派手な装飾よりも機能美を追求したファッション。いつでもどこでも取材で駆けつけられるように、動きやすさを何よりも大事にしている。
そんな飾り気のない部分も、透は好きだった。
「おはようございます」
透はゆったりと入ってくる桃香をロビーの中で出迎える。
「今日はお招きいただきありがとうございます」
桃香はうっすらと笑顔を浮かべながら言う。
「珍しい楽団ですね。ステージマネージャーが燕尾服を着て対応してくださるなんて」
「今日は特別仕様なので。客席までお送りいたします」
「まるでVIPだわ。お願いします」
透は桃香から取材道具が詰め込まれた大きなトートバッグを預かり、ホール内へと歩き始める。
「お飲み物は何か飲まれますか?」
「そうですね。普段はワインをいただくんですけど、こんな朝早くからホールに来たことないし、どうしようかな」
「アルコール類以外のお飲み物もございますが」
「コンサートを聴きにきてソフトドリンクを飲むなんてそんな野暮なことはしたくないわ」
「お客様、それは偏見でございます」
「来賓に向かってステマネが口応えしないでくださる?」
「観客に対するマナーの啓蒙もステージマネージャーである私の大事な役目でございますから」
冗談を言い合い、笑うながら二人は歩く。
いつもの時間、いつもの空間、いつもの雰囲気。
この時間を、いつまでも続けていたい。
この時間が、途切れることなく続けばいい。
透は強く思う。
階段を上がり、ホールの二階席に入ると、二人の前に空っぽのホールが現れる。観客も、演奏者も誰もいない。あるのは、舞台上に並べられた椅子と、指揮台のすぐ前に置いてあるグランドピアノのみ。
「今日は特別に、貸切でコンサート楽しんでいただきます」
「なんて贅沢な空間。まさかリヒテスホールを独り占めできる日が来るなんて」
「僕もこんな日が来るなんて、思ってなかった」
「それは、ホールを独り占めできる日が、という意味? リヒテスホールで演奏ができる日が、という意味?」
「もちろん、両方ですよ」
そして、愛する人にプロポーズができる日が、ということも。
「では、こちらにおすわりください」
二回席中央、舞台の真正面の席まで誘導する。
「低音フェチの桃香様のお気に入りは二階席上手側の席だと聞いておりますが、今回はピアノの演奏を存分に楽しんでいただくために、舞台正面の席を用意させていただきました」
「うむ、苦しゅうない」
桃香は透が示した席に腰を下ろす。透は桃香の荷物カバンを隣の席に置く。
「ほぼ無観客演奏会っていうことは、普段とセッティングの作り方も違いますか?」
「音が観客の方の衣服などに吸収されることなく反射しますので、少しだけ椅子を内側に向けています。反響音をなるべく含むような音楽に仕上がるはずです」
「なるほど。よく考えられてますね」
「仕事ですから」
透と桃香の視線は共に舞台上に注がれる。
静寂がホールの中に広がる。
濃密で、厳粛で、それ一つで芸術として成り立つような、静寂。
その静寂の中に二人はいる。
「私、透のピアノをちゃんと聴くのって初めてだ」
桃香は、いつもと同じ声のトーンで言う。
「そういえばそうだ」
「正直、透のピアノを聴くのが、今までは怖かったのかもしれない」
透は桃香の横顔に目を向ける。
「冗談でピアノ弾いてよって言うことは何度かあったかもしれないけど、本心では聴きたくなかったのかも。透が触れたくない傷に触っちゃうような気がして。ピアノを通して私の知らない透と向かい合いそうな気がして、怖かった」
桃香の表情には、うっすらと曇ったものが映っている。今までの交際の中で、透があまり見たことのない表情だった。
「でも、今なら聴けるし、聴かなきゃいけないと思う。過去の透もひっくるめて、透と向かい合わなきゃいけないから。向かい合わなきゃいけない時に来てるから」
桃香の視線は、舞台に、そしてピアノに注がれている。
「だったら、僕も桃香の過去と向き合わないといけないな」
透は静かに言う。
「それは、また今度ね」
「いつになるかな?」
「透の伝記を書き上げたら、それを読めばいいよ」
「僕が取材されているものを読んで、桃香と向き合うの?」
「そうよ。言葉っていうのはその人がそれまでの人生で摂取してきたものを如実に表す。私の人生で味わってきたことは、私の言葉を読めばわかるはず」
「なるほど」
笑顔に戻った桃香は、透を見る。
「今はね、すごく楽しみ。わくわくしてるよ、とっても」
いろんな想いが表情や行動に表出しそうになるのを透はぐっとこらえる。
「では、開演時間まで今しばらくお待ち下さい」
透は軽く頭を下げて舞台袖へと足を向ける。
開演時間の午前十一時まであと十五分。
透は燕尾服を着たままインカムを装着して、下手の舞台袖で待機していた。舞台に上がるまではステージマネージャーとして徹しなければならない、と透は強く誓った。ステージマネージャー、そして演奏者としてどちらの振る舞いも怠ることなく完結させなければならない。
『透くん、大丈夫?』
インカムから音葉の声が聴こえる。ホールレンタルをするということは音葉たちホールスタッフもレンタルするということであり、この特別公演もホール主任である音葉が仕切っている。
「心臓が高鳴りすぎて体がびくびく痙攣してます」
『大丈夫、いつもの透くんだ』
いつもはこのインカムからは業務連絡しか聞こえてこない。舞台に入るタイミング、照明をつけるタイミング、指揮者を送り出すタイミングなど、このインカムを通して飛び交うのは純粋な「情報」だけだった。
しかし、今日は違う。
『透くんが舞台に上がってからの流れはこっちに任せて。透くんは演奏に集中してくれればいいから』
「恩にきます」
『何言ってんの。今日の透くんはお客さんでしょ。お客さんとしてお金払ってホール借りてもらってるんだから。私は私の仕事を遂行しなきゃね』
インカムの向こう側にある音葉の笑顔を思い浮かべながら、透は舞台に目を向ける。
「音葉さんと出会えてよかった」
『何言ってんの。これからプロポーズしようって人が。他の女にそういうこと言うもんじゃないよ』
「いえ、音葉さんが女だろうが男だろうが、出会えて本当によかった」
『なにそれ、どういう意味よ』
音葉はくすくすと笑う。
『その言葉、演奏が終わったら直接聞かせて』
「もちろんです」
そこでインカムの音声は途切れた。それと同時に、舞台袖に楽団員たちが集まってきた。
みなの視線は透に注がれ、そしてみなの表情には笑顔が浮かぶ。
「なんつー格好だよ、それ」
ファゴットを携えた秦が笑いながら透に歩み寄ってくる。
「燕尾服にインカムって。あべこべもここまでいくと正常に見えてくるわ」
「仕方ないだろ。普通のジャケットで舞台に上がるわけにもいかないし」
「まぁ最高に似合ってるから許すよ。うん、この世界でこの格好が似合うのは透しかいない」
秦がそう言うと他の楽団員も笑い声をあげる。
「いいから並んでください。早くしないと開演時間に間に合いませんよ」
透は顔を赤らめながら楽団員に指示を飛ばす。
並んでいる楽団員たちの横を通ると「がんばれよ」「多少のミスタッチなら桃香ちゃんも聴き逃してくれるよ」「透が途中で止まってもこっちは演奏止めないからついてこいよ」「ブラームスに失礼のないような演奏をしてね」などと透に向かって叱咤激励を浴びせる。透は困った笑顔を浮かべながらそれらの言葉を浴び続けた。
開演五分前。
開演を告げるチャイムがホールに響く。客席の照明がゆっくりと落ちる。
それとほぼ同じタイミングで、透は楽団員を舞台へと促した。
楽団員たちは透の肩をぽん、ぽんと叩きながら一人ずつ舞台へと向かう。透も、その声なき声援に対して笑顔で応える。
上手側からも楽団員たちが入場し、自分の席へと向かっていく。
透はその光景を固唾を飲んで見守る。
夜通しかけて作り上げたセッティングに、楽団員たちが腰を下ろす。
その後、椅子を動かす者も、譜面台の高さを調整する者も、誰一人としていなかった。全員が配置された椅子に満足して腰掛けている。透は強く拳を握った。
「透くんの最高傑作だね」
舞台袖にただ一人残された堀内が言う。
「はい」
透は短く応える。
「じゃあ、舞台で待っているから」
堀内はいつも通りの柔和な笑顔でそう言って、舞台へと上がる。
コンサートマスターの登場に、客席から小さい拍手が聴こえる。
一人分の拍手。広いホールにあっという間に吸収されてしまいそうなか弱い拍手。
しかし、その拍手は透が最も求めている拍手でもあった。
透はその拍手を聴いてから指揮者である横溝が控える楽屋へと向かう。それと同時に透の背後ではチューニングが開始される。Aの音を中心として、音楽が広がっていく。まるで水面に落とした水彩絵の具のように、じんわりと、そして鮮やかに音が広がっていく。
透が扉に手をかけようとしたタイミングで扉が開いた。
扉の向こう側から、横溝奏一郎が現れる。
厳粛な表情、荘厳な白髪、厳格な出で立ち。
ずっと追いかけ続けた存在。いつも手を伸ばし続けた存在。
その人と、今日、演奏を共にする。
そう思うと、透の胸には暖かい感情が膨らんで、いっぱいになる。
「私の後についてきなさい」
横溝は静かに言う。
「舞台に上がれば、上も下もない。私とお前は運命共同体だ。同等に切磋琢磨し、音楽を磨き上げる。そのことだけを考えろ」
「はい」
オーケストラとピアノがせめぎ合い、磨き合う。
その言葉を、透は胸に深く刻む。
「行こう」
横溝が言う。
透は頭に装着していたインカムを外し、テーブルの上に置く。
そして横溝の背中に続いて、舞台へと向かう。
いつも暗所にいた透を、舞台の照明が容赦なく照らす。
透は客席から聴こえるほのかな拍手を受けて、舞台の中心へと歩みを進めた。
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